第十一話 涙の理由。

 梨を口にすると、瑞々しい果汁と豊かな芳香が広がっていく。遠い夏の日の終わりに、同じように剥いてもらって食べたことを思い出す。


 隣りに座って梨を口にする王子の腕には蛇の鱗は無い。それに、もしもロブならすぐに言ってくれるだろう。


「この葡萄は最近開発された新品種で皮もそのまま食べることができる」

 笑顔で赤紫の葡萄を勧められたものの、食べる気にはなれなかった。


「それなら、もう眠ろうか」

 王子の言葉にどきりとした。まさか一緒に? 愛人は必要ないと言っていたのに。


 身を硬くしながら、長椅子から王子の手で導かれて扉の前に立つ。どうしたらいいのかわからない。嫌だと言って拒んだらどうなるのか、想像したくなくて思考を手放す。


 扉の中は寝室だった。象牙色の美しいベッドには天蓋が付いていて、透ける布が幾重にも折り重なって吊り下げられている。

 

「この部屋は自由に使っていい。何か希望があれば言ってくれ」

 夢のような部屋だと思う。これ以上、何かあるかと言われても思いつかない。


「シャワーを浴びるなら、あの扉だ。マリーが基本的な品を揃えてくれてはいるが、足りない物があるかもしれない。申し訳ないが女性の好みはさっぱりわからないんだ」

 仮面をつけているというのに、何故か眉を下げて困ったような顔をしているように感じる。


「マリーが? あ、あの…‥マリーはいつ頃、ここに来るのですか?」

 後から合流すると言っていたと思い出した。


「二、三日後の予定だったが、明日来てもらうことにしよう」

「……予定があるなら、そちらに合わせて下さい」

 私の為にマリーの予定を変えることは避けて欲しい。私には何の予定もありはしないのだから。


「あの……マリーは一体?」

「マリーは私の妹の護衛騎士として働いてくれていた。ローラット侯爵と結婚して辞職したが、二人で今回の計画に協力してもらっている」


「計画?」

「正直に言うと、君の救出計画は別にあったんだ。まさかあの館に連れて行かれるとは想像もしていなかった」

「私の救出計画?」

「そう。それはまた、後日話そう」

 話が切られてしまう。焦った私は別の質問を投げかけた。


「あの館は何だったのですか? 貴族の屋敷のようでした」

「〝百華の館〟は没落した貴族の屋敷で、表向きは貴族向けの高級料理店、裏では人身売買を専門にする店だった。今回の摘発で店の関係者は、ほぼ捕まえているだろう」


 店主に突き付けられた短剣の冷たさを思い出し、血の気が引いていく。ふらついた体を王子が抱きしめた。


「イヴェット、今日の君にはいろんなことがあり過ぎた。眠って落ち着いてから話をしよう。大丈夫、ここは安全だ」

 何度も繰り返される優しい声が不安を洗い流していく。ほっと安堵の息を吐くと、王子の腕が離れた。


「すべて好きなように使えばいい。私は隣の部屋にいるから。おやすみ」

「お、おやすみなさい……」

 私が戸惑う間に、王子は先程の部屋へと戻ってしまった。


 とても可愛らしくて美しい寝室に一人取り残されて、立ち尽くす。

 いろんなことがあり過ぎて、理解できないままにここにいる。夫に売られそうになった所を王子とマリーに助けられ、気が付けばこの夢のような場所にいる。


 浴室に入ってみると、何もかもが揃っていた。私が好きな石けんや香油、マリーと一緒に買い物に出掛けた際に話題にした覚えがある。


 マリーは、出歩く私をずっと護衛してくれていたのだろうか。様々な好みを知られていても、不思議と不快感はない。身を挺して護ってくれた凛々しい姿を見ているから、感謝の気持ちしかない。


 護衛騎士。女性なのに騎士になれるというのなら、とても優秀なのだろう。うらやましいと思っても、私にはあきらかに向いていない。


 浴室を使った後、用意されていた夜着は上質な綿に贅沢なレースが施されたもの。ドレスにできそうなくらいに美しい意匠は、侯爵家でも見たことはなかった。


 夜着に着替え、柔らかなベッドへと横たわる。天蓋の天井も象牙色。色彩豊かな花が描かれていて美しい。目を閉じて眠ろうと思っても、眠ることができない。『侯爵様に売られた』と嗤う店主の顔が浮かび、声が繰り返し耳に響く。他のことを考えようとしても、静かすぎる夜が邪魔をする。


