マリオネットの微笑

橘 嬌

第1話   マリオネットの微笑

……恋心という感情は、実にやっかいだ。


 自分自身では思い通りに気持ちをコントロールする事ができないし、その事が原因で自分を取り巻く大切な男女間の人間関係を壊してしまう事さえある。恋愛経験も少ない小娘のあたしなんかが言うのもなんだが、素直にそう思う。


 演劇の練習の為に用意した、等身大ほどの長細い鏡に自分自身を映す。

制服を着たまま、長い黒髪のお姫様カットの私は首を横にふり、髪型を整えると、そんな事を考えながら勢いよくカバンをベッドに投げ捨てた。


 女子高の制服を着たまま、夕日を浴びる時間を過ごすのは嫌いじゃない。

私はまるで糸で操られたマリオネットの人形のように、スローモーションで制服のままダンスの足取りを組み、瞳を閉じて静かに思考を巡らせる。


 いけない秘めた恋というものは、まるで遊園地のジェットコースターに乗る前のワクワク感にも似ている。


 いけない事を隠しているというスリルから感じる背徳感は、誰かに咎められるかもしれない緊張感すらもヒリヒリと愛おしく感じる。いやむしろ、それすらもいっそ飲み込んでしまい、ずっと甘ずっぱい危険な蜜を味わっていたいような感覚さえも覚えるほど甘美なもののようで、もう後先なんか何も考えられない。それはまるで遊園地のジェットコースターのような勢いだ。そして大切に心の奥にまで、その思いを抱きしめて浸っていたくなり……やがてその相手とは、出来る事ならば本当は最後まで一緒に腐ってしまいたいとさえ思ってしまう。


……人に言えない秘めた恋というものはそういうものなのだ。少なくとも私の想いはそう。


 そんなことを考えていると、ふいに、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。

私はバレリーナのような体勢を解き、軽快なステップを踏みながら、階段を駆け下りた。


「誰だろう」

玄関の扉をがらりと開ける。


「あら、凛子りんこちゃん。こんにちは」


 あたしの頭に優しく手をのせて、その女性は、爽やかな笑顔で微笑んだ。この人は、私の兄に度々会いに来る雛子ひなこさんだ。どうやらまだ彼女という事ではない様子だが、女の私にはなんとなくは解る。きっと二人はお似合いの両想いなのだ。


 それよりも……大人の女性は、秘めた恋というものをどう感じているものなのだろうか。というか知っているのだろうか? 例えば……雛子さんだ。


「あれ? 凛子ちゃん。今日は遼さんは出かけているの? おかしいな。3日前から一緒に映画に出掛ける約束をしていたのにもう」


 私はキュッとキツく唇を噛みしめてうつむいた。


そして心の中で静かにつぶやくのだ。


(雛子さん。私、兄の事が好きなんです。遼を愛しています。両親が事故で亡くなってからずっと二人きりでひとつ屋根の下で生活してきたんです。解りますか? 雛子さん)


 もちろん兄との間には何もない。


 でも兄とひとつ屋根の下でずっと一緒に暮らしている、そのたった一つの事実は、私にとって大人の雛子さんに対して唯一優越感がもてる唯ひとつの事実だった。もちろんそんな事自体は無意味だという事は十分解っている。それでもこのひとには、そういう感情をぶつけずには、そう思わずにはいられないのだ。


そう……私は兄に淡い秘めた恋心を抱いている。


あたしはモジモジしながら声に出せない気持ちを視線で伝えてみようと、じっと、雛子さんに向って熱い視線をなげかける。だが彼女はいつもの笑顔を崩すこともなく、というかまったくあたしの考えている事などに気に留める様子もなく、キョロキョロと玄関口で兄を探していた。


