第56話 船中における信濃巫と三ツ者談義





 伴三左衛門の案内で、自刃した千都姫さまの墓に詣でた志乃と山吹大夫は、石川康長夫妻のご厚意に甘え、康長の隠居屋敷に泊めていただくことにした。


 奥方・文月さま自ら采配してくださった旬の魚介類の御造りや天麩羅、焼き物、煮物、和え物など絶品の海の幸をたっぷりと御馳走になったふたりは、翌4月9日卯の刻、ふたたび船の人となった。


 波ひとつない穏やかな内海を、日がな1日、ぼうっと眺めているしかないふたりの会話は、自ずから深みに入って行く。


「松本の小父さん小母さんの家に帰れば、かようにくつろいだ時間はとれないかも知れませんゆえ、わたくしがお世話になった諏訪巫の大元締め、信濃巫のお話でもいたしましょうか」志乃が水を向けると、山吹大夫も気持ちよく応じてくれた。


「拙者も、いつかは聞いてみたいと思うておったところじゃ」「では、そもそもの成り初めから……。うろ覚えの節はご容赦くださいね」冗談めかした志乃は、そのむかし、先輩のくノ一から口伝で教えられた信濃巫の成り立ちを語り始めた。


 いまを去る50年前、永禄4年(1561)の川中島合戦で、信濃国望月城主・望月盛時(武田信玄の甥)が戦死した。若き未亡人となった望月千代女もちづきちよめが江国甲賀53家の筆頭・望月家の娘だったことに目をつけた信玄は、千代女を、


 ――甲斐信濃二国巫女棟梁


 に任じ、小県禰津ちいさがたねづ村の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開かせた。


 かねてより畏敬していた信玄の期待に応えようと張りきった千代女は、自ら棟梁を名乗る修練道場で選りすぐりの巫女たちを養成すると、信濃国をはじめ近隣各地で秘密の諜報活動を行い、巫女たちが集めた新鮮な情報をいち早く信玄に伝えた。


 のち、武田氏が滅亡すると、信濃巫は真田忍者の傘下に入った。


「ご始祖・千代女さまが道場を開かれた場所は、現在も『巫女ののう小路』と呼ばれ、信心深い土地のみなさま方に大事にしていただいております」


 かいつまんで語った志乃は、乾いたくちびるを湿らせ、ふと声をひそめた。


「富士山型の巫女組織の末端に連なる身といたしましては、語り伝えられるきれいごとのまま済ませておきたいのですけれど、わたくし、じつは、神話めいた信濃巫の成り初めに、いささかの疑念を抱いておりまして……」「ほう、いかような?」


「英雄色を好むの譬えどおり、信玄さまも相当な女子好きでいらしたとうかがっております。ご正室やご継室のほかに、諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人のご側室をおもちでした。ゆえに、われらが千代女さまもまた訳ありの女子だったと思われます。ご夫君の戦死の前か、事後に生じた仕儀かは定かではありませんが……」


 日頃から思っていたことを口にするうちに、奔放を旨とするくノ一らしくもない義憤に駆られ、思わず興奮口調になった志乃は、「まあ、人の道もいろいろゆえ、そういうこともあろう」大人の山吹大夫にあっさりいなされてシュンとなったが、山吹大夫のこういう鷹揚なところに、ますます惹かれてゆく自分を感じてもいた。



 船は順調に進み、いつの間にか鯨も海豚もすがたを消している。

 白藍色に揺蕩たゆとうさざ波を眺めながら、志乃は物語をつづけた。


「諏訪大社の巫女ののうが諏訪信仰を広めるために、全国各地に散らばったのが『歩き巫女』の事始めでございます。くノ一生来の奔放から、白湯文字だの旅女郎だのと蔑まれる一方で、若宮に仕える巫女はワカ、山伏の妻の巫女はアガタシラヤマミコモリコと呼ばれ、尊崇を集めてもおりました」「ふむ……さようであるらしいな」


 山吹大夫の相槌は微妙。

 だが、志乃はつづける。


「ククノチ像(弓を持った案山子)、キボコ(男女合体の木像)、ご本尊、猿の手、猫頭の干物、白犬の頭蓋骨、雛人形、藁人形などを入れた外法箱を、舟形に縫った紺の風呂敷で包んで背負い、白い脚絆に下襦袢で尻を絡げる。これが一般的な歩き巫女の装束でございます」「なんともはや、おどろおどろしげな……」


 山吹大夫の眉は、ふたたび翳りを刻む。


「外法箱に神をお連れして蝦夷から琉球まで秋津洲あきつしまの各地を経巡り、家々の門口に立って『巫女の口、聞きなさらんか。死人しびとのご託宣を預かってまいったぞえ』と言ってまわり、死人の口寄せや竈拂かまどはらひなどを行うのでございます」


