第4話

入学後のオリエンテーリングで知り合った墓場太郎のふたりと、初めての学食でソワソワしていた時だった。


カシャン。


そう聞こえた。聴き慣れたスマートフォンの軽いシャッター音ではなく、もっと機械的な、重たい音だった。音の出どころを探るために顔をあげたものの、学生でごった返す中では探しきれなかった。

その時は「誰かが食事の写真でも撮ったのかな」としか思っていなかった。


それが勘違いだと気付いたのはさほど後のことではない。

講義室を移動するために歩いている時、謙太郎から借りたノートをコピーしているとき、キャンパス内のコンビニでおにぎりを選んでいるとき、敷地内の噴水そばで肉まんを食べているとき、事務カウンターで忘れ物の上着を受け取っているとき。


ことあるごとにカシャンだかガシャンだか、そのシャッター音は聞こえてきた。

怪奇現象でも空耳でもない。注意して探せば音の発生源は簡単に発見できた。

大きなカメラをぶら下げた女が、撮った写真を確認するかのようにカメラを弄っている。


盗撮魔はこいつか。と、ただそう思った。


初めの一ヶ月は不快だからやめろと直接言ってやろうかとも思ったが、女がずいぶん嬉しそうな顔でカメラの液晶を見ているものだから、拍子抜けするほど簡単に怒りが吹き飛んでしまった。


知らない人間に盗撮されるのは初めてのことではない。駅で、高校で、ショッピングモールで、道端で、盗撮という犯罪はいとも簡単に行われる。その写真が何に使われるのかも重要だが、なによりも勝手に撮っていくその行為が不快だった。


私は野良猫じゃない。


メッセージアプリでやり取りしています、みたいな平然とした顔で、あいつらは人の姿を写真におさめていく。堂々とカメラを向けてこないあたりに、また腹がたつ。


だからだろうか。ゴツいカメラを堂々とこちらに向けて、デカいシャッター音を鳴らす盗撮魔に、なんて潔いやつ、とちょっと笑ってしまったこともある。

しかも、撮った写真をランドセルを買ってもらった子どもみたいな顔で眺めているのだ。悪用される、なんて考えることもしなかった。


直接会話をしたのは、昨年の大鷹祭でのあの瞬間だけ。

あれ以来、彼女は本人公認の盗撮魔となった。話しかけてくるわけでもなく、ファインダー越しにこちらを視姦してはシャッター音を残して去っていく。



名前も知らない盗撮魔が、私の教科書を見ている。


なんと声をかけたら良いかわからないまま、無言で教科書を捲る時間。二限の統計基礎学IIは、残り五分で終わる。

二年生学部共通の必修科目のため、彼女も同じ学部ということになる。ただほかの授業が被った記憶がないので、どうやら学科は違うらしい。


「えー、出席カードを回収します。裏に計算結果を書いて、えー、提出してください。えー……次回は、パソコン持参で……えー、はい、以上」


カードリーダーと学生証による出欠登録システムがあっても、大半の教授は学生を信用していない。友人に学生証を預けて自主休講、なんて者も珍しくないので、教授たちの疑いはもっともだ。

講義の最初に配られる出席カードに学生番号と名前を記して、ついでに裏面に一筆求める教授がほとんどである。おそらく解答の正否は二の次であろう。システムと出席カードさえ一致していれば良いのだ。


「はい」

「……え、ありがと」

「どういたしまして」


オレンジの小さな紙を渡してやると、小さなお礼が聞こえた。

出席カードは授業の最初に配られる。遅れてくると貰いそびれることが多々あるのだ。彼女が大講義室に現れる前に、出席カードの配布は終わっていた。


薄緑、オレンジ、白、紫、ブルー、グレー。六色の出席カードは色がランダムだ。学生がなるべく誤魔化せないように大学側も工夫を重ねているが、大学生というのは悪知恵の宝庫である。イタチごっこ、というのだろう。


