第53話 信之の妻・小松姫への思い





 話をもどす。


「ところで、申すまでもないが、この一件、わが室には、くれぐれも内密にな」


 にわかに真面目な顔つきになった信之は、フッと声をひそめた。

 先刻までの威容が嘘のように、心なし偉丈夫まで縮んで見える。


「承知つかまつりました」

 山吹大夫と並んで平伏しながら、志乃は内心で可笑しくてならなかった。


 志乃にとっては義姉に当たる奥方・小松姫は、かの疑り深い家康をして、


 ――わが友よ。


 とまで言わせた寵臣で、槍の名手として「徳川四天王」に数えられた本多忠勝の娘だったが、信之のもとに嫁ぐ前、かたちだけとはいえ家康の養女になっていた。


 したがって、夫の信之にとっては、本来ならだれよりも気が置けぬはずの正室でありながら、家康からのお目付け役でもあるという、相矛盾する存在であった。


 であれば、想像するに、なんとも面妖な夫婦生活が営まれているのであろう。


 ――兄上もお気の毒な……。


 同情する一方、志乃には別の思いもあった。


 関ヶ原合戦を前に、いわゆる「犬伏いぬぶしの別れ」で信之と袂を分かち、信濃上田城へもどる途中、「孫の顔を見に立ち寄った」舅・昌幸と義弟・源次郎(信繁)父子を、「城主の留守中には、何人たりとも城にお入れするわけにはまいりませぬ」頑として入城を拒んだ武勇伝から、男勝りの女丈夫と揶揄やゆされる小松姫だった。


 ――だが、男は得てして強い女子を歓迎したがらないもの。


 さらには、自分に都合のいいことしか語りたがらないもの。

 ゆえに、事の真相は小松姫さまご本人しかご存知ないはず。

 物事を斜めに見る癖のある志乃はそのように観察していた。


 信之はそんな小松姫が煙ったいのか、義妹の志乃に会わせたがらないが、


 ――わたくしは義姉上さまにお会いしてみたい。


 気の強い女同士、忌憚なく語り合ってみたかった。


 だが、志乃の思いに気づかぬ信之は信之なりに兄らしい気配りを見せてくれた。


「どうじゃな、志乃。そろそろ落ち着く気にならぬか。上野には信濃とはちがったよさがある。そなたの気性にも似て四季の明確ないたって住みよい土地柄なるぞ。望みとあらば、城内でも城下でも、好きなところに所帯を用意するが……」


 言いながら信之は、かたわらの鈴木右近をチラリと見やった。


「なに、右近のことなら心配無用じゃ。こう見えて女子には相当もてる性質ゆえ、放っておいても引く手数多で困るほどじゃ。まあ、このわしほどではないがのう」


 いきなり振られた右近は、色白の首から耳まで赤く染めている。


「もったいなきご配意、まことにありがたき幸せにございます。なれど、わたくしには養父母とも慕う老夫婦がおります。豊後佐伯の千都姫さまに事の顛末をご報告申し上げました暁には、山吹大夫さまとふたり信濃松本で暮らしとうございます」


 志乃が自分の思いを伝えると、磊落な信之はさっぱりと快諾してくれた。


「わかった。そなたの好きにするがいい。だが、いずこに住んでも、兄としてのわしの心情を決して忘れるでないぞ。困ったときはいつでも頼ってまいるのじゃぞ」


「兄上さま!」志乃は思わず涙をあふれさせた。


 御前を辞して廊下へ出ると、山吹大夫がそそくさと所用ありげに座を外した。

 せめてもの気休めというわけか、猿の三吉だけは残しておいてくれたが……。

 いきなり右近とふたりにされた志乃は、はなはだしく居心地がよろしくない。


 ――気を利かせたつもりかもしれないけど、ありがた迷惑なんだけど……。


 志乃と同じく当惑したようすの右近は、しばらく無言で廊下に突っ立っていたが、やがて、眼下に広がる平野のひときわ緑が濃い杜のあたりを、つと指差した。


「あそこが名胡桃城なくるみじょうでござる。その、拙者が生まれ育ち、父を失った……」


 簡潔な口調がなんともさびしげで、志乃はますますうしろめたい。


 奸臣の企みにより、自分の留守中を狙って城を乗っ取られた。城代だったお父上は責任をとり、沼田城下にある真田家の菩提寺に駆けこんで切腹なさった。一方、ひとり息子の右近とともに残された美しいお母上は、こともあろうに、亡き夫の主だった真田昌幸……つまりはわたくしの父上に危うく手籠めにされかかった。


 ――父に代わって、本当に申し訳ありません。


 あふれる思いを伝えたい志乃の心を思いきり裏切り、口は勝手に動いていた。


「あの……おかげさまで、いつぞやご親切にご恵贈賜りました上田紬のご印籠に、探索の道中、何度も助けていただきました。本当にありがとうございました」


 右近がなにか答えようとしたとき、山吹大夫がもどって来た。

 志乃と右近に放っておかれた猿の三吉は、これ見よがしに肩に飛び乗った。

 山吹大夫の耳もとに口を寄せ、何か言いつけるのが志乃には癪でならない。


 その晩、志乃は、白い金蛇がやさしく微笑みかけてくれる夢を見ていた。

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