「遼は今日、遅いですよ」

私は兄を、あにとは呼ばずに、¨りょう¨と呼ぶ。


 私の答えにピクン、と肩を上げ反応をみせる雛子さんは、ふうっ、と溜息を一呼吸だけ付くと、にっこりと、ひとなつっこく微笑んで私の頭に手を乗せた。


「またすっぽかされちゃったわ。お兄さんにつたえてくれるかな。また来るね、って」


全く悪びれず少し困ったような、曇ったような表情をわたしに見せた後、大人の色気を自然に纏っている仕草を感じさせ、雛子さんは帰っていった。彼女の立ち去った後には、いつもアロマのいい残り香が残っていた。雛子さん自体は悪い人ではない。私も彼女の事を嫌いという訳ではなかった。唯、恋敵としてはあまりにも強大であった。


雛子さんが玄関の扉を閉めた後、しばらくして私は自分の身体をじっと見る。


「こう、かな」


 彼女を見送った後、雛子さんの素振りを真似をしてみる。むしろ私は自然な大人の魅力をもつ彼女に強く憧れていた。その事も手伝って、私は彼女に強く嫉妬しているのだろう。


 いや……何とか私も、こう早く大人になれないものかしら、

雛子さんと比べると、早熟でない自分の残念な身体を見つめ、やがて諦めたように、居間の椅子に座ってアップルティーを入れ、ケーキを食べる。


 私と兄には両親がいなかった。

私が八歳の時に、車の事故で両親は他界した。

けれども、寂しいと感じる事はなかった。優しい兄の遼がいつも私の側にいて、

悩み事があるといつも相談に乗ってくれる遼。

私が涙を流す時、なぐさめてくれたのはいつも遼だったからだ。

守ってくれるのは遼。

遼は私の王子様だった。


 私はそんな兄に淡い恋心を抱いていた。

兄の事が好きだった。

悟られてはいけない恋。

報われない恋。

側にいる事しかできない恋。

切ない恋。

そして……これは誰にも知られてはいけない、私だけの禁断の恋だ。


 紅茶を飲みながら、ふと、テーブルの上に目をやると演劇の台本が半開きに置かれている事に気が付く。


「遼、今回もちゃんと全部の台詞、覚えてくれたかな」

私はぽつりと独り言をつぶやいた。


 私は中学の時から劇団員として、とある劇団に所属していた。

将来はプロの女優を目指したいと、兄に無理を言って劇団に入団させてもらったのだ。それは口実だ……私はひとつの秘めた下心を隠して、プロの女優になりたいなどと、遼に嘘をついたのだった。


 演劇の世界は大好きだ。なぜなら演劇の世界では私がなれないものにさえなれるから。私の夢を叶えてくれるから。

 私はいつも、次のオーディションの台本、と兄に嘘をつき、兄に練習相手をさせていた。その為に私は恋愛モノのシナリオをわざと遼に渡す。


配役はいつも決まっていた。

彼役は遼で、

彼女役はあたしだ。


 現実では決して叶わない、兄との恋愛を虚像の中で実らせ続ける為に、

……私は演劇の世界で何度も兄と恋に落ちる事に浸っていた。


時には日常的な普通の恋人のように。

時には悲劇に震え浸る恋人のように。

時には映画のように甘い恋人のように。

時には激しく愛を語る恋人のように。


 オーディションの練習と嘘をついては、あたしは遼に恋の台本を手渡す。

そしてあたしは練習と称して遼との恋愛に浸るのだ。


勿論、今夜も私は遼と恋に落ちる。全てはこの台本通りに。


 雛子さんは知らない。私と兄がこうして、何度も劇の中で恋に落ち続けている関係であることを。もちろん演劇という架空の物語での中での話。でも架空でもあり、現実の生身の実体を専有する事ができるのが演劇の醍醐味なのだ。

その事について、兄をささやかに独り占めして束縛しているという、いくばくかの優越感に浸りながら私は恍惚の幸福に溺れる。勿論あたしにそんな魂胆があるなんてこと、きっと兄自身も気付いていないだろうけどね、


