第六章 忘れられた守り手

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 九月半ばを過ぎ、遠野弓子との仕事が本契約となった。

 そして、今度は取材に向け、再び新幹線に乗った。

 半月余りの間に、健太は連絡が取れるようにスマホの契約をした(正確には「連絡が取りづらいから契約しろ、と半ば強制された)。

 ただ、まだ住居が定まっていないので、契約できない、と言ったら、会社名義で契約して貸出、という形にしてくれた。

 次に住居を探さなくてはならなかったが、しばらくは地方に行きっきりになるため、二の足を踏んでいると、弓子が家の近くにマンスリーマンションを探して紹介してくれた。

 本来は、こちらも保証人など、ややこしい問題があったのだが、弓子の顔利きでそこらへんはスルーされて、気が付いたら契約が終わっていた。家賃は編集部から取材準備金としてもらった費用の一部を振り込み済みで、ならば東京でホテル暮らしをするより、早く入居してしまった方がいい、と早速向かうことにした。

 ホテルと言っても、素泊まり相部屋2段ベッドの格安ゲストハウスだったが、それでも日数が重なれば費用はかさむ。東京でやるべき用事は済ませて、あとは電話やメールでやり取りすればよい。メールは……正直まだ入力が遅くて、打ち合わせには向かないが。

 こう書くと健太が機械音痴のようだが、写真関係のソフトは普通に使える。実は、大事な仕事道具のカバンの中には、かなりハイスペックな小型パソコンも入っているし、その他の機材も、ちょっとした故障は自力で修理できる。もちろん本来は専門家に任せた方が無難だが、そうは言っていられない状況で長年暮らしてきたので、自然と身についてしまった。要は、ネットを使った文章のやり取りに苦手意識があるだけなのだ。

 今時の若者にしては、色々遅れている、と思われがちの健太であるが、そもそも二十数年の人生の、実は半分も日本で暮らしていないことが、一因ではないか、と自己分析している。そのうえ、日本で暮らしていた時も、それなりに校則の厳しい学校に通っていたので、友人と携帯電話で会話することも、メールすることもなかった(「携帯電話等の携帯通信機器の所持禁止、という校則だったが、学校名を言うと「ああ、あのブラック校則のところね」と納得されたので、結構有名な校則らしい)。

 そんな人から見たら暗い青春時代も、健太にとっては恵まれた生活だったと思う。

 とりあえず、安全で、清潔で、食べるのに困らなくて。ずっとアルバム委員をしていたので、学校貸し出しのデジタルカメラを借りて、写真撮影の楽しみも満喫できた(本当は自分のカメラが欲しかったが、アルバイト禁止のため金策の手段がなく、カメラを借りるためにずっとアルバム委員に立候補し続けた)。

 幼少期に比べたら、とても恵まれていたと思う、物質的には。

 でも、本当に満たされていたのは、その幼少期だったと、今は思う。

 真矢と、カーヤとミーヤと、おばあと暮らした、あの頃が。

 ムルガンと呼ばれていた、あの頃。

 

 ムルガンが真矢に出会ったのは、北インドの下町、いわゆる「スラム街」にほど近い、住宅街だった。と言っても、それは周囲から聞いた話で、自身には全く記憶がない。

 目と鼻の先には高級住宅街があり、一方にはスラム街がある、インドの国情が如実に表れている地域で、近所は一応店舗を持っている商人が店を連ねている、中級層の世帯だった。真矢たちと暮らしていた家は、それらの店舗よりやや奥まった、路地裏に近い場所にあり、商っていたのは薬……と言っても、現代医薬品ではない。スパイスにも使うような香草・薬草の類を小分けにして、主に観光客向けの土産物として表通りの商店に卸していた。

 もっとも、それほど大した稼ぎになってはいなかったと思う。本業は店主……おばあの祈祷による隠れ治療院だった。薬草はもともと施術の補助に使っていたが、治療代代わりに野山で集めた薬草を持参するものも多く、使いきれず宝の持ち腐れとなっていたのを、真矢が商品にして、家計の足しにしたのだという。