かくいう私も、いつ遅刻をかましても大丈夫なように余分な出席カードを各色揃えている。一年生の頃からちまちま収集して、現在では各色三十枚ほど集まった。


新本聖


にいもと、しんもと……せい、ひじり……

読めるのに読めない名前だった。私も人のことを言えないが、これまたフリガナがないと困る人である。


彼女の視線が私の出席カードに向いていることに気づいていたけれど、いまさら自己紹介するのも恥ずかしくて気づかないふりをした。

出席カードが回収されると同時に、薄暗かった大講義室が明るくなる。


「あの、教科書とカード……ありがとう」

「いいえ、お気になさらず」


会話を続けるべきか、否か。筆記用具をリュックにしまっている盗撮魔をとりあえず横目で観察する。

座っていると目線はあまりかわらない。私が身長を盛っているせいか小さい印象だったが、実はあまり小さくないらしい。


盗撮する女と盗撮される女。何を話して良いものやら、結局答えが出なかったので、そのまま去ることに決めた。

立ち上がってカバンを肩に掛けたところで、なぜか重力に従ってお尻が椅子に戻ってきた。え、お尻痛い。

勢いがあったせいでそれなりに痛かったんですけど。


「あ、すみません……!」

「いえ。えーと、なにか?」


逆回しのように椅子に舞い戻ったのは盗撮魔のせいだった。私のケイトスペードのバッグを思い切り掴んでいる。形が崩れたら嫌なので、さりげなくその指を外してやる。

六万円するのだ、このお気に入りバッグ。受験を終えてから入学までのあいだ必死にアルバイトして、足りなかったぶんは祖母が出してくれた。


「前半のノート、見せてください」

「あぁ」


たしかに、統計基礎学IIを担当する教授はレジュメをくれない。講義のやる気はないくせに必修単位担当だし、評価はシビアで単位もあっさり落とす。

ほかの単位はとれているのに、この統計基礎学だけ取れずに留年する学生は珍しくない。温情措置も取ってくれないノモト教授は表情筋の乏しさ故に、ロボットとかけて"ノモット"と呼ばれている。

鷹取条南大学は一学年で取れる単位数が、学年にかかわらず五十単位で固定されている。進級のための取得単位数が決まっていない代わりに、各学年ごとに必修単位があるのだ。これをひとつでも落とすと、容赦なく留年の判が押される。


「私、写真に撮っちゃってるんだよね」


指先でつまんだスマートフォンを、盗撮魔の目の前で揺らす。目の前にニンジンをぶら下げられた馬のように、彼女の目がついてくる。右、左、右。

盗撮魔の顔面などあまり気にしていなかったが、存外目が大きい。肌も白い。緩くウェーブのかかった栗色のセミロングは艶やかで、手と金がかかっていることが伺える。


リップの色かわいいな。発色がいい。どこのだろう。


「うつさせてください」

「いいけど。うーん……お昼の約束してるんだよね、私」

「……だめですか?」


もじもじしてどもっている印象だったが、なんだ、きちんと喋れる人だ。勝手に根暗の陰キャだと決めつけていたけど、見た目も気を遣っているようだし、思ったより普通の女の子だった。


髪の色もかわいい。イルミナカラーかな。こんな片田舎にお洒落な美容院なんてないから、きっと大きな駅まで出てるのだろう。


左手首の腕時計を見る。昼の約束といっても相手は謙太郎と晃太郎だ。食堂の席はふたりがとってくれているだろうし、実のところ急ぐ必要はない。


「写真、送る?」

「……え、いいの!?」

「うん。急いで写すよりいいでしょ」


メッセージアプリをやっているか聞くと、赤べこみたいにぶんぶんと首を振った。

彼女の連絡先を知りたかったというより、彼女の名前の読み方を知りたかった。セイなのか、ヒジリなのか。ニイモトなのか、シンモトなのか。


表示された名前をちょっとだけワクワクしながら見る。


新本聖


おい。

おい。フルネーム、漢字。読み方わからない!

といっても、私も人のことを言えない。登録名は二橋瑞、漢字フルネームだ。


落胆を表情にのせないように、先程撮ったスクリーンの写真を即座に送った。


「ありがと……」

「どういたしまして」


じゃあね、と手を振って大講堂を出た。

私と新本聖の、シャッター音のない初迎合が終わった。

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