第28話 新郷禄香苗は幸せを願う

 どう反応すれば良いのか分からなかった。

 今、新郷禄先輩に言われた言葉が、頭の中でやまびこの様に反響している。


『好きよ、健太郎』


 しかし、この言葉を聞いて思い出したのは、やはり笹山村さんの事だった。


『私、宝田君のこと好きだよ』


 返事をすることの出来なかった、笹山村さんの言葉だ。

 どうしようもなく、新郷禄先輩の言葉が笹山村さんの言葉と入れ替わっていく。

 笹村山さんを思い出すと、胸が苦しい。

 笹山村さんに抱いたあの想いを、僕は忘れたくないのだ。


「健太郎?」


 新郷禄先輩が、僕の名前を呼ぶ。

 だが、僕は返事をすることも出来ないで、固まってしまっていた。


「迷惑、だった?」

「いえ。そんなことは。でも、俺は、その」


 言葉を濁した僕を見ると、先輩は静かに目を伏せる。


「あのね、私と健太郎は上手くいくと思うの。知り合ってそんなに経っていないし、交わした言葉もそう多くはないけれど、私はそう感じている。私が家を出た後、自由になった私と貴方なら、ずっと二人で生きていける気がするの。二人で寂しさを埋めて、手を取って、支え合って」


 確かにそう言う気もする。

 僕は、きっと先輩の悪い部分も、汚れてしまった部分も受け入れて生きていくことが出来るだろうし、先輩は僕を唯一無二の、特別な存在だと想ってくれるだろう。

 きっと、新郷禄先輩はずっと僕のそばにいてくれる。

 きっと、お互いの寂しさに寄り添える。

 それは論理的な物ではなく、感覚として、ヒシヒシと理解できている。


 でも、例えそうだとしても、僕は笹山村さんを忘れることが出来ない。

 忘れたくない。

 だが、新郷禄先輩は、何の言葉も返せない僕に、さらに畳みかけて来た。


「ねぇ、健太郎。私、健太郎がいないと、本当に一人になってしまうの。そうなったら、きっと耐えられない」


 それは痛いほど分かる。

 殺人事件が起きてけからここまで、僕が笹山村さんを失ったように、先輩も失っているのだ。

 そしてそれは、ただ、命を失ったと言うだけではない。


「私が最も信用していた悦子は、私を襲わせようとしていた。木場下も、今井間も、保身で私から離れていった。伊藤巻信子は殺されて、歌玉紗枝も家から出られない。他には、貴方と、貴方の友達くらいしか、私が気軽に接せる人間はいないわ。私には健太郎が必要なの。そうじゃなきゃ、独りっきりで、私」


