2000年 6月11日 日曜日

第39話 苦しみは雨と風と暗闇と

 目を覚ます少し前、僕は夢を見ていた。

 夢の中の僕は小学生で、夏の暑い日差しの中を走っていた。


 そして、僕の手を引き、前を行く少女。

 いや、見た目だけならば、男の子と間違えそうなのだし、仕草や喋る言葉も全く女の子らしさがない子供だったのだけれども。


「早く行こうぜ健太郎。新しい奴、手に入ったんだ」


 当時の、髪の毛が短いガオちゃんは、見た目は思いっきり男子みたいで、当時の同級生の誰よりも体が大きく、力持ちだった。

 走る脚も僕よりもずっと早く、僕は若干引きずられているような形で後ろを走っている。

 ふと、夢を見ている僕は、嫌な事を思い出した。

 向かっている先が、僕ら二人の秘密基地だったからだ。

 その場所は町境を流れる川の、大きな橋の下で、ガオちゃんがどこぞから手に入れた大人向けの本――平たく言うとエッチな本だったりを隠してるダンボールが持ち込まれた場所で、ガオちゃんから『教えるのはお前だけだぞ』と言われている場所だった。

 そして夢の中のガオちゃんは、到着するなりエッチな本を見せつけて来た。


「うはっ、でっかいおっぱいだ! 見ろよ健太郎!」


 それは長い髪の、にっこり笑っている女の人が写された写真のページで、頭に兎耳のカチューシャをつけていた。上半身は裸だった。

 純真な子供っぽさを感じるような可愛い顔をした人で、それでいて、ガオちゃんの言う通り、胸がとても――


「やめてよ、ガオちゃん」


 僕は慌てて手で顔を隠しつつ言ったが、実は指の隙間からチラリと見てしまっていた。

 これは仕方がない事だったと思う。事実、止めようがなかった。

 夢の中で、僕はすっかり小学生に戻ってしまっていたのだ。

 この頃の、育ちつつあった僕の性的な興味は、どうしようもなく、自分では止めることが出来ない。

 そんなわけで、夢の中の僕は、その女性の綺麗な肌の色や、大きな胸の……自分とは全く違う色と形をした胸の先端だったりに頭をくらくらさせている。

 そして、そう言った僕の覗き見行為はガオちゃんにはすっかりバレてしまっていた。


「ケケケ、しっかり見てんじゃん。このスケベ」

「ガオちゃんが、見せるから」


 言いつつ、僕は見るのを止めることが出来ない。

 顔を覆う振りをしている手の指がワナワナと震えるのも分かったし、目がまばたきも出来ないで開かれているのも理解できていた。

 そして、そんな僕を見たガオちゃんはケケケッと笑い、僕の手を掴むのだ。


「恥ずかしがってんじゃねぇよ。手、どけろ。見るならしっかり見ろって、ほら」


 酷いセクハラだった。

 ガオちゃんはにやにやと笑いながらなおもページをめくり、言う。


「いや、でも、スゲー綺麗な女の人だよな。髪長くて、スタイル良くて、顔も可愛くて」


 言った後、ガオちゃんが本の写真を数秒間たっぷり見つめて、その後で言葉を続けた。


「なあ、健太郎は短い髪より、髪の長い女の方が好きか?」


 僕はその問いに、うん、と答える。

 そして、言ってしまってから何か間違った答えをしてしまったのではと、不安になっている。

 しかし、意外にもガオちゃんの反応は静かな物だった。


「そっか」


 ガオちゃんは自分の短い髪を軽く揺らして、フンと寂しげに鼻で笑うと、言った。


「まぁ、いいや。だったら、嬉しいだろ、これ。ここの本、健太郎に全部やるからな。大事にしろよ、健太郎」


