第40話 安倍川処刑場のさらし首

 




 同日申の刻。

 ついに駿府に到着した。


 慶長5年(1600)、関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、同8年、征夷大将軍として江戸に幕府を開いた。同10年、大御所を名乗って、3男・秀忠に将軍職をゆずったが、自らは依然として江戸城にあり、意のままに院政を執り行っていた。


 同12年、江戸との二元政治を目論む家康は、新築なった駿府城へ移転した。

 そのとき、「天下の総代官」として数多の役職に就いていた大久保石見守長安も正室や側室、子ら、家臣の一族郎党を引き連れ、本拠を八王子から駿府に移した。

 皮肉にも、この転居が、家康との関係暗転の転機になったのかもしれなかった。


 いましも志乃は、因縁の駿府城下に足を踏み入れようとしている。

 城下の入り口に当たる安倍川の岸に、長さ1里ほどの長大な土手が伸びていた。


 ――これが、かの有名な薩摩土手ね。


 志乃は爪先だって彼方を見晴るかす。

 周辺地域に恒常的な満水被害をもたらせていた安倍川に徹底的な治水対策を行おうと考えた家康は島津家久(初代の薩摩・大隅2か国藩主)に賦役を命じ、大久保長安に工事を監督させて、大水にもビクともしない強固な堤を築かせたという。


 このあたりが薩摩土手であるとするならば、墓から掘り返された大久保長安の腐った首が晒された刑場は、すぐ間近にあるにちがいない。


 ――見たいような、見たくないような……。


 志乃は首を竦め、怖々と視線を泳がせた。

 気のせいか、生臭く陰惨な温風が川面を吹きわたって来る。


 工事監督の大久保長安も何度かたたずんだかもしれない薩摩土手の上に、数十体の石像が林立している。妙に丸みを帯びた肩から、なだらかに流れ下る裳裾まで、鋳型で抜いたかと思われるほど酷似した人型ひとがたは、折りからの西日を背に、不気味に黒い影法師をくっきりと浮かび上がらせていた。


 だが、どの人型にも、


 ――く、く、く、首がないっ!


 志乃は危うく腰を抜かしかけた。


 ――ギャアッ!


 無我夢中で逃げたつもりが、気づくと、まさに刑場のまん真ん中に立っていた。

 のどかな春霞の下にゆったりと揺蕩たゆたう安倍川に添って、荒涼たる河原が延々とつづいている。数多の処刑者の怨念と血と涙にじっとりと濡れそぼった砂利は、


 ――金輪際、一木一草も生やさせはせぬぞ。


 と宣言するかのように、白茶けた大小の石を無造作に散らかしているばかりで、生き物の息吹きというものがまったく感じられない。


 ――死んだ子どもが行く「賽の河原」とは、かような場所だろうか。


「ひとうつ、ふたあつ、みっつう……」小石を積み上げる逆縁の親の悲しみが、殷々と聞こえるような気がして来て、思わず両手で耳をふさいだ志乃は、今度こそ本当に腰を抜かしそうになった。


 ――うわぁ、く、く、首の木乃伊みいらだ!


 風雪にさらされきった粗末な板の台の上に、干し過ぎのするめのようにカチカチに縮んだ弁柄色のかたまりが、ゴロンと無造作に載っている。


 ――い、い、石見守さまの首だ。


 ひと目で志乃は直感した。


 瞬間、川面からひときわ生ぐさい風が吹いて来たかと思うと、なにものとも判別しがたい物体と化した木乃伊の頭頂部にほんのわずかへばり付いた毛髪をフワリ、フワリとなぶって行く。玉蜀黍の毛のような毛髪が、そこだけ別の生きもののようにユラユラと蠢いているさまは、まさに鬼気迫る地獄絵図そのものだった。


 ――まさかとは思うが……。


 いま、わたくしが身を置いている場所は、すでに此岸ではなく、異界の入り口の彼岸に足を踏み入れているのではなかろうか。


 ――してみると、目の前の安倍川も……三途の川、なのか?……。


 そこまで考えてみた志乃は、なぜか、かえって度胸がすわった。


 こうなったらいっそ、見るべきものはすべて見てやろうじゃないの。こんな機会はめったにあるものじゃなし。運よく現世に引き返すことが適ったあかつきには、松本の川端の小屋で待っていてくれる小父さんや小母さんへの、またとない土産話にもなろうし……。


 われながらうしろめたく思われるのは、こういう切羽詰まった場面で、生みの母の面影がまったく浮かんでこない、実の娘としていささか冷淡すぎる事実だった。


 ――だって、娘より男を選んだ母親なんだもの。


 紛れもない事実を思うたび狂おしいほどの反発心が湧いたのは、旅まわりの諏訪巫の一座に加わった当座だけだった。あれから長い歳月を経た現在はもう、いつも困ったように眉を下げていた母親の、どこか悲しげな表情さえ判然としなかった。


 生来、血縁に淡白な性質なのか。それとも、経験による自浄作用なのか。いずれか知らぬが、事情を知らない目には薄情者に映るであろうおのれのありように自嘲を感じながらも、志乃は漠然と、なおかつ、かなりの真実味をもって考えていた。


 ――人間、血縁より多生たしょうの縁が大事。


 なぜといって、血を選ぶことはできないが、振り合う袖との縁の行方は、自らの意思で決めることができるのだから。


 ――でも……。


 同性としての汚らわしさに身ぶるいしながら、逃げるように、あるいは捨て去るように別れて来た当時は女の盛りだった母親も、とっくに相応に老いているはず。


 ――男に捨てられていなければいいけど……。


 けれど、もしそうだったとしても自業自得、わたくしの知ったことではない。

 堂々めぐりから抜け出し、ふと振り返った志乃は、ふたたびわが目を疑った。

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