第6話

 禁忌を犯した罰だと言わんばかりのタイミングに僕はショックを受けた。警察が念のために僕へ報告してくれたのだが、浮気相手の大学生がどの面下げて病室へずかずかと入っていけようか。おそらく単身赴任の旦那さんも急いで帰ってきていることだろう。

 これが社会的な立ち位置なのだ。肝心な時に僕は彼女のそばに居ることを許されず、こうして病院の前まで来て、病室の窓を見上げるしか出来ない。なんと虚しき身の上か。つい数時間前の楽園が、僕の手による人工物であったことをありありと示す神はさぞかし皮肉な存在なのだろう。


 いや違う、僕こそ彼女のもとへ災難を運び入れた怪魔なのだ。不貞という悪徳を彼女へ背負わせ、果てはこのような実際的ダメージを与えるに至ったのも、言ってしまえば僕と知り合ったからだ。今日、僕と会わなければ、何の理由があって、こんな寂しい土地で彼女は事故に遭っただろうか。


 僕は怒りの矛先を己ではなく、ネリネの花々を蹴散らすことでおさめようとした。しかし見るも無残な光景が誕生してゆくのみであって、かえって、もうここへ彼女は来れないかもしれないといった絶望が支配してゆくのだった。

 会うは別れの始め。

 そんな不条理が、古い窓枠の隙間からか、あるいは僕の服に付いていたのか、侵入していたようだ。


 僕は憧れの偉人たちを真似て、怒りを芸術に昇華せんとひたすらに小説を書いた。秀作であろうと駄作であろうと、今の僕には何かに没頭している必要があった。それにしても、週に一度の逢引あいびきがこれほど深みへ入っていたとは、自分も侮りがたいなとさえ感じた。


 それでも僕は真の芸術家とは違って、昇華はおろか消化さえ出来そうになかった。

 やがて塾へ向かう電車に乗る刻限となり、否が応でも気を紛らわせておくことが必要となった。


「先生、何だか顔色が悪いよ?」

「あ、ごめん、少し寝不足で」

「へ~珍しいね、いつも早寝早起きだって言ってたのに」

「そんな事はいいから、先に宿題を出してくれる?」

「はい………でも、私にとっては“そんな事”なんかじゃないよ」

 確かに、先生がどんよりした雰囲気を漂わせていたなら、生徒にとっても悪影響だろう。いやはや、一端忘れた気で取り組もうと思っていたのだが、やはりそう簡単にはいかない。

「ごめん、これからは気を引き締めて授業するから、沙紀さんも集中してね」

「…………はい」


 塾とてサービス業の一種。成績を上げるのはもちろんのこと、こういった些細な点でも気をつけていかないと。それが仕事というものだ。

 残りの30分は、主観的に見ればしっかり終えれたと思うが、多感な年頃の女の子にどういった心的影響を与えたかは計り知れない。これも教訓だと、己を律する傍ら、仕事が終わったことで、再びぶり返すかのように、彼女の事故という現実が重くのしかかってくる。

 単なるかすり傷などではこんな思いにはならなかっただろうが、現実は入院レベルの事故。


「先生」

「沙紀さん、まだ残ってたんだ、偉いね。何か分からないところでもあった?」

 授業自体が終わったからとて、塾は店仕舞いという訳ではなく、多くの場合、自習室や質問の時間として開放されている。

「ううん、今日の復習はもう終わったよ」

「じゃあ、どうしたの?」

「親が今日、迎えに来れないらしくて、友達もバイトだし、帰り道、ぼっちなの」

「そうなんだ」

「だから、仕事終わったのなら、送って、ほしいなって」

 正直、これは職務規定上、微妙なラインだ。生徒との信頼関係を築く必要はあるものの、過度に親密になってはいけないという掟がある。

 それは授業崩壊に繋がるという理由などがあったりするからだ。

 とはいえ、どうせ駅まで歩くなら、一緒に帰ろうが、別々に帰ろうが、同じ道のり。ここはグレーではあるがブラックではないという事で快く引き受けておけばいいはずだ。

「ありがと!」


 僕は個別授業を担当しているから良いものの、集団授業であったなら、特別扱いと見なされかねない。クレームが弱点なのはどの業界も同じだが、塾もまた、うわさ一つで経営破綻になりかねない世界なのである。

「先生、今日はゆっくり寝るんだよ?」

「まるで沙紀さんが先生みたいだね」

「塾を出たら、先生もごく普通の男子、白石薫なんだよ~」

「確かにそうかも」

「分かったかね、白石くん!」

「はい、先生」

「ふふっ、よろしい。やっと笑ってくれたね」

「……そんなに陰気な顔してた?」

「うん、ゾンビ」

 生けるしかばねとは、なんと怖ろしや。


「私なら、白石さんを慰められるかもよ?」

「十分慰めてもらったよ、ありがとう」

「そうじゃなくてさ、彼女さんと何かあったんでしょ? 私なら、代わりになってあげられるよ」

「変なこと言うなよ」

「本気、だよ」

「……そういうのは駄目だってことくらい分かるだろ」

 どの口が言えたものか。


「お願い、今日だけでもを見て」



 たった二つしか違わない女子に切なげな瞳を向けられた僕は、彼女に誘われるままに彼女の自宅へと押し入り、彼女そのものを奪ったのだった。

 ネリネが散乱する自宅へは帰りたくない、そんな心理も働いたのだろうか。


 僕は美代子さんを忘れる為に、他の女性を抱いた。

 たとえ美代子さんにバレずとも、あるいは僕が忘れようとも、沙紀さんの心身には今日のことが刻み込まれただろう。生涯、忘れぬ出来事の一つとして。

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