 そもそも真矢も、幼い子供三人をつれて行き倒れかけていたのを、おばあに保護されたのだという。その子供が、ムルガンと、和矢と美矢だった。

 当時はそう聞いて納得していたのだが、成長してから考えると、色々齟齬があることに気付いた。和矢と美矢、当時はカーヤとミーヤと呼ばれていたが、彼らと別れた時の年齢を考えると、ムルガンがおばあの家で過ごしたのは、三年、長くて四年程度のことになる。

 幼い子供にとっては、たとえ三年でも長く感じられるが、逆にその前の数年間を、どのように過ごしてきたのか? カーヤとミーヤが真矢の子供であること、自分は違うことを、誰に言われるでもなく承知していたが、では本当に出会ったのはいつなのか?

 今の両親に出会った日のことは、何となく覚えている。

 カーヤもミーヤも幼く、その上誰が見ても際立った顔立ちをしていたから、誘拐されないよう、極力外出は控えていたため、おつかい事は自分の役目だった。

 初夏のその日も、商品の薬草を、なじみの商店に運んで行った時に、店の前で体調を崩した女性を抱え、慌てた様子の男性が日本語で助けを求めていた場面に遭遇した。

 真矢との生活で、ムルガンはヒンディー語だけでなく、英語も日本語も理解できていたので、その男性に日本語で話しかけた。異国の地で流暢とは言えなくても、理解できる程度の母国語を聞いて安心したのか、十歳になるかならないかの子供に男性はすがってきた。

 落ち着けばちゃんと英語も話せたらしいが、突然倒れた妻の様子に頭が真っ白になってしまったのだと、のちに聞いた。

 おばあ直伝、とまではいかないが、多くの病人を目にしてきたムルガンが見立てたところ、どうやら低血糖と脱水らしいと砂糖を用意して(もちろん費用は男性もちである)口に含ませ、少し意識が戻ったところで男性の持っていたペットボトルのミネラルウォーターを飲ませた。意識が明瞭になってきた後は、リキシャと呼ばれる三輪タクシーを呼んで、富裕層向けの病院に運んでもらった(おばあの名を出して、絶対過剰にぼったくらないように運転手に注意もした)。

 翌日、商店でおばあの家を訊いた男性が訪ねてきた時に、見立て通り、彼の妻は観光疲れと食欲低下で食事を十分にとっていなかったために起きた低血糖と脱水による意識低下だったと聞き、感謝の言葉を述べられ、自分の診断力もまんざらではないと有頂天になった、が。


「この子は、どんな素性なんでしょうか? 日本語も話せるし、顔立ちも日本人だ。こちらに引き取られているだけで、血縁ではないらしいと聞きました」

「それが何か?」

 感謝の言葉を聞いたときは笑顔だった真矢が、顔は笑ったまま、強張った声で答えた。

「大変利発な子供だと思います……が、失礼ですが、学校へは通っているのでしょうか? 日本語も英語も話せているようですし、機転も利いている。十分な教育環境がないのはあまりにも惜しい。事情によっては、私が援助したい……可能なら、引き取って面倒を見させてはもらえませんか?」

 大体、そんなような内容のことを言っていたと思う。

 みんなと離れるのは嫌だな、と子供心に思ったが、同時にその話が進められるような予感もした。

 ただ、きれいな白いシャツに立派なズボンとピカピカの靴を履いたお金持ちそうな男性が、継ぎはぎだらけのシャツを着回し、川で水浴びする程度で髪も肌も薄汚れていた子供を引き取ろうなんて本気だとは思えなかった。

