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 イベント会場の東側に設置された「赤いリンゴのモニュメント」は、金属性のワイヤーで編まれた直径二メートルほどの大きなリンゴのオブジェである。中心部が赤のLEDライトで装飾されているが、ワイヤーの所々に淡い光が灯ったチップのようなものが下がっている。

 よく見ると、それは透けるほどに薄く削がれたリンゴ型の木片であった。ヘタの部分が丸くカーブを描き、ワイヤーに架けられるようになっていて、それぞれに文字が記入されていた。カップル二人の名前であったり、たまに「彼氏が欲しいです!」と願い事が書かれていたりする。リンゴのワイヤーに引っ掛けると、中央の赤い光を受けて、木片の形が淡い光を帯びて浮かび上がる、という仕掛けだった。


 真っ赤な光は、それだけでは妙にどぎつい灯りでしかないが、鈴なりの木片の透かしを通すことで、濃淡が生まれ、柔らかな光に変わっていた。


「リンゴは、『愛の果実』なんだってさ。だから、永遠の愛を誓うのにふさわしい、って、うちの大学のやつらの発案。この木片が、実は研究成果らしいよ」

 英人が説明すると、加奈は、ご自由にどうぞ、と書かれた籠に入った木片を手に取ってみた。光を通すほど薄いのに、反り曲がったりせず平らで硬かった。風が吹くと、ワイヤーに下がった木片が、シャラシャラと澄んだ音を立てる。まるで金属片のようなのに、手触りや色合いは木そのものだった。


「不思議、でも面白いわね」

「残念ながら、素材はリンゴではないけどね。いろいろな廃材を原料にしているんだって聞いた。……二人の名前、書こうか?」

「……うん」

 備え付けの油性ペンで、リンゴの木片に並べて名前を記入する。二人で一緒に、なるべく上の方に手を伸ばして、ワイヤーに吊り下げた。振動で揺れる木片を通して、二人の名前が見え隠れする。


 自分達の木片を見上げながら、二人はつないだ手に力を入れる。相手の存在を確かめるように。視線は、自然と木片からお互いに移っていく。吸い寄せられるように、二人の顔が近づいていく、が。


「あ……」

 どこからか聞こえてきた声に、その動きはぴたりと止まる。赤い光の向こう側に、人影が見えた。

「……行こうか」

 何事もなかったかのように、英人は力任せに加奈の手を引き、加奈も英人の歩調に合わせて、足早について行く。いつになくぶっきらぼうな態度が、英人の照れ隠しだと感じて、加奈自身も照れくさくて無言になる。

 人影は若い男女のようだった。気まずそうに英人達をやり過ごそうと、目を逸らしているようであったが。


「え?」


 至近距離で目に入ったのは、よく知る人物。今日はここにいないはずの……俊と美矢の二人だった。加奈は思わず立ち止まった。よく見ると、二人は加奈達と同じように、手をつないでいる。思わずその手にくぎ付けになると、二人は慌てて手を離して、恥ずかしそうに体を背けあう。


 ここは、お互い知らんぷりをした方がいいわよね。


 再び歩き始めようとするが、抵抗を感じて立ち止まる。英人の動きが止まっていた。

 イルミネーションの灯りだけでも、その表情が強張っているのが分かった。その視線は、目の前の二人……そのうちの俊に注がれている。それに気付いた俊は、先ほどまで恥ずかし気に逸らしていた目で、今はしっかり英人を見つめていた。そのまなざしに宿っているのは、驚いているようでもあり、怒りに満ちているようでもあった。