 その言葉で僕は、今見ているこれらの光景が、過去に実際起きた事であると気づく。

 これは、ガオちゃんが遠くに引っ越す数日前の放課後だ。

 その日、僕らはその秘密基地を後にし、僕は、その秘密基地には二度と行くことがなかった。

 ダンボールに詰められていたガオちゃんのエッチな本達の行方も、僕は知らない。


 〇


 ――僕は現実世界で目覚める。

 2000年の6月11日。日曜日。

 ほのかに香るシャンプーの匂いに気づけば、目の前に長い髪の毛が落ちていた。

 ガオちゃんの物だと思うと同時に、あの時からずいぶん時間が過ぎたのだと実感する。


 夢の中で見た出来事はもう、5年も、6年も前の事だ。

 当時、捕まえたオタマジャクシを「最強のカエルに育てる」とか言うガオちゃんに付き合わされて、あの場所でこっそり飼ったりもしたが、途中で飽きたガオちゃんと川に逃がしたりもした。

 その時も僕が悪者扱いでガオちゃんに殴られたし、ろくな思い出もないのだけれど、今もあの場所が、変わらない形で残っていると良いなと思う。


 と、思い出を懐かしみつつ、ふとガオちゃんのベッドを見たが、ガオちゃんはいない。

 見回せばベッドどころか、部屋の中にいないようだった。


「ガオちゃん?」


 僕は小声でガオちゃんの名前を呼びつつ、部屋を出る。

 しかし、ガオちゃんは廊下はもちろん、風呂場にも、トイレにもいないようだ。

 昨晩夕食を食べた居間にもいない。

 ただ、そこにはテーブルにラップがかけられた食事と、僕宛ての書置きが残されていた。

 ところどころ漢字が間違っていたりもしていたが、読みやすく要約するとこうだ。


――――――


 健太郎へ

 ちょっと用事があるので、出かけてくる。遅くなるかもしれないけれど、家で待っててくれ。

 何をしてても良いけど、夜勤明けの母親が寝ている。今夜も夜勤なので起こさないでくれ。

 テーブルに食う物を出しといた、健太郎が食べろ。米は炊飯器の中にあるし、それも食って良い。ただ、冷蔵庫の中の料理は母親が今日の夜勤に出る前に食べる物なので、手を付けない様に。

 

――――――


 読んだ後、素直に食事をとることにした。

 テーブルにあるのは卵焼きに、スライストマト。キャベツの味噌汁。漬物の乗った小皿まであった。

 封を切っていないペットボトルのお茶も僕のための物だろう。遠慮なくいただくことにする。


 料理は冷めて乾いていたが、美味しかった。

 が、先日から続いている漠然とした不安は、この冷えた食事が喉を通るたびに、僕の心を苦しめていた。

 僕は、これからどうすれば良いのだろう。

 いつまでもガオちゃんの家にいるわけにはいかない。

 一度は自宅に帰らなければとも思う。 

 所持品を考えれば、替えの下着も無い上に、充電器が無かったせいで携帯電話のバッテリー残量も、半分近くが失われているのだ。

 ただ、また母と出会う可能性を考えると、それでも帰りたくないというのが僕の本心だ。


 と、そこまで考えていた時、僕は思考を中断せざるを得なかった。

 突然、携帯電話の着信メロディが流れたのだ。


 画面を見ると、公衆電話からの着信らしい。

 もしかすると一条さんからの連絡かもしれないと思いつつ、元気に鳴り続けている着信メロディでガオちゃんの母親が起きていませんようにと、祈りながら通話のボタンを押した。


