第17話 大久保長安の死と破滅への予感

 

 



 

 慶長18年4月26日(1613年6月14四日)巳の刻。

 江戸の大久保長安邸から、石川康長のもとに早飛脚が届いた。


 ――駿府の大久保屋敷にて当主・石見守逝去す。享年69。


 飛騨山脈を奔る最大級の稲妻のような緊張が、たちまち松本城内を駆け巡った。


 2代城主・石川康長の長女・千都姫の舅に当たる大久保石見守長安については、仕官する家康との不和がしきりに取り沙汰されていた。つい先年までの大久保長安といえば、天下人を目前にする家康の一番のお気に入りで、石見奉行、佐渡奉行、甲斐奉行、美濃代官、刑務奉行、伊豆奉行など、諸大名連の垂涎の的である要職をことごとく独り占めするなど、まさに泣く子も黙る「天下の総代官」だった。


 それがあるときから一転して憎むべき逆臣と目され始めていたが、その原因は、御大将の家康を脅かすほどに肥大化した絶大な権力と財力にあると言われていた。


 円満な風貌。

 鷹揚な人柄。

 悠揚迫らぬ言動。


 まるで豪放磊落が征夷大将軍の冠をつけたような大御所・家康が、実はきわめて繊細な性質である事実は、配下が隠せば隠すほど、城下のうわさになっていた。


 だから、異例中の異例の出世を妬む諸大名による、


 ――狡知に長けた猿楽師風情の成り上がり者め。

 ――純粋な忠義心など望むべくもないことは明白。

 ――いずれは天下を乗っ取ってやろうと虎視眈々。

 ――分不相応な野望を抱いているにちがいない。


 あることないことの諌言も、自分で種を蒔いておきながら、日ごと夜ごとに膨れあがる一方の疑心暗鬼に、ひと役もふた役も買ったであろう内情が推察された。


 ――孫子の代まで裏切り者の汚名を着ることを覚悟で、ご先代さまが太閤殿下のもとへ出奔なさった一件も、そのあたりに事情があったのではなかろうか……。


 詳しい事情を知らされていない松本城の武士たちも、暗黙裡に承知していた。


 領内の仕置きが凡庸な反面、天下の世事には妙に鼻の利く康長は、小刻みにふるえる手でようやく書状を広げると、洞窟の巣に籠もった蝙蝠のように頭を抱えた。


「やや、これは一大事じゃ。堂々たる偉丈夫で、お声にも張りがあり、ご壮健そのものに見えた十兵衛さまが、とつぜんお亡くなりになるとはなんとも信じがたい」


 オロオロと取り乱す康長を、加齢に従い天下の情勢に疎くなっている自身の不明を自覚していない渡辺筆頭家老は、根拠のない自信満々で無責任に諌めてみせる。


「殿。落ち着かれませ。かようなときのために千都姫さまを石見守さまのご嫡男に差し上げたのではありませぬか。大久保家は盤石ですとも。石見守さまのご事績はそっくりそのまま藤十郎さまに引き継がれます。大丈夫、この爺が保証しますよ」


 父とも恃む爺から断定されれば、なんとなくその気になるのが若の弱さだった。


「いやはや、まったくさようであったな。世の嫉妬深い輩から『天下の驕り者』とうわさされた十兵衛さまのご権威も、元をただせば格別のお取り立てによるもの。よもや、そのあたりの事情をお忘れの大御所さまではありますまい」


 現代に例えれば、リーダーとしての危機管理意識の欠如ということになろうか。

 爺の甘やかしもあり、いくつになっても都合のいいように物事を歪曲し、認めたくない不安や迷いは見て見ぬふりでやり過ごすのが、2代目城主の性癖だった。


 ――そんなに悠長にかまえていていいの?


 志乃が懸念したとおり、やがて、信じがたい事態が次々に明らかになってゆく。

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