「……先輩?」

 不安げな美矢の声で、場の緊張が揺らいだ。それをきっかけに、英人が再び「行こう」と加奈の手を引っ張った。少しよろめきながら、英人について行く。


「英人……」

 どうしたの? という言葉を飲み込み、加奈は絞り出すようにその名を呼んだ。

 英人が立ち止まり、手の力を緩めた。

「……ゴメン、手、痛かった?」

「大丈夫……」


 俊達との距離は五メートルほどしか離れていない。俊のまなざしが、まだ刺すように感じ取れる。しかし、追いかけてくる様子はない。

「英人……彼を、知ってるの?」

「……加奈、僕は……」


「よく知っているわよね、シバ様」


 前方から、若い女性の声が、不意に届いた。

「ワタシのために、アイツを苦しめようと、手伝ってくれたんだもの。でも、いい加減浮気はやめてほしいです。ねえ、シバ様?」


 暗がりから現れたのは、一人の少女。タータンチェックのニットのひざ丈スカートに紺のダッフルコートに身を包み、斜め掛けに茶色い布製のポシェットを下げた、どこにでもいるような女子高生風なのに、潤んだ瞳は英人を見つめ、年齢にそぐわない妖艶な笑みを浮かべている。

 見覚えがあるような気がする、が、加奈は思い出すことができない。


「もう戻ってきてください。あなたの愛する、マリカのもとへ」



 ……マリカ?

「……谷津さん?」


 どこか歌うような、けれど下ったらずな口調とその名前に、加奈の記憶は掘り起こされる。しかし。


 決して良い印象を抱いていたわけではなかったが、その記憶にある少女とは、がらりと雰囲気が変わっている。

 人を小馬鹿にした態度は変わらない。

 けれど、以前のマリカが持っていたのは、おもねるような、媚びるような眼差しだった。

 こんな風に、揺らがぬ自信に満ちてはいなかった。


「あんたも、恋人ごっこは十分楽しんだでしょう? もう返してよ。シバ様は、ワタシのモノなんだから」

「シバ……さま?」


「ふざけるな! 僕は、一度だってお前なんかのモノになったことはない!」

「うそ! シバ様は、その女に騙されているのよ!」

 激高する英人に、いきなりマリカは泣きそうな顔になって、すがりついてくる。


「やめろ! お前なんか知らない!」

 加奈を後ろ手に守るようにして、英人はマリカを振りほどき、突き飛ばす。


「……アンタ、誰?」

 倒れこみ、這いつくばった姿勢のまま、マリカは英人を見上げた。さっきまでの笑顔や泣き顔は消え去り、不審に満ちた目で睨みつける。


「アンタ、シバ様じゃない! アンタ誰よ? ワタシのシバ様は、どこにやったの?」

「やめろ……」


 狂ったように立ち上がり、英人にしがみつこうとするが、英人は寸前で身を逸らす。勢いで、マリカは再び道に倒れこむ。


「……痛い……いたいよぉ……なんで? なんでワタシをこんな目に合わせるの?」

 スカートからのぞく膝は、擦り剝けている。泣きじゃくるその顔も、頬に擦り傷ができていた。


「返してよぉ、ワタシのシバ様を! アンタなんかいらない!」

「……めろ、やめろ!」

 マリカの叫びに同調するように、英人もうめき声をあげるが、マリカは意に介さない。


 泣きながら、ポシェットをまさぐる。取り出したのは、果物ナイフ。マリカが立ち上がると、カラン、と小さな音を立てて、カバーが足元に落ちる。マリカの右手に握られたナイフの刃が、イルミネーションの灯りを受けてきらめく。


「アンタなんか、いなくなっちゃえ!」


「英人! ダメーッ!」

 突進してくるマリカの前に、呆然と立ち尽くす英人。その姿に、加奈は悲鳴を上げた。





「アンタ、シバ様じゃない! あんた誰よ? ワタシのシバ様は、どこにやったの?」

『お前はナンバーズじゃない! どこの誰とも分からないガキが! よくも騙してくれたな!』


「やめろ……」

 やめて、やめてよ、痛いのはイヤだよ。


「……痛い……いたいよぉ……なんで? なんでワタシをこんな目に会わせるの?」

 なんで? なんで僕がこんな目に会うの? イエット! どこに行ったの?

 助けて! シンヤ! イエット!