「もしもし?」


 だが、聞こえて来たのは一条さんの声では無かった。


『ごめん、私、武雅むがだけど』

「武雅?」


 武雅まつり。

 僕のクラスメイトで、内野之うちののと仲が良かった、女子である。

 と、一瞬、内野之から聞いた昨日の言葉が甦った。


 ――少しだけ。もう少しだけ、自分を見ている人に気づいてあげて。本当に少しだけで良いの。まつりちゃん、素直じゃないから分かりにくいけど、ちゃんと――


 しかし、気まずさを感じる時間は無い。

 武雅の雰囲気がどうもおかしい。

 どうしたのかと言いかけたが、それは武雅まつりの沈痛な声で遮られることとなった。


『優子がどこにいるか知らない?』

「優子って、内野之? 知らないけど」

『そう、だよね』


 武雅は沈黙した。

 だが、武雅が泣いているのは、電話を通しても伝わって来た。


「内野之に、何かあったのか?」


 僕の質問に返って来た武雅の言葉は、僕の心をかき乱すのに十分な内容だった。


『行方不明なの。昨日の夜、家でどこかに電話した後、出かけて、それから朝になっても、家に帰ってないって』


 電話と言うのは、多分、ガオちゃんへの電話だろう。

 ガオちゃんはその内野之からの電話で僕の状況を知り、すぐさま自転車で僕の家に向かったと言っていた。

 内野之は内野之で、電話の後に出かけたと言うのか。

 そしてその後、内野之は行方不明になったと武雅は言っている。


「それは」


 言いかけて、口ごもる。

 二つの予測が頭に浮かんで来ていた。

 それらはどちらとも、僕らにとっては悪い予測でしかない。

 ろくでもないと思いながらも、僕は言った。


「外貝と一緒なんじゃないか? あいつの家に泊ったとか」

『私もそう思って、人づてで外貝と連絡をとったけど、知らないって。昨日会うつもりだったのに、優子がドタキャンして、それっきり連絡も取れてないって。それで、外貝も探してるって』


 それなら内野之はどこに行ったと言うのか。

 先ほど考えた予測がもう一つある。

 これは最も悪い展開だ。

 僕の脳裏に、今まで見て来た無残なの姿が甦る。

 そして、それは武雅も想像していたのだろう。


『優子の親と警察にも行って、話だけは聞いてくれたけど、家出だのなんだのって言われて、返されちゃって。優子、どこにもいないの。誰も、どこにいるか知らないし、私も、もう、どこを探したら良いのか』


 最早もはや、電話先からのは、隠れていなかった。

 それは、、という恐れ。

 一度そう思えば振り払う事なんてできやしない。

 探しても見つけられず、どうしたら良いのか本当に分からなくなり、藁にも縋る気持ちで僕に電話をかけて来たのだと言う事が、本当に良く分かった。


 しかし、と僕は思う。

 事件がまだ解決していない時期、しかも今までの犠牲者と同じ学校の生徒で、さらには事件の被害者とも接点のある女生徒が行方不明だと言う状況に、どうして草蒲警察署の連中は雑に扱うのだろうか。

 これが、本当に警察と言う組織なのか?

 いや、警察でも事件の被害者を想定をして内野之を探している可能性もあるけれど、武雅のこの様子を見ると、門前払いに近いような対応をされたと言うのがたやすく想像できる。