 独り。

 先輩は、僕と同じように一人きりの夜をいくつも越えて来たのだろう。

 きっと、クリスマスも、お正月も、誕生日も――僕と同じ様に、寂しい思いをして過ごしてきたのだろう。

 自由と不自由と言う、真逆の境遇ではあったとしても、それでも。


 僕には、僕を友達として振舞ってくれたガオちゃんがいた。

 例え乱暴者でも、僕の手を掴んで連れ回してくれたおかげか、決して孤独を感じることは無かった。

 でも、先輩には、人を雇って襲わせようとした薬師谷先輩や、先輩の援助交際に手を貸した宮井山さんみたいな、先輩を大切にしない人しかいなかったのだ。


 僕は、どうすれば良いのだろうか。

 先輩の心を想えば、了承したくもなる。

 だが、気持ちが先輩に傾きかけたところで、駅で田中々に言われた言葉が甦るのだ。


『ずっと、好きでいてあげられますか?』


 ずっと、笹山村さんを好きでいたい。

 少なくとも、今は好きでい続けていたいと思う。


 と、そこまで考えたところで、新郷禄先輩の後ろに田中々が座っていたのを思い出した。

 どうして今の今まで忘れていたのか。

 完全にここでの話を聞かれていたと思うけれど、このままではここで出す僕の答えを、田中々に聞かれてしまう。

 それは、なんとなく嫌だった。

 ここで答えを言いたくない。


「先輩。少し、時間をください。せめて、僕の心の整理が着くまで」


 僕はそう言うと、ジッと先輩の顔を見た。

 先輩は数秒間黙ったまま僕を返していたが、結局折れることにしたようだ。


「良いわ。貴方が私の気持ちに応えてくれるまで、私は待っても良いの。私は健太郎のことが好き。これは、嘘偽りのない、心からの気持ちだから」


 新郷禄先輩はそう言うと、「どう答えるにしても、決まったのなら連絡を頂戴。メールでも電話でもいいわ」と、付け加えた。


 話が終わる雰囲気を感じた僕らは、残っていたアイスコーヒーを飲む。


「ここのコーヒー。好きなの。アイスコーヒーも深みがちゃんとあって、美味しいでしょ? 今日は、少し苦すぎる気もするけど」

「はい」


 返事をしたが、アイスコーヒーは酷く冷たくて、味は良く分からなかった。



 店を出た僕は、新郷禄先輩を駅まで送ることにした。

 雨は柔らかく、風に舞うように空を踊っていて、傘を差してもなお鼻先や指の先を細やかな水滴が触れているが、それでも、僕らは濡れないように傘をさすしかない。

 傘に守られた狭い空間は酷く湿っていて、それでもどこか温かさを持っている。

 ふと、歩いている途中、新郷禄先輩が言った。


「そう言えば、あの男たちが言ったことを覚えてる? 自殺した、草蒲南高校の教師がいるって話」

「はい。覚えてます」


 胸糞悪い話だ。

 雇われたとは言え、複数人で女性を襲ってビデオに撮り、脅迫し続けて自殺に追い込んだと言う話である。

 僕としてはあの男たちは決して許せるタイプの人間ではない。

 先輩も同感の様で、あの男たちに襲われかけたのを思い出したのか、眉にしわを寄せていた。


「嫌な記憶になったわ。本当なら、あいつらのことなんて忘れたいくらいに。でも、気になったので一応調べてみたの。君原井きみはらいと言う女性教師が、確かに私と悦子が1年生の時――2年前の冬に辞めている。年齢は当時36歳。名前と年齢以外の事は分からなかったし、本当に死んでいるのかは調べられなかったけれど」


 多分、本来なら調べられたのだろう。

 本来なら、木場下先輩や今井間先輩と言った仲間も手伝ってくれたはずだが、それが出来なかったのだ。


「健太郎。傘、大変でしょう。私の背が高いから」

「別に平気ですよ」


 確かに、スラリと背の高い新郷禄先輩の高さに合わせるには、手を上げたまま傘を持つしかなかったが、そんなことは別に大変ではない。

 ただ、僕の肩に軽く触れている先輩の柔らかな体だったりの方が、僕にとっては深刻だった。

 だと言うのに、傘を持っている僕の手に、先輩は触れて来る。


「私も持ってあげる」

「い、良いですよ」

「持たせて。一緒に持ちたいの」


 そう言うと先輩は、傘を持つ僕の右手の上に、自分の左手をかぶせて来た。

 こうなれば、もはや振りほどくことも出来ない。


「また一つ、叶っちゃったな」

「な、何がです?」

「同世代の男の子と、こうして雨の中を一緒に歩くの。傘を二人で持って」


 クスクスと先輩は笑い、触れた手をわずかに動かす。


 ドキドキとしながらも、ああ、先輩は僕のことが好きなのかと、改めて思った。


 そして、僕は今。

 迷いを持っている自分に対して、酷く複雑な想いを抱いている。

 本当なら、先輩の申し出を受けたかった。

 笹村山さんの事をずっと忘れないことと、新郷禄先輩と一緒に生きることは、両立できるはずなのだ。

 でも、僕は僕自身の勝手な気持ちで、先輩の申し出に上手く返事を出せなかったのだ。


「健太郎。私ね、今、すごくドキドキしてる。健太郎の手、あったかくて安心できる。私、こんな気持ちを自分が感じられるだなんて、思いもしなかった」


 先輩は僕の顔を見ないで、そう言った。

 恥じらったように顔を赤らめたまま、ただ前だけを見ていた。


 だが、駅までの道の途中、僕らの前に思わぬ人物が現れた。


「香苗? こんなところで何をしている」


 それは眼鏡のハンサムだった。

 昨日会った、新郷禄先輩の従兄。

 宮井山みやいやまとおるである。


 先輩は、宮井山さんを見た瞬間、グッと、傘を持つ僕の手を強く握った。


「こっちのセリフよ。あなたこそ八束駅で何をしているの?」

「野暮用だよ。なぁ、江流田えるだ


 よく見ると、宮井山さんの後ろに江流田えるださんがいた。

 太っているのに、気づかなかった。

 存在感が薄いと言ったらいいのだろうか。


「ご、ごめん。僕の用事に付き合ってもらったんだ。車を出してもらって」

「まぁ、午後は俺の用事に付き合ってもらうがな」


 フンと鼻で笑った宮井山さんに、新郷禄先輩は首を傾げた。


「貴方みたいな人間にしてはお優しい事ね。ところで、用事って?」

「新しい棚を買うんだよ。こんなデブでも男の力が必要だったからな。手伝ってもらう」


 いくら何でも江流田さんに失礼では、と思ったが、江流田さんは情けない顔で笑うのみだった。

 一方で、新郷禄先輩は興味なさげに江流田を見たが、それでも言った。


「デブだなんて、友人に言う言葉ではないわね」

「友人?」


 宮井山さんはクックと笑った。


「こいつが友達なものか。俺に友達はいない。そもそも俺には必要無いんだ。こいつとは単なるギブアンドテイクの関係だよ。お互いに利用できる部分を利用し合うだけの、ただの利害関係でしかない」


