第7話

 僕は沙紀さんとの快楽の影響かどうかは分からないが、いずれにせよ吹っ切れていた。

 偶然にも始まった美代子さんとの不倫関係。これは世のひんしゅくを買い、非難に日夜悩まされてもおかしくない。

 テレビや三文雑誌を見れば、不倫を扱っていない日が無いほどに、そこかしこに起きているというのに、人はそれを嫌悪する。


 そして今回の一件。もはや、僕は倫理のみならず、刑法においても罰せられてしかるべき人物へとなり下がった。

 だが、僕を非難する人々はいかなる人物なのか。

 聖人君子でないだけでなく、たいした徳もない、ありふれた存在ではないだろうか。記者はあれこれと根掘り葉掘り、不貞を行った芸能人に質問する。質問されるのを覚悟しなければならない行為ゆえに、それ自体をこちらがとやかく言う事はできない。

 だがしかし、記者もまた、偶然か必然か、不倫しなかっただけであって、決して誰かを裁く立場にある訳ではない。


 聖書でもイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言ったとされる。

 これは根本として性悪説・原罪の思想ゆえに語られたレトリックだが、たとえ信者でなくとも、この言葉は聞くに値する。


 とはいえ、僕が何を言おうと、もうどうにもならない。

 僕はこの鬱々とした感情を排出するかのように、沙紀さんを愛し、美代子さんを忘れずとも、せめて、影を薄めようとしたのだった。



 冬は無情にも日々深まる。

 まるで夏にしか怪談をしないかのように、僕らもまた、暖かくなってから再び会えるかどうか分からない。

 後期の時間割が偶然、週一回だけ対面授業であったが故に、美代子さんと出逢えたのであって、来年度はどうなるか分からない。忙しくてもう会えないかもしれないし、反対に一律して自宅での講義やもしれず。


 出会いが偶然ならば別れもまた偶然。


「また難しい顔してる」

「沙紀さん」

「二人の時は沙紀って呼んで。私もカオルくんって呼びたいから」

「沙紀」

「は~い?カオルくん」

 僕は現実逃避の為に彼女を巻き込んでしまった。だが、僕は逃避したにもかかわらず、迷路へと足を踏み入れ、もはや修羅しゅらの道を歩むほか、愛を知れない煉獄れんごくへと進んできてしまったのだった。


 僕は快楽を得たあかつきに幸福を捨て、愛する者を得た代償に、辛い最期を約束してしまったのだ。



 沙紀の部屋を出て、独り、少ない街灯の道を歩き、自宅へと向かう。不良少年のように、真っすぐ家には向かわず、遠回りして向かう。

 ネリネは僕の現状を表すように、グシャグシャで、見るも無残。

 だが、やはり僕はそれを避けるためだけに、己を寒い夜空に晒す人間でもないのだ。


 つくづくため息が出る。どうしてこう何度も、美代子さんの居る病院の前へ来てしまうのかと。

 病室はまだ薄っすらと電気が付いている。換気の為か、わずかに窓が開いており、カーテンが揺れるのが分かる。二階の更に上空を眺めると、今日は満月だったようで、こんな状況にあっても、綺麗だと感じるのはどこか平安貴族のようにも思えて、独りで笑ってしまった。


 すると、もう寝るのか、白い手が窓を閉める。

「美代子さん!?」

 僕は咄嗟とっさに彼女の名を呼ぶが、聞こえなかったのか、あるいは看護師さんが閉じていたのか、動きは止まることなく、電気も消えた。

 今日のところはもうおしまい、これ以上は愛ではなく執心として、誰かに観測された瞬間から変質者に降格となる。

 とかく、僕の身の上は、叩けばほこりが出るものだ。情けない一方で、他の人間には体験し得ない境地だとも思う。

 そういうところが、世間には気に食わないと火に油を注ぐ事となるのだろうが。


 それからというもの、ただぼんやりと時間を空費し、期限ギリギリに課題を提出しては、沙紀さんに講師として会い、沙紀さんに性愛の対象としても会った。

 そうしてその帰りに、意味もなく美代子さんの病室を見上げ帰宅する。


 無為に時は流れ、季節は深まってゆくばかり。

 さしずめ僕らのアバンチュールは、秋の紅葉に他ならず、こうしていつかは落ち枯れる宿命にあったのかもしれない。

 そうは思いつつも、僕はこうして病院の前へ行くのを辞めれなかった。


 今日は三日月だ。絵にかいたような曲線に、なるほど、かつての人々が月に対して霊力を信じたのも頷ける気がした。

 そんな時、またもや誰かがカーテンを触っている。その手は以前のと似た白い絹のような手だったが、今度は月光に照らされて、にゅっと闇から伸ばされた腕が妖艶に見えた。

 やがてその手の主は正体を現し、こちらへ微笑んでいる。


 何週間ぶりに美代子さんの顔を見たのだろう。そうだ、彼女はこういう顔だ。冬枯れした地にそびえ立つ病院にいる、美しき幽霊のような存在。


 僕は手を挙げ、ゆっくりと左右へ振った。彼女はただ微笑むだけ。これでは形容でなしに、本当に幽霊と交信しているかのような不思議な気に陥る。


 結局彼女は、こちらに応えず、再びカーテンの向こうへと消え去っていった。

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