第52話 沼田城の兄・真田信之に報告





 慶長19年3月30日(陽暦5月8日)。

 ふたりと1匹の珍妙な一行は、上野国沼田に到着した。


 真田伊豆守信之が複雑な思いをこめて建築した5層の天守には、志乃が暮らした松本城に匹敵する重厚さがうかがわれるが、ひとつだけ大きく異なる点があった。


 平野の真ん中に建つ松本城を平城とすれば、沼田城は崖城と呼ぶのであろうか。

 高さ24丈(70m)の広大な河岸段丘に威風堂々たる構えを聳えさせている。


 城主・信之は父・昌幸が上田の百姓女に産ませた志乃の異母兄に当たり、信濃巫や三ツ者などの忍を束ねる棟梁として、裏の世界に隠然たる影響力をもっている。


 松本城に潜入する前、志乃は一度だけ兄と面談したことがある。


 うわさに聞く武張った父の血を引くとは、さらには、裏社会の棟梁とはにわかに信じがたいほどゆったりと穏やかな所作の、人間のみならず動植物から天文に至るまで万物への見識と慈愛に満ちた、すこぶる魅力的な人物だったと記憶している。


 山吹大夫に寄り添い、丈高い樹林が鬱蒼と生い茂る沼田城の二ノ丸にたたずんだ志乃は、眼下に展開するみごとな景色に目を洗われた。


 利根とね薄根うすね片品かたしなの3大河川が、天から降ってきた大蛇おろちのように悠揚と蜿蜒のたくりながら、見渡す限りに広大な北関東の平野を、思い思いに這いまわっている。


「大昔の大地震で、とつぜん出現したんですってね、この特殊な地形は……」

「なんと壮観な眺めであろうか。おそらく、日ノ本一の河岸段丘でござろう」

 すばらしい大絶景に見とれたふたりは、同時に感動の嘆息を吐いた。


 城域のいちだんと高い場所に設けられた鐘櫓しょうろに巨大な鐘が吊るされている。


「朝に夕に、ご城下に時刻を告げるのでしょうね。民百姓の安寧が思われます」

 つぶやきながら見上げた志乃の視線の先に、ひとりの若侍がたたずんでいた。


 ――あっ、右近さま!


 一瞬にして足もとから這い上がった血が、一気に志乃の全身を駆けめぐった。


「やあ、志乃どの。すっかり無沙汰であったな。その顔つきでは、石川家の受難をめぐる探索の首尾はまずまず上々と見えるな。まことにもって祝着至極でござる」


 涼しげにゆるめた目を、右近はさり気なく、志乃の横の山吹大夫に移した。


「こちらは、その……わたくしの連れの山吹大夫さまでいらっしゃいます」

 慌てて志乃が紹介すると、


 ――連れ?


 右近は少し眉を曇らせかけたが、すぐにすべてを了解したものと見える。


「さようか、お連れがご一緒とは、それはよかった。旅は道連れ世は情けと申す。ひとり旅よりふたり旅。まさに同行二人。さようか。それはなによりでござった」


 みじんも動揺を感じさせぬ口調で、志乃にとも、山吹大夫にともなく告げた。


 ――ことここに至った次第を、どのように右近に伝えたものか。


 道中ひそかに思いあぐねていた志乃は、思いがけないなりゆきにホッと安堵したが、一点の濁りもない双眸に正面から対峙する勇気まではさすがにもてなかった。


 どこまでも落ち着いて物静かな右近の案内で、一行は本丸の奥御殿に向かった。

 清冽な川風が吹き渡る長い廊下を幾重にも折れると、最奥が城主の居室だった。


 部屋の廊下で右近が声をかけてくれた。

「殿。志乃どのがお見えになりました」


「兄上さま、ご無沙汰申し上げました」

 志乃が立て膝を突いて挨拶すると、

「おお、志乃か。待っておったぞ、入るがよい」

 座敷の内から信之が気持ちよく答えてくれる。


「こたびの探索につきましてご采配を賜りましたこと、厚く御礼申し上げます」

 入室した志乃が丁重に口上を述べると、記憶の顔に少し歳を加えた温顔が、ゆるやかに横に広がってゆく。


「なんのなんの。あまりに不可思議な出来事が重なったこたびの一件、わし自らが探索に出向いて真実を探りたかったほどじゃ。そなたが手足のように動いてくれたおかげで、ようやくこの胸のつかえが下りそうじゃわい。このとおり礼を申すぞ」