 話が核心に進むにつれ、志乃の語り口は自ずからおごそかになってゆく。


「申してはなんですけれど、信濃巫には20歳前後の年頃の、それも飛びっきりの別嬪しか選ばれません。当今は、わたくしのように巡業先で発見される場合も多いのですが、遠い戦乱の時代には、孤児や捨て子、迷子のなかから選りすぐった美形の少女にきびしい修練を積ませ、歩き巫女や間諜に仕立て上げたのでございます」


 果たして、山吹大夫は即座に響いてくれ、「まことに、さりもありなん。世の中広しといえども、志乃どのほどの別嬪には、滅多にお目にかかれぬ。巡業先で数多の女子を見てまいった拙者が申すのだからまちがいはない。かような上玉を掌中にできた拙者はまことに禍福者なるぞ」照れるような台詞をシレッと言ってのけた。



「では、お返しに、拙者が属する『三ツみつもの』の話を少しばかり。先にも申したとおり、三ツ者もまた信玄さまが養育された隠密集団だが、もとは真田伊豆守さまのご祖父に当たる一徳斎(真田幸隆)さまお抱えの『真田忍』に端を発する。じつは、拙者はそのあたりにも曰く言い難い志乃どのとの所縁を感じておったのじゃ」「わたくしの父上の血筋は、まこと多方面に足跡を残しているのですね」


 思いがけぬ場面で祖父の名を聞かされた志乃もまた、しんみりと同調する。


「別名を乱波らっぱとも呼ばれた三ツ者は、僧侶や商人などに変装して各地を歩きまわったり、敵の城に潜入したりして、狼煙を用いて躑躅ヶ崎のお屋形さまに報告した。居ながらにして新鮮な事実を掴み取るというので、武田のお屋形さまは諸大名衆から『脚長坊主』と呼ばれておったそうな」「まことに痛快なお話でございますね」いかにも誇らしげな山吹大夫に、志乃も深々と相槌を打った。


「一方、信玄さまを支えた豪傑、龍嶽院殿(馬場信春)さまは、武田家本来の軍学『甲州流』の兵法に三ツ者の忍術を合わせ、新たな『甲陽流』を創設された。ここから『禰津流』や歩き巫女が誕生したともされておるようじゃ」「えっ、それはまことにございますか?」遠慮がちにぼかす山吹大夫に、志乃は唖然とした。


 ――して見ると、ついいまし方、いかにも得意然と信濃巫の由来を語った、あれはなんだったのか。黙って聞いていた山吹大夫さまも、人がおわるいではないか。


 志乃の恨めしげな表情を見て取った山吹大夫は、急いで話の穂を継ぐ。


「でな。時代は進み、関ヶ原合戦後、江戸に幕府を開かれた大御所さまは、小田原征伐で滅亡した北条氏の残党が悪さを働く関東の治安回復のため、闇社会に通じた三ツ者の棟梁・高坂甚内どのを重用されたのじゃよ」


「吉原の庄司甚内、古着市の鳶沢甚内と共に『三甚内』と呼ばれた、あのお方?」

 機嫌を直した志乃も、うろ覚えの知識を披瀝する。


「ほう。さような下世話をようご存知であったな。その高坂どのが、北条氏をかげで支えた風魔ふうま一党の棟梁・風魔小太郎の隠れ処を、お上に報告されたのじゃ」


 ――裏社会に生きる忍者が、同業の居所を密告するとは……。


 志乃の思いをよそに、山吹大夫の話はさらに思いがけない方向に転じて行く。


「だが、われらからすれば、高坂どのの末路も、ひとしおに哀れであられた」

「いかように?」


「いわば、木乃伊みいら取りが木乃伊になったというべきか、密告により風魔一党を壊滅させた関東で、今度は高坂どの自身が盗賊集団を養成し、やがて、お上が震え上がるほど巨大な組織に成長させたのじゃ」「なんと……」志乃は二の句が継げぬ。


「となると、お上も放ってはおけぬ。で、言いがかりをつけて高坂どのを捕縛し、市中引き廻しのうえ、浅草鳥越の刑場で磔に処したのはつい昨年であったそうな」


「なんともはやな顛末でございますね。人間万事塞翁が馬と申しますけれど……」


 志乃はそこで、急に言葉に詰まり、やがて声を絞り出すように呟いていた。


「あら……わたくし、いったいどうしたのでしょう。なんだか無性に、母に会ってみたくてたまらなくなりました。捨て、捨てられたつもりのかかさんに……」


 ――まさか、この自分の口が、思ってもみなかった台詞を吐こうとは……。


 なんとも奇異な事実は、強気で鳴らした諏訪巫の志乃をひどく打ちのめした。

 感情を制御できぬ志乃を、山吹大夫は摩利支天のような温容で包んでくれる。


「志乃どの。まことによき思案でござるぞ。かねてより拙者もこのときを待っておったのじゃ。善は急げじゃ。船を降りたら、その足で上田にまわってみよう」


 そのときのことだった。

 山吹大夫の肩の上からおとなしく海面を眺めていた猿の三吉が、「ケーン!」たったひと声、なんとも哀切な声を発した。


 ――三吉もおっかさんに会いたいのか。


 志乃は初めて三吉を愛しいと思った。

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