3

 新幹線ホームにて。

 一人の若い男性が、切符片手に右往左往していた。

「ええと、どこに並んだらいいんだ? 何で違う目的地のが同じホームから出るんだよ……」

 先程からパニックを起こして切符と次に入線する新幹線を示した電光掲示板を見比べている、どうやら新幹線に不馴れな若者を見て、世話好きそうなご婦人が、たまらず声をかけた。

「ちょっとお兄さん、どこまで行くの?」

 声をかけられて救われたように振り向いた顔は、ボサボサ髪に髭ボウボウ……ご婦人は、ちょっと後悔したが、声をかけた以上仕方ないので、手助けする。

 切符を見ると、自由席の特急券だった。

「ああ、これならええと、22番線の方が、後十分くらいで発車するわ……ほら、あっちに停まってる新幹線。でも、結構並んでいるわねえ。もう一本後でよかったら、この次の……ほら、『後発』って方のラインに並んでたら、座れるわよ」

 丁寧に教えてくれるご婦人に謝意を示して、若者は隣のホームに移動した。

「……意外とかわいい顔してたわねえ」

 人なつっこい目元が、存外整っていた。

 思いがけずときめいて、ご婦人は、若者の背を見送った。

「髭を剃って、キリッとすれば、いい男なのにねえ……」

 あれでは、まるで山から出てきた熊だもの。

 それも忠告すべきだったと、ご婦人は再び後悔した。



 うわ、確かに混んでる……。

 ご婦人の言う通り、既に車内は満席だった。

 別に座れなくても構わないが、通路にも人が溢れ、居場所がない。

 ふと後方を見やれば、ガラガラとは言わないが席は空いている。

 『指定席』―扉にはそう表示されている。

 今持っている自由席特急券と乗車券は支給してもらったものだから、もし指定席券を購入するならそこは自腹となる。

 正直、数百円の出費も若者には痛いところだが、預かり物の手土産や、新調した一部の機材(余分な出費を抑えたい理由が、まさにそこにある。前の仕事を終えた帰路で、重要な機材を修理不可能なまでに壊されてしまい、わずかな蓄えを根こそぎ放出したのだ)をつぶされてしまいそうな混雑に、心が揺れた。

 ご婦人の忠告通り、一本後の新幹線にするべきか……いやいや、夕方までに待ち合わせの場所に着かなければならないのだ。

 そうでなくても、新幹線に乗るまでにあちこち迷い、すでに予定は圧している。

 発車の合図が鳴り、意を決して、彼は、指定席車両に足を踏み入れた。

 どんどん指定席車両を突き進んでいくと、車掌に行きあたった。

 指定席の空きを訊ねると、まだ数席空きがあり、一番近い車両の席を取ってもらえた。

 機械の案内にはどぎまぎしてしまう若者だったが、人間相手ならいくらでも対応できるのだ。

 番号を確認して、相席の人に会釈をしてから、ホッとして席に着く。

「どうぞ荷物を上に載せてください」

 窓際の席だったので、彼を通す為に立ち上がってくれた紳士は、荷物を抱えたまま座る青年に、そう勧めた。

 お言葉に甘え、手荷物を一つ、棚に載せた。

「そちらはよろしいので?」

 青年が膝に大きなカバンを載せて座り込んだのを見て、紳士は尋ねる。

「あ、ちょっと精密な機械が入ってるんで、万が一落ちるとまずいんで……」

「ほお。……単なる観光旅行というわけでもなさそうですな……いや、失礼。あんまり大事に抱えていらっしゃるから、大金でも入ってるのかと」

 冗談めかして笑う紳士に引き込まれるように、青年も笑顔を返した。

「当たらずとも……というところです。大事な商売道具なんで、壊れたら食いっぱぐれるもんで」

 その素顔が、意外にも端正なことに、紳士は気が付いた。

「カメラマンなんです。まだ、全くの駆け出しなんですが」

 そう言って細めた目の奥に未来を夢見て煌めく光を、紳士は見たような気がした。

「それではお仕事、と言うわけですな。どちらへ……おっと、出すぎた質問でしたね。申し訳ない」

「いえ、構いませんよ」

 笑顔で青年は、国内有数の避暑地である町の名前を口にした。

 山紫水明、自然に恵まれた高原地帯である。

 年間通して、観光客が訪れている。特に夏休みシーズンは、合宿なども行われ、老若男女、街が人であふれかえる。

 とはいえ、9月に入り、トップシーズンは過ぎたと言える。

 秋になれば紅葉が始まり、夏ほどでないにしろ、再び観光客の足が向き始める。

 だが今は、喧騒を避けて遅い夏休みを過ごす大学生や別荘族、近場の住民が、街をそぞろ歩く姿が見られる程度。まだまだ週末や連休は混雑するだろうが、平日の人出はかなり穏やかになってくる。

 春夏秋冬オンシーズンのような観光地の、狭間に巡ってくる軽いオフシーズンと言える。

「今の時期は、あまり撮るものもないでしょうな」

 地元ではないが同じ県内に住所があるという紳士は、やや首を傾げる。

「あ、本格的に仕事に入るのはまだ先なんで……今回は打ち合わせというか。今日は前泊するので、下りるのは隣の駅なんです」

「なるほど。今の時期に、あそこは泊まるだけでもなかなか予約は取れませんし、ちょっと懐もつらいですな」

「そうなんですね。そういう手配は、出版社の方にしていただいて……正直、ネット、とかあまり慣れていなくて。できれば安くて、とにかく体を横にできればいい、くらいな人間なんで」

「今はずいぶんと便利な世の