 だから、もし本当に引き取られたなら、おばあや真矢親子にも、もっと食べ物や服を分けてあげられるかもしれない、だったらいいか、などと自己完結していた。

 数日して、真矢に「ムルが望むなら、あの人の子供になるか?」と聞かれた時も、「ああ、やっぱり」と妙に納得し、さしたる拒否もせず頷いた。

「あの人お金持ちなんでしょ? あの人の子供になったら、カーヤにもミーヤにも、お腹いっぱいチャパティ(インドの薄焼きパン)が買えるね」

 無邪気にそう言った自分に真矢は、「そんな心配はしなくていいんだよ」と苦い顔でかぶりを振り、抱きしめた。

「そんな理由で無理やり決めたなら、やめていい」

「違うよ。えっと……勉強、そう勉強したいんだ、僕。学校に行きたいんだ」

「そうか……ムルは頭がいいからな。学校に行かなくても、いつの間にか計算も覚えてくるくらいだし……ごめんな」

 とってつけたような理由だったのに、ますます真矢を悲しませてしまった、焦った自分は必死で言葉を重ねた。

「そんなことない。真矢が教えてくれたから、英語も日本語も。きれいな王国英語クイーンズイングリッシュだってあのおじさんに言われたよ」

「そうか……ごめんな。ムルを守れなくて、ゴメン……僕たちは、いつもムルに守ってもらっていたのに」

 逆だ。守ってもらっていたのは、自分だ、そう言いたくて、でも言葉が出なくて。


「いつか、本当にムルが守るべき人が、本当に苦しくて困っていたら、また守ってあげてほしい。でも、それまでは、自分を一番大切にしてほしい。約束だよ」


 涙をこらえるように眉根を寄せて、でも何とか笑おうとしている真矢の顔を見て、その存在が今にも消えてしまいそうで、そんな予感を消すようにムルガンは、真矢を抱きしめ返した。


 まるで嵐に見舞われたように、話は展開し、翌日にはあの男性……笹木幸三夫妻の宿泊するホテルに移動した。真矢に「健太」の名を貰って。「ムルガン」の名を捨て。

 初めてバスタブで入浴し、ソープで頭や体を洗い、清潔な衣類を纏い、おいしい食事を与えられ……その直後に、国外に行くことになるとは予想していなかった。

 別れ際泣いていたミーヤに、涙をこらえて見送っていたカーヤに、チャパティや甘いお菓子をたくさん持っていくのだという小さな夢は跡形もなく消えた。


 貿易商を営んでいた笹木夫妻と正式な養子縁組を結んだのはさらに一年後、日本に帰国してからだった。

 その頃には、「健太」という呼び名に違和感を覚えず返事ができるようになっていた。

 インドで生活して頃から考えたら、望むべくものない教育環境が与えられ、豊かな生活が送れるようになった。真矢に伝えた望みは叶った。

 叶ったが……。


「真矢、俺が本当に欲しかったのは、大切な家族で、それはあの路地裏の家にあったんだよ……」

 あんなにも切望されて養子になったはずが、養父母からは愛情を感じることはなかった。

 生活は保障してくれていたし、経済的には日本でも恵まれていた方だと思う。

 高校卒業が近づいた頃、養父が事故に遭い生死の境をさまよう中、養母から「もういいでしょ」とわずかな手切れ金とともに養子縁組を解消された。養子とはいえ、このまま養父が亡くなれば、遺産の相続権が生じる。健太には拒否することもできたが、素直に従った。

「あの人が仕事のためだっていうから我慢してきたのに、結局大して役に立たなかったわ」

 ポロっと漏らした養母の本音を健太は聞き逃さなかった。詳しく話してくれたら、すぐに書類に署名する、と言うと、養母はどんどん話し出した。

「仕事のため?」

「そうよ、あなたを引き取ったら、恩を売れるからって」

「それは、誰に?」

「さあ?」

 仕事上の付き合いの相手であることは確かで、インドで健太に出会ったのも、その人の勧めがあったかららしい。健太を引き取ることで、その人と仕事上かなり有利なつながりができる、とのちに聞かされたという。