……今夜私が用意したこの台本は特別だ。

これは私達兄妹の関係をそのままの状況を模したような、とある兄妹の恋愛劇だった。


その物語は、大好きだった兄が記憶喪失になる事から始まる。

そして記憶喪失になった実の兄に、妹はこう告げるのだ。

「私はあなたの恋人です」と、

兄は記憶を失った状態のまま、最後には妹を恋人と信じ受け入れ愛し合う

このシナリオは、実の兄と結ばれる物話。


 このシナリオのヒロインの想いは、現実のありのままの私自身の想いと被っている。これは兄妹の恋愛、私にとっては、自分の本当の気持ちをなぞられたような恋愛劇。


……いや、これは告白だ。今夜こそ兄は気が付いてくれるだろうか。今までオーディションの練習の中にずっと秘めてきた私自身の本心に……


「ただいま」


 私が考えに浸っているところに、遼が仕事から帰ってきた。台本が半開きでテーブルの上に置きっぱなしであった事から、きっと遼は台本を読んでいる筈なのだが、その様子はいつもと変わらず呑気なものだった。しかし張りのある奥行のあるいい声が部屋中に響く。


遼「お。凛子、熱心だな。また演劇の勉強か?」

凛子「演劇は感性と体で表現するんだよ、遼」

遼「そうだ、今日は雛子来ただろう? 映画の約束すっぽかしてしまったよ」

凛子「メールであやまっときなよ。毎回そんなだとそのうち振られるよ?」


……フラレテシマエバイイ。


遼「ははは、心配無用。明日、昼飯で埋め合わせする事になったから大丈夫さ」

凛子「なんだ、私にのろけたいだけカよ。馬鹿兄貴」

遼「本当言うとな今日は、雛子へのサプライズを仕込む為に準備していて映画に遅れてしまったんだよ。明日は雛子の誕生日だからな。アイツの喜ぶ顔が目に浮かぶよ」

凛子「遼……ゴメン、ちょっと、いいかな?!」


遼「……なんだよ? 急に」


あたしはもうそんな遼のささいな会話にさえ、いたたまれなくなり、つい大きな声をあげ食い気味に口をはさんでしまった。わかっていた。遼は明日、雛子さんにきっと、正式に告白するつもりなのだ。

凛子「ね、遼。台本、台詞覚えてくれたよね? アタシ今度の週末には又オーディションなんだ。今から練習付き合って」


遼「……今?」

凜子「今」


遼「今日じゃなきゃダメなのか?」

凜子「今日じゃなきゃダメなんだ」

 

あたしはいつものように劇中の舞台を作る様子で、夜桜の見える窓を、ガラリ、と開けた。これは二人の合図のようなものだった。


遼「……」


……わかっていた。二人は両想い。明日、兄は雛子さんだけのものになってしまう。だから偽りの演劇の世界だけでもいい。一度でいい。兄に本当の気持ちを伝えたい。今夜の台本で、このシナリオで。明日の告白の前に、嘘でもいいから、兄に私の本当の気持ちを受け止めてほしい。


しばらく時が止まるほどの静寂があった。どれくらいの時間だったのだろう。


遼「僕の事を話してくれないか」


遼が急に台本の台詞を口走った。これは台本の台詞だ。


凛子「……」


凛子「……あなたのこと?」


私の身体は遼に向き直り、物語のヒロインを演じる事に順応する。


……兄は舞台役者向きだ。


 兄が演じる時の声色は格別だ。この狭いアパートメントの窓の外では神田川が流れている。役者を演じる兄の声はこの六畳間の二階の小さな部屋に独特の世界を創り、自然に私をお芝居の世界に引き込んでくれる力があった。


遼「なぁ。僕には記憶がない。教えてくれ、僕は何者で、君は一体誰なんだ」


 どこかうっすらと遠くを見つめているような、不思議な兄の眼は心なしか透明感があり、夜の月夜、夜桜の舞う窓の外に向けるその横顔はとても美しいものだった。


凛子「……わたしは、」

凛子「……わたしはあなたの、」


凛子「あなたの彼女だわ」

(大好きだよ。遼)


遼「……僕の恋人?」

(そうだよ。恋人だよ)


凛子「あなたは両親と車の事故で生き残り記憶を失ったの、記憶を失う前から……私はずっとあなたの側で生きてきたの……あたしは、……あなたの唯一人の恋人、今までも、これからも、ずっと」


