第九章 消しえない絆

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 思いがけない出会いから無我夢中で真実を口説き落とした健太は、充実感に浸っていた。勢いで押しまくってしまったが、思い返すとかなり強引だったと思う。

 初めて女性に告白し、口説き落とし、手をつないで歩く……出会って一時間とは思えない性急さであった。けれど、このタイミングを逃したら、もうチャンスはなかったかもしれない。荒っぽかったが「拙速は巧遅に勝る」だ。


『何でも時間をかければいいってもんじゃない。いざという時は最悪な条件でもシャッターを切れ。チャンスを逃すな』


 師匠によく言われていた言葉だ。もちろん、最低限の技術を身に付けた上で、の「拙さ」ではあるし、まだまだ自分の技術では早さよりも丁寧さを重視しなければいけない場面は多々あるが。


 そもそも健太は、色々思い悩むより行動に移すことが多い。それで失敗したこともあるが、概ねうまくいっている。人生行き当たりばったり、何とかなるさ、で乗り越えてきたのだ。

 今回も、その勢いが功を奏して、結果幸せな時間を過ごすことができた。

 幸せな、時間だった。


 結局、あのあと三十分以上、手をつないで商店街をただ歩き回り、さすがに冷えたのか、真実がくしゃみをしたところで、駅舎に入り、自販機でホットドリンクを買って飲んだ。

 前に俊に買って渡したのと、たまたま同じ銘柄のカフェオレを、真実は大事そうに両手で包み、なかなか飲もうとしなかった。促すと「もったいなくて」とためらう真実に、「冷めちゃうよ」と再度促すと。


「飲んだら、今日が終わっちゃうみたいで、なんだか寂しいな」


 と言いながら、ようやくプルタブを上げてカフェオレを飲んだ。

「あったかい」と、微笑む真実の笑顔が愛おしくて、あやうく連絡先も告げずに別れるところだった。スマホの使い方がイマイチな健太は、真実に操作を教えてもらいながら、連絡先を登録した。


 連絡先のトップに「遠野弓子」とあったのを見て、怪訝な顔をした真美に「あ、仕事相手。今組んでいるライターさん」と慌てて言い訳すると「え? 弓子さんと一緒に仕事しているの?」と驚かれた。

「友達の叔母さんなの」とも言っていた。同じ高校なので、和矢か美矢と知り合いなのだろうか。家族関係まで知っているということは、かなり親しいのかもしれない(和矢は「カーヤ」と登録してあったので、真実の反応はなかった)。


 とすれば、真実の気にしていた「加奈」も、和矢か、もしかしたら俊とつながっている可能性がある。学年も同じだし。

 真実と改札口で別れた後も、そのことが気にかかる。


 真実は「二人がお互いを好きで好きでしょうがないって、この距離でも分かりますもん」と言っていたが、加奈と俊が親しいならば、二人の関係も素直に受け止められない。少なくとも、『シバ』――『イガワ』の意図は、別にあるのではないか、そんな疑念が生じる。




 駅舎を出て、立体の駐輪場に差しかかる。

「ストーキングとは悪趣味だな」

 建物の陰から、『シバ』が姿を現した。


「それとも偶然か? ずいぶん楽しそうにしていたじゃないか」

「お互い様だろう? この間とずいぶん違っていて、目を疑ったよ」


 『シバ』は無言で微笑むと、目線をそらし、ゆっくり歩きだす。

 健太が戸惑っていると、足を止めて振り返り、やはり無言で進行方向に首を振る。ついてこい、ということだろう。

 黙って後を追うと、鉄道関係者用の駐車場についた。一般用と違って、あまり車の出入りはなく、周囲に人もまばらだった。

 『シバ』は腕を組んで、駐車場を囲む黄緑色のフェンスに寄りかかる。おもむろに健太に視線を向ける。先ほどまでの笑みは消えていた。


「お前、インドにいたことは?」

「人に聞く前に、まず自己紹介でもしたらどうだ?」

「……イガワ、エイトだ。お前は?」


 思いのほか素直に、名前を名乗った。偽名かとも思ったが、真実の言っていた苗字とも合致するので、本名なのかもしれない。


「笹木、健太、だよ」

「日本人なのか?」

「一応ね」

「一応? どういうことだ?」

「それは俺が聞きたいよ。俺は、自分の生まれが本当はどこなのか知らないし、日本人なのかも、本当のところは分からない」


「……お前が、僕の知っている男なら、日本人で間違いない。戸籍は……もうないかもしれないが」


「お前……俺を、知っているのか?」

「あいつは、高天俊は、お前を『ムルガン』と呼んでいた。……そうなのか?」

 健太の質問には答えず、イガワは質問で返した。


「昔、子供ガキの頃に、そう呼ばれていたこともあるけどな」

「いや、お前たちが知り合いのはずがない。あの時だって、明らかに初対面だったじゃないか」

「……そうだよ。初対面だ」

「だったら、お前は、間違いなく、『ムルガン』なんだ。少なくとも、その資質を持って生まれた人間なんだ。あいつが、そう呼びかけたのなら……」

「あのさ、さっきも言ったように、俺もよく分からないんだけど。そもそも、お前は何で知っていたわけ? 俺のことも、あの子の中にいる、のことも」


「……お前は、ット、なんだろう?」

「っと……?」

「Yet」

Yetまだ?」


 単なる英単語としてはない、脳の奥で、チリチリと引っかかる、その音。

「覚えていないのか? 真矢のことも?」

「お前、どうしてその名を?」

「……お前が生きているはずない、あの時、真矢と一緒に死んだんだ。そう思わなければ、お前まで恨んでしまいそうだった」

「お前は、真矢を、俺の過去を知っているのか?」

「……つけまわしていたくらいだから、僕の名前も情報も、もう知っているんだろ?」


「あのさ、正直言うけど、今日お前に会ったのは、偶然なんだよ。そりゃ、公園で見かけて、あとをつけていったのは本当だけど。お前の名前だって、さっき初めて聞いた。それも苗字だけな。あと、大学生らしい、ってことしか、知らない」


「……どうやら僕の買いかぶりらしいな。どうせさっきの、一緒にいた加奈の友達に聞いたんだろう」

「まあね」


「改めて言う。僕の名前は、イガワエイト、だ。それで、何も思い出さないか?」

「?」


「僕の名前、今も、昔も変わらない。僕は、ずっと、エイトだ」


 日本名のエイトではなくeightに発音が変わる。


「呼び名まで似ていて紛らわしいって、よく言われていたじゃないか。なあ、『エイトの予備の、イェット』」


 なまりのない王室英語で発音された、短い一文。


 そこに含まれた侮蔑の響きが、健太の記憶に、触れた。

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