 どこまでも徳の高い信之に、志乃は慌てて首を横に振った。


「そんな、滅相もございません。果たして、いかほどにお役に立てましたことやら……。なれど、道中の半ばから、こちらの山吹大夫さまが助けてくださいましたゆえ無事お役目を果たすことができました。あらためて兄上さまに申し上げます。こたびの首尾の大半は、山吹大夫さまのお働きによるものでございます」


 謙虚を心がけながらも、愛しい男をちゃっかり売りこむことも忘れない。


「で、どうであったな? 厳重に人払いしてあるゆえ、忌憚のないところを語るがよい」すでにすべてを承知と見える信之の率直な問いに、志乃は明確に断言した。


「思ったとおり、本多派の陰謀に大御所さまが乗られたの図、にございます」


「やっぱりな。あれほど一心に尽くされた石見守さまのご名誉を死後に至ってまで汚されるとは、神をも畏れぬ悪行と断定してよいであろう。ここだけの話じゃが、機に乗じて巧みに取り入った本多父子ともども、よき死に方はされぬじゃろうて」


 おのれの身の上に石見守の義憤を重ねた信之は、膝の上の拳に堅く力を入れた。


 とそのとき、横合いから山吹大夫が、控え目な口をはさんだ。

「なれど、志乃どの。たしか別方向の力も働いていたのでは?」


「別方向の、力?」

「ほら、例の……」


 まるで入り婿のような遠慮口調に、志乃は思わず噴き出したくなった。


「うっかりしておりました、山吹大夫さまの仰せのとおりにございます」

「して、別方向の力とは?」


 女郎蜘蛛が放った粘っこい糸に絡め取られるように、信之が量感のある膝を乗り出して来た。縦横ともに揃った偉丈夫なので、沼田藩主の貫録たっぷりである。


「保身のために小細工を弄する本多一派などは、取るに足らぬ小物に過ぎませぬ。実は、かげの黒幕は大御所さまご側近中のご側近、大炊頭おおいのかみ(土井利勝)さまであられました」志乃が敢然と告げると「むむ……。してみると、かねてよりのうわさは、やはり事実であったのか」信之は巣をおそわれた蜂のような唸りを発した。


 その視線は、数多の家臣中でもっとも信頼する鈴木右近の同意を求める。

 相変わらずひっそりと気配を消したままの右近は、目顔で信之に答えた。


「うそかまことか存じませぬが、大御所さまのご落胤ともうわさされる大炊頭は、かげで本多一派を巧みに操って石見守さまを貶め、最終的には自らの天下に向け、用意周到な企みを思いつかれたのでございましょう。獲物を視野に入れた鷹はいまのところ爪を隠しておりますが、近いうちに必ずや牙を剥いてまいりましょう」


 確信に満ちた志乃の返答に、信之は大きくうなずき返した。



 閑話休題。


 上野沼田城の奥座敷で城主・真田信之、異母妹・志乃、猿楽師・山吹大夫、信之の寵臣・鈴木右近による秘密会談がもたれてから8年後の元和8年(1622)、


 ――宇都宮釣天井事件。


 を機に、本多正純は父子揃って仕えた家康からあっさりと改易を申し渡された。


 うわさ好きの巷では、


 ――土井大炊頭利勝の謀略説。

 ――威光を笠に着て威張り散らす本多正純を、家康自身が毛嫌いしたという説。

 ――家康の姉に当たる加納御前(亀姫)からの直訴説。


 などがささやかれたが、真相はいまだに闇に葬り去られたままである。

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