この気持ちは嘘じゃない。本気だ。


 兄の頬を両手でフワリと包み込む。窓の外は三日月の夜。夜桜の揺蕩う夜の風が肌を触ってゆく……。陶酔したような愛しい瞳で兄の瞳を見つめる。

ああ。できる事ならばこのまま兄の瞳に吸い込まれてしまいたい。

この時を永遠に刻むように……


 ……でも今は簡単な事だ。このまま台本通り、あたしは兄に、そっと口づけをすればいいだけなんだ……このまま……

遼「違うよ。凛子」


凛子「!!」


 突然兄があたしの手を優しく取り、静止した。……諭すような優しい声で。


遼「凛子は妹だ」


にこりとあたたかく微笑む兄。昔と変わらずあたたかく、優しいあたたかい瞳。

瞬間、ぽろぽろと涙が流れる、何故だろう、今までそんな事なかった。今までは台本通りだった。兄が台本から外れたアドリブを口にするなんて、そんな事今まで一度だってなかった。そんな事一度だってなかった筈だ。


凛子「遼……ずるい……」


私は下を向いてうつむく。


凛子「ずるいよ、遼。そんな台詞、台本に書いてない……書いてない!」


凛子「書いてないよ!ちゃんと台本通りにやってよ!」


……私は遼の胸に顔をうずめて泣きじゃくる。遼の前で泣きじゃくった。


遼「凛子、俺達は何も変わらない。俺はいつも見守ってる。それは変わらない、変わる事はないんだ。たった一人の可愛い妹なんだ。ずっと側にいる。大丈夫、大丈夫だ」


凛子「……変わらない? 何も変わらない?」


遼「変わらない、何も変わらないよ、馬鹿だな、凛子は」


凛子「……」


遼「凛子の俺への気持ちはね、きっと両親を失い、兄も無くすという不安から来ているだけ。凛子、それは恋じゃあない」


遼「凛子の気持ちはね、家族が大切っていう気持ちなんだ」

凛子「……家族?」

凛子「……本当に、何も、変わらないの?……今までと同じなの?」


遼「ああ。変わらない」


凛子「本当に?」

遼「ああ。本当に」


 夜桜の揺蕩う窓の外の三日月はいつも変わらずに輝いているものだ

……いつも何も変わらずに。


 ……有り体に言えば、あたしは遼にフラれた。


 というか、遼のアドリブはあたしの心を解放し、とても爽やかな気分にさせてくれた。兄は変わらない、そうアタシに言ったけれども、私にとってそれは間違いなく大きな失恋に違いなかった。


 だがあたしの想いは劇を通して遼に伝わった。


 遼が劇中に初めてアドリブを口にした時に、それは私の心に伝わった。

役にではなく、それはあたしに対しての遼自身の言葉だったのだから。


 遼が私に語った愛情は私の求めていた愛情とは違っていた……それはきっと質の違う、形の違う愛情。でもその答えはあたしが納得するには十分すぎるもので、きっと遼は今までと何も変わらず、兄はアタシの事を大切に思ってくれる。きっとその気持ちは変わらないのだろう。


 結局、あたしは自分のエゴまじりの自分本位な恋心を遼に剥き出しに押し付けようとしていただけの事だった。でも兄の気持ちなど何も考える余裕などなかったのだと思う。……それは私が、妹でも子供であり女だったからなのだろう。


……淡い片思い。

恋心という感情は実にやっかいなものだ。


私のマリオネットのような恋はようやく千秋楽を迎えた。

明日、あたしは、演劇の台本を全部捨てるだろう。

髪も切ろう。私は本来、ショートカットの方がよく似合う。

そして次は台本のいらない恋を探してみよう。


 私は鏡を覗き込み、早熟でない残念な身体を見つめ、自然と雛子さんのように不思議とスローモーションのように瞼を閉じる事が出来、はにかむように光の中でそっと静かに微笑んだ。

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マリオネットの微笑 橘 嬌 @tatibanakyou

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