 この忙しい時期にこんな話を持って来られるのは迷惑、とでも言われたのだろう。

 最も、これは僕の草蒲署のイメージが地の底にあるからこその想定なのかもしれないけれど。


「武雅は今どこに?」

『八束駅の近く。夢川田さんと、田中々さんにも手伝ってもらって、探してて、みんなで』


 しゃくりあげ、泣きながら言う武雅の声を、なだめるようにして僕は言った。


『落ち着いて。俺も探すの手伝うよ。すぐ行くから』


 武雅の泣き声は止まらない。


「ねぇ、優子、大丈夫だよね? 殺人事件で殺されたの、新郷禄って先輩と繋がってた人ばかりだし、大丈夫だよね?」


 僕は、あくまで優しく、余裕のある声で言葉を続けた。


「大丈夫。きっと見つかるよ」


 そうだ。そうだよと、僕は思う。

 考えてみれば、今まで犠牲になったのは、みんな新郷禄先輩が作ったグループのメンバーだ。

 薬師谷先輩も、伊藤巻も、笹山村さんも、そして新郷禄先輩本人も。

 被害者に共通する事柄と言ったらそれしか無い。

 だったら、内野之は関係無いはずだ。

 もし狙われたのが新郷禄先輩の繋がりならば、内野之が殺人事件の標的になる理由なんて、どこにも無い。

 昨日、僕と話をした後、外貝と会うのが本当に嫌になって身を隠しているだけの可能性だってあるじゃないか。

 きっとそうだ。


 僕は「今すぐ行く」と武雅に言い、電話を切った。

 ガオちゃんの家から八束駅は、少し遠い。

 今すぐ向かわなければならない。


 僕はテーブルの上にあったペンを取り、ガオちゃんの書置きの下に文章を書き連ねた。


―――――


 ガオちゃんへ。

 内野之が行方不明です。武雅がみんなと探しているらしいので、俺も探しに行きます。

 帰ったら、携帯電話に電話をください。

 番号が分からないといけないので、番号は下に書いておきます。


 090ーxxxxーxxxx


―――――


 僕はガオちゃんの家を出た。

 土地勘は無かったけれど、昨日の夜、ガオちゃんの自転車で通った道を思い出し、駅へ向かう。

 一度家に帰り、自転車で行った方が行動範囲的に広くなる気もしたが、帰る気にはならなかった。

 母が怖かったのもある。

 だが、それよりも、一刻も早く武雅に会って、落ち着かせてやりたかった。



 電車に乗り、八束駅に着く。

 時刻は午後4時を回っていたが、外はまだ暗くない。

 雨の勢いは多少小降りにはなったが、降り続けている。

 途中、僕はコンビニで傘と小さなお菓子を買い、携帯電話をビニール袋に入れた。

 これは携帯電話が濡れるのを避けるためである。

 新郷禄先輩と会った日に濡れた携帯電話は、応急処置的にバッテリーを外して乾かした。

 そのおかげか今も問題なく使えてはいるのだけれど、今日はあの日以上の雨が降る気がして、少し不安だったのだ。

 そう言う事を考えられるくらいには、僕は冷静だった。

 内野之はきっと無事だと言う、願いにも似た心持ちで、僕は武雅との合流場所へ急ぐ。


 だがしかし、僕が武雅との合流場所に到着する前に、僕は足を止める事となった。

 もちろん、自分の意思ではない。

 いきなり前方を塞がれたのである。

 戸惑った僕が見たのは、傘を差した、僕に対する悪意をまるで隠さない雰囲気の男たちだった。

 人数は三人で、完全に僕を歩かせないつもりらしい。

 気づいた時には取り囲まれる形になっていた。


「何ですか?」


 思わず言った声に、男の一人が応えた。


「何ですか、じゃねぇよ。宝田、探してたんだよ、お前を」


 聞き覚えのある声に、顔を上げる。

 そして、ヘラヘラと笑う男の顔を見て、気がついた。


「外貝?」


 言った僕は、外貝に胸ぐらをつかまれて、頬を殴られる。

 痛いと思うより先に、いきなりの暴力に僕は驚いていた。

 外貝の後ろにいる二人は、怒り心頭と言った顔と態度で僕を睨みつけ、そのうち一人が言う。


「こいつか? 間違いないか?」


 外貝が応える。


「ああ。こいつだ」

「くそっ、許せねぇな」


 全く話が見えない。

 男たちは完全に頭に血が上っているらしい。

 どういうことか聞きたかったが、何か言えば、それだけで殴りかかってきそうだった。


「まだ待て。ここじゃ目立ちすぎる」


 外貝が男二人をなだめるようにして言う。

 この二人の男は誰だろうか。見覚えは無い。

 不良には見えないが、シャツから出ている腕は筋肉質で、体もでかい。

 別のクラス、あるいは別の学年。もしかすると他校の生徒なのかもしれないとも思った。


「宝田。ちょっと顔貸せよ」

「顔?」

「どっか他の所で話そうぜってことだよ」

「そんな事をしてる暇なんかないだろ。内野之が」


 言いかけた僕の言葉を、外貝が被せてかき消す。


「黙れよクソが。お前の事、最初に見た時からムカついてたんだよ。この卑怯者が。良いから来いよ、てめぇ」


 僕は拒否することが出来ない。外貝達に囲まれて、歩かざるをえなかった。

 両サイドには外貝が連れている男たちがいたし、どうにも逃げ出せそうにない。

 ずいぶん歩かされて連れていかれたのは、朝に夢の中で見たガオちゃんとの秘密基地のような場所――川にかかった橋の下にある、薄暗い場所だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る