第十二話 館の管理人。

 ただひたすらに白い世界の中、私は漂っていた。上下の区別もなく、地面も空もない。ここはどこだろうと考えてみてもわからない。


『――月の光というのはね、愛のことなのよ――』

 この女性の声は誰なのか。懐かしいと思って記憶をたどっても、誰の顔も思い浮かばない。


『男女の愛、親子の愛、花や木への愛。何かを愛する心のすべてが月の光になるの』

 月の光を紡いだ糸というのは、愛を紡いだ糸ということなのか。


『――空に浮かぶ月達は、愛で出来ているの。この星からすべての愛が無くなれば、月は光を失い、形を失う』

 問いを口にしようとした時、体が急速に落下して行く。聞いたことを覚えておかなければと手を握りしめ、私はどこまでも落ちて行った。


      ◆


 目が覚めると美しい花の絵が見えた。ここはどこだろうと考えて、王子の館だと気が付いて飛び起きる。……何か、忘れてはいけないことがあったように思っても覚えていない。


「……痛……」

 強く握りしめた手が痛い。私は王子と話していた時のままの服をきっちりと着ていた。気のせいではなく背中や腕が凝り固まっているようで、首を左右に動かし腕を伸ばす。


 王子の前で泣いたことは覚えていても、その結末はわからない。眠ってしまった私を王子が運んでくれたのだろう。


 顔を洗ってみると、とてもすっきりとしている気がする。いつもどおりに口角を上げようとして、作り笑顔は必要ないと言われたことを思い出した。


 ……私は、何があっても笑顔でいなければと思い込んでいた。貴族の娘に自由などありはしないし、妻になっても同じだと諦めていた。


 怒っても泣いてもいい。それは、遠い夏の記憶の中。ロブと一緒にいる時だけの夢の世界が戻ってきたと信じていいのだろうか。


 私は一体何者になったのだろう。子爵家の娘から侯爵夫人になり、未遂とはいえ売られてしまった。店主が言っていたとおり、急死したと届が出されているのだろうか。……私を売ったダグラスも、関係者として捕まってしまったのだろうか。


 疑問は尽きない。……どのみち私が戻る場所はなく、死んでしまったのと同じこと。


 軽くベッドを整えて扉を開くと、信じられない光景が目に飛び込んで来た。

「た、大変!」

 長椅子に横たわっているのは王子。短い上着を体に掛けて眠っている。慌てて寝室に戻り、掛け布を抱えて駆け寄って跪いた所で、王子が動いた。

 

「ん? ああ、おはよう」

 仮面をつけたままの王子の微笑みが近すぎて、どきどきしてしまう。

「お、おはようございます。あ、あの……昨夜は申し訳……」

 掛け布を胸に抱き、謝罪しようとしたのに王子は笑って起き上がった。


「謝る必要はない。君の可愛い泣き顔を見れた」

 王子の笑顔で、さらに胸の鼓動が跳ね上がる。


「笑顔も可愛いが、泣いている顔もいい。次は怒った顔が見たいな」

 王子が私を立ち上がらせ、自分も立ち上がった。王子が首や腰を回し体を伸ばすと、密着したシャツの下の肌が透けて見える。肩にも背にも黒い鱗らしきものはなく肌色だけ。……私は何を期待しているのだろう。


「そうだ。体は痛くないか? 緊急時とはいえ、眠っている女性の服を緩めることはできなかった。すまない」

「だ、大丈夫です」

 私は王子を警戒し過ぎていた。よく考えれば、あの館でも私の体の異常を確認したのはマリーだし、抱きしめたのも理由がある時だけ。


「散歩をして、朝食にしよう」

 私が抱きしめていた掛け布を取り上げて、王子が長椅子に放り投げる。

「王城だと、きっと怒られるな」

「貴方が怒られるのですか?」


「『王子が物を投げるなんて!』『王子としての品格が!』『王子の自覚をお持ち下さい!』と徹底的に寄ってたかって怒られる。囲まれると結構怖いぞ」

 それは誰かの口調を真似しているのかもしれない。面白くて楽しい。


「この秘密の館なら自由だ。私が物を投げても誰も怒らない。ま、自分で片づける面倒があるが」

 肩をすくめて王子が笑うと、私も楽しくなってくる。


「さて、ここは女主人の部屋だ。外に出てみよう」

 床まである大きな窓は左右に開く扉状になっていて、外には白い石で出来たテラスが続く。テラスの先には湖が広がっている。


「ここから釣りをすることもある。大物を狙う時は、あの舟に乗って湖の中央まで行くんだ。舟に乘るのは、また今度にしよう」

 テラスの先は湖の上。覗き込むと澄んだ水の中に魚が泳いでいるのが見えた。階段が作られていて、小さな舟が繋がれている。


 王子の秘密の館は、湖畔の森の中に建っていた。白い石で出来ていて赤い屋根が可愛らしい三階建てで、部屋は二十五。そのほとんどは十年前に買ってからも使っていない。


「実は一度も扉を開けたことのない部屋もある」

「それは大変なことになっていそうですね」

 子爵家の屋敷にも開かずの部屋がいくつかあった。手入れのされていない部屋の酷さは知っている。


 館を眺めながらテラスを歩くと中庭に続いている。木や草が好き勝手に生い茂り、花壇には雑草しか生えておらず、良く言えば野趣あふれる庭。

「……えーっと、だな。私は果物が好きでも花には興味がなくて……。ここの改善もお願いしたいのだが……管理人の話を受けてくれないか?」

「……はい。お受けします」


 何者でも無くなってしまった私が生きられるのはここしかない。それに、この庭を改善するのは侯爵家の屋敷を整える以上のやりがいのありそうな仕事だと思う。

「良かった。ありがとう。種や苗は一緒に買いに行こう」

 

 生い茂る木や草をかき分けて歩いていると、ロブとの楽しい思い出がよみがえってくる。夏の間、私たちは湖畔の森や草原を歩き回った。


 庭を一回りして、別の窓から館の中に戻る。

「ここは館の主人の部屋。本来なら二階の奥にするべきだが、この場所が二番目にいい」

「二番目なのですか?」

「そう。一番いい景色が見える場所は女主人のものだ」

 その部屋を私が使ってもいいのだろうか。


 部屋には重厚な彫刻が施された茶色の家具が並んでいる。壁は本棚で囲まれ、厚い本がぎっしりと並ぶ光景は壮観。執務用の机と、座り心地の良さそうな長椅子。ここなら一日中でも落ち着いて過ごせるだろう。


「えーっと……先に言っておくが……その……」

「何でしょうか?」

「その扉の向こうが主寝室で、構造的に女主人の寝室と扉一枚で繋がっている。何かあった時の為に鍵は掛けていないが、緊急時以外は絶対に寝室に入らないから心配しないでほしい」

 一息の早口で告げられた言葉を理解するのに数瞬掛かった。


「は、はい」

 私を愛人にする為ではないと遠回しに言ってくれているのだと思う。耳を赤くした王子の引き結んだ口元を見ていると、私も恥ずかしくなってきた。


「ありがとうございます」

 疑問と不安だらけであっても王子の優しさが嬉しくて、私は素直に微笑んだ。

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