 体は疲れていて、もう眠りたいと思っているのに頭が冴えていく。掛け布を頭まで被っても眠れそうにない。何度も寝返りを打った後、天井を見つめていると寂しさと不安が襲ってきた。ここは安全という王子の言葉を繰り返し思い出しても、心が冷えていく。


 しばらくして、私は眠ることを諦めて起き上がり、更衣室に掛けられていた上質な服に着替えた。元々着ていた服を着たいとはどうしても思えないし、夜着で王子の前に出たくはなかった。


 扉を開けると魔法灯が煌々と室内を照らし、王子は長椅子に座って果物の皮を剥いていた。

「どうした?」

「あ、あの……眠れなくて……」


「ちょうど良かった。果物を食べてくれないか? 調子に乗って剥き過ぎた」

 テーブルの上を見ると白い皿の上に、梨や林檎にメロンやオレンジが切られて山積みになっている。手招きされるままに王子の隣に座って、果物を一緒につまむ。


「メロンを丸のまま短剣で剥くのは難しいな。……これは四つ割りにしてから皮を剥いた」

 皮を剥く前のメロンは両手に余るくらいの大きさ。梨や林檎のように剥こうとしたのだろうか。


「我が国自慢の苺を食べてもらいたいが、早くても来月だ」

 王子の話は果物のことばかり。楽し気に話す姿が、どうしてもロブに重なる。懐かしさが胸を温めても、ロブとは別人という事実が切ない。


「私が果物好きと知られてしまっているので、視察に向かうと食べきれないくらいに果物が出されるんだ。何とか食べきった、と思ったら次の皿が来て何とも言えない気分になったこともある」

 仮面をつけて顔の上半分が隠されていても、王子の口元や声の調子で表情が想像できるようになってきた。


「食べきれないときは、どうするのですか?」

「国民の好意を残すことは出来ないから言葉巧みに勧めて周囲に食べさせるしかない。おかげで話術が磨かれた」

 王族というものは意外な苦労があるものだと感心して、小さく笑いが零れた。


「……良かった。やっと笑った」

 王子がほっと安堵の息を吐く。今までの楽しい話は、私を笑わせる為だったのだろうか。


「そろそろ私の最終奥義、メロンの皮むきを披露しなければならないのかと、焦っていた」

「最終奥義、ですか?」

 唐突過ぎて想像ができない。魔法か何かの隠語なのかもしれない。

 

「ああ。メロンを空に投げて、落ちてきた所を剣で回転させながら皮を剥くという大技だ。剣の師匠から絶対に役に立つと叩き込まれたが、未だに誰にも見せたことはない」

 王子の表情は真剣で。メロンを空に投げるという時点で私の想像の域を超えている。堪えきれずに、笑ってしまう。


「も、申し訳……」

 笑いを止めようと思っても難しい。ひとしきり笑って息を吐く。王子の前で失礼をしてしまったと俯くと、今度は王子が笑った。


「……マリーが……君が全然笑わないと言うから心配していたんだ」

「え? いえ、笑っていたと思います」

 マリーと過ごす時間は楽しくて、いつも笑っていられた。


「笑顔は自然に出てくるものだから、無理に作らなくていい。……イヴェット……君は頑張り過ぎだ。ここでは頑張って笑顔を作る必要はない。悔しい時には怒ればいいし、悲しい時には泣けばいい」

「……でも……」

 怒っても泣いても、どうにもならないとわかっている。私が何をしても無駄だと思い知らされてきた。だから私はいつも口角を上げて笑顔を作って、すべてを運命として受け入れてきた。


 ほろりと涙が零れた。理由を探してみてもわからない。

「も、申し訳……」

 王子がそっと私の手を包むように握る。


「最後に泣いたのはいつ?」

 優しい声に導かれて記憶をたどっても、思い出せない。記憶にあるのは、別荘が売られてロブに会えなくなったと知った夜。


 ほろほろと涙が頬を転がっても、理由がわからない。

「……きっとこれまで、我慢し過ぎていたんだ。泣けるだけ泣けば、すっきりする」


 微笑む王子に見守られながら、私は涙を流し続けた。

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