 様子を見るために観光客を装って街を散策していた時に、養母が体調を崩し、本気で困ってしまった時に、偶然出会った、という。養母も最初は、仕事を兼ねた観光旅行だと思っていたから、窮地を救ってくれた健太に感謝してはいたが、本当に日本人なのかもわからない、薄汚い浮浪児(とその時は思っていたという)を養子に引き取るなどありえない、と反対した。

 その時に、実は……と養父に事情を打ち明けられ、渋々同意したということだった。

 結局、多少のつながりは生まれたものの、仕事が有利に運ぶこともなく、かと言って今後どうなるか分からないため、健太を無下にもできず……お荷物となった健太に愛情も感じず、今に至る、と。


 なるほど、な。

 あくまで仕事上の有利不利が理由だから、愛情は持てなかった、と。

 それは、お互いの相性や生活歴の違いと言われるよりも、すとんと胸に落ちる理由で。

 納得して、健太は書類に判を押した。


 実際に社会に出てみれば、社員を家族のように大切にする経営者も存在することを知り、自分もビジネスライクには割り切れない人間関係を得られた経験を踏まえて、仕事うんぬんよりも養父母の人間性や、なんだかんだでインドの生活を忘れられない自分の在り方もかなり影響していたのではないか、と感じるようになったけれど。


 あの時、なぜ真矢のもとを離れたのか。それだけが悔やまれてならない。


 そもそも、自分を引き取るよう促した人物は誰なのか。真矢とのつながりはあるのか。それが知りたくて、再びインドに渡った機会に、あの家を探した。


『ムルガン、お前がいなくなってすぐに、真矢の命の火は、消えた。今にして思えば、お前の存在が、真矢たちを守っていたのかもしれんな。いや、まだ使命は終わっておらぬ』


 昔の記憶を頼りに路地裏の家を見つけ出し訪ねた。今は一人暮らす老婆に、そう言われた言葉が、耳に残る。すでに真矢が亡くなっていた、それも健太が家を出て、それほど経たないうちに。そして。別れ際の予感は、本当になってしまったのだ。

 その事実に耐えられず、のめりこむように仕事をした。時々日本から仕事の打診もあったが、帰国する気にはなれなかった。何度もおばあを訪ね、カーヤとミーヤが本当は和矢や美矢という名前だと聞き、真矢の死と同時にどこかへ連れ去られたと聞き、あてもなく行方を捜した。十年以上前の幼い子供の行方など、分かるはずもない、と頭ではわかっていたが。


 この夏。

 不意に、日本に帰ろうと思い立った。

 雨季に入って一月ほど、七月初めのことだった。とはいえ、帰国するにも手元にまとまった金銭がなく、伝手を頼って日本人観光客向けのツアー相手の記念写真撮影の仕事を引き受けた。

 おかげで何とか旅費は稼げたが、撮影機材を破損するトラブルも起きてしまった。

 いつもなら注意深く扱っていたはずが、この時は気が逸り、手元がおろそかになっていた。それでも何とかして、早く日本に戻らなければ、という思いに駆られていたのだ。

 けれど、帰国した途端、そんな焦りは消えた。自分でもよく分からない心の乱れは、真矢の死や、和矢たちが見つからないことへの絶望からくる精神的疲労がたまっていたのだと、勝手に結論付けた。

 けれど。

「俺の存在……それが真矢たちを守っていた?」

 年寄りの繰り言だと思っていたが、現実に、遠く離れた日本で、和矢と美矢に再会した。

「俺の……使命?」


『いつか、本当にムルが守るべき人が、本当に苦しくて困っていたら、また守ってあげてほしい。でも、それまでは、自分を一番大切にしてほしい。約束だよ』


 それは、今、なのか?


 ……新幹線がトンネルを抜けると、窓の外にすでに見慣れた山々が、姿を現した。

 しかし、健太の疑問には答えが出ないまま。いまだ暗いトンネルを抜けないまま、目的地に到着した。

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