『その名をお前が口にするな! 私がどれだけアイツを、真矢に期待していたかも知らずに! 真矢を犠牲にして、手に入れたのがお前だと!? シヴァ神を手に入れるはずが! 真矢もとんだ無駄死にじゃないか!』


 シンヤが、死んだの? もう、僕を助けてはくれないの?

 イエットも? イエットも、死んじゃったの?


「返してよぉ、ワタシのシバ様を! アンタなんかいらない!」

『返せ! 私の真矢を! 私の未来を! 希望を! お前なんかいらん!』 

 

 罵声を浴びせながら、手元にあったガラスの灰皿を投げつけてくる男性は、自分の養い親だ。自分の後継者にと望んだ部下を犠牲にして入り込んだ組織でも、思っていたほどの見返りは受けられず、代わりに厄介者を押し付けられた。社会的地位も、名誉も手に入れたはずなのに、信頼していた部下を死に至らしめた罪悪感を、その厄介者にぶつけ。


 脅しのつもりで投げつけた灰皿が壁に当たり、砕けた破片が、その子の顔を傷つけた。その傷を見るたびに、さらに迫る罪悪感を打ち消すように、虐待を加え続け。


 ある日、通報を受けた組織の手によって、その男は……井川鉄臣は姿を消した。しばらくして、人が変わったように穏やかになって戻ってきた養父は、もう英人に手を上げることはなくなった。いや、英人のことも、真矢のことも忘れたように、無関心になった。


 お父さん、僕のこと、本当にいらなくなったの?

 もう、僕を忘れちゃったの?

 いやだ、いなくならないで! 叩いてもいいよ! 僕のこと、いらないって言わないで!


「……めろ、やめろ!」

 叩かないで! 痛くしないで! いなくならないで! もうやめて!

 助けて! たすけて! イエット! シンヤ! 僕を一人にしないで!


「アンタなんか、いなくなっちゃえ!」


 あれは、あのキラキラしたのは、ガラス? また、僕にぶつけるの?

 バカが! あの男は、もういないんだ!

 そうだよ、僕を傷つけた、あの男は、もういない。

 いるよ、でも、もう心は、ないんだよ。僕のことなんて、忘れちゃったんだよ。

 シンヤのことも。でも、今は、シンヤもここにいるから、大丈夫だよ。

 そう、もう、怖くないよ……。


「英人! ダメーッ!」


 目の前に広がる、赤い光は、あのリンゴ? 



「いやあーっ! 加奈! 加奈! どうして?!」


 ……加奈?

「……加奈?」


 尻もちをついた自分を、覆いかぶさるように抱きしめる、一人の少女。それが、最愛の恋人の腕だと理解するのに、数秒かかった。


「か、な……?」

 どうして、加奈が、目の前に? どうして?


 そっと、その体を抱きしめ返す。その手に、生温かさを感じる。それが、加奈の体から流れ出た血液だと理解するのに、もう数秒かかった。


「そ、その女が、勝手に! マリカは! 悪くない!」

 血まみれの手をバタバタと振って必死に自己弁護する少女も、英人の目には入らなかった。ただ、その腕の中で、次第に失われていく体温ぬくもりを逃さぬよう、必死に掻き抱く。


「……加奈? 加奈?」

「え……いと、泣か、な……で……」


 ゴボッ。


 絞り出すような声は、喉から吹き出した血で途切れてしまう。それを補うように、指先が英人の目元に伸ばされる。が、その指は、英人の口元で、力尽きる。唇の上を、冷たい指先がなぞって、地に落ちた。


「…………!」


 声にならない叫びが、英人の喉を震わせた。



 まるで、その代わりのように、天が轟く。

 冬空を貫く、一条の光とともに。



 あまりにも至近距離の雷光は、周囲の木々を彩る電飾を、破壊する。

 一瞬の薄闇の後、木々は光を纏う。


 赤々と燃え上がる炎の中で、英人は声もなく慟哭した。




 その熱が、腕の中で冷たくなっていく体に、熱を与えてくれるのを祈るかのように。

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