 だが、これには江流田さんが口をはさんだ。


「ぼ、僕は、友達と思ってるよ。宮井山君は、僕の墓参りに付き合ってくれたんだ。花も買ってくれたし」

「墓参り?」


 新郷禄先輩が目を細めると、宮井山さんは鼻で笑いながら言い捨てた。


「くだらない用事さ。こいつみたいな感傷的になる人間には必要かもしれないが、俺には必要ないし、理解できない。言わせてもらうと時間の無駄だ」


 江流田さんは寂し気に「感傷だって言うのは、その通りだよ」と笑い、僕の顔を見ながら言った。


「君には昨日言ったけど、その、好きだった人の話。その人のお墓に行ってきたんだ。急に行きたくなって、それで」


 ああ、と思う。

 僕が写真に触れて、聞いたりしたたからだろうか。

 昨日は事情を知らなかったし、結果論にもなるのだけれど、笹山村さんに似ている女の人が写っていたからと言って、話題に出すべきじゃなかったのかもしれない。


「それに、宮井山君は優しいよ。捻くれてるって言うか、素直じゃないだけなんだ。今日だって、自分の手伝いにかこつけて、僕のために車を出してくれたし……」

「素直じゃない? 違うわね。宮井山のは本音よ」


 新郷禄先輩は、冷酷な声で言い放った。


「こいつは、何も嘘なんか言っていない。言葉に裏も表もないと言うのが素直と言うのなら、捻くれているという言葉は間違っているわ。宮井山が言ってた言葉に嘘なんかないもの。他人なんてどうだって良いのよ、宮井山は。楽しければ、それで」

「そうさ」


 宮井山さんが笑う。


「俺は誰が死のうと墓参りにはいかないし、友達なんかいらない。退屈をぶっ壊すような楽しささえ感じられれば、それでいいのさ。香苗、お前のことも俺にはどうだって良い。お前がどうなろうと俺の心は少しも動かない」


 一瞬。先輩が何かに感づいたかのようにキッと宮井山さんを睨んだ。


「宮井山。もしかして、私が襲われる計画があると知って、悦子に男を……」

「そうだと言ったら?」


 新郷禄先輩の眉がピクリと動く。


「だとしたら、私は貴方を」


 だが、宮井山さんは先輩の言葉を遮った。


「勘違いするな。別に知っていたと言うわけじゃない。ただ、薬師谷悦子が何を企んでいようが俺には関係が無かったし、そういう可能性もあるなと考えていた程度のことだ。もし、俺に火の粉が降りかかるようならば、薬師谷悦子との関係なんてすぐに切り離せた。薬師谷悦子が何しようが、俺には関係が無いんだ。だから、お前がどうなろうが俺にはどうでも良いことだった」


 宮井山さんはフンと鼻で笑った。

 悪意のある笑いだった。

 鼻で笑うだけでこんなにも感情を表現できるのかと驚きもしたが、宮井山さんは言葉を先輩に叩きつける。


「お前の性根の幼稚さにはうんざりしていたよ。大嫌いだった。体ばかりが女になって、心は子供そのものなんだからな。お前を知れば、誰だってそう思うだろうさ。断言してやるが、お前は死ぬまでずっと独りだよ。誰かに理解されたとしても、お前のような幼稚な人間性を、誰も愛せるわけがない。お前が困っても誰も助けないし、誰もがお前なんてどうでも良いと思うだろう。俺にとって、お前みたいな女と一緒の時間を過ごしたと言うのは人生の汚点だよ」


 先輩に何も喋らせないつもりの様だった。

 僕に触れている先輩の手が震えている。

 ぶるぶると。そして、その顔は血の気が引いて真っ青になっている。

 それでも、先輩は必死に言い返そうと口を開いた。


「わ、わた、し、私は」

「なぁ、健太郎とか言ったっけ? 香苗の今の男なんだろ? お前もすぐに俺の言っていることがわかるさ。お前もいずれ離れる事になるとは思うが、その前にこいつの体で遊んでおけよ。ベットの上じゃなかなかに尽くしてくれると思うぜ? 色々仕込んでやったからな。例えば尻に」


 そこまで宮井山さんが言った時だった。

 新郷禄先輩の手が、傘を持つ僕の手から離れたと思った瞬間、先輩は駆け出していた。

 駅とは反対方向に。


「せ、先輩!」


 先輩を目で追っていた僕は振り向き、宮井山さんを睨みつける。

 が、彼に構っている暇はない。

 このまま先輩を一人にはさせておけない。

 僕は、おどおどしている江流田さんと笑い続ける宮井山さんを置いて、今も走り続ける新郷禄先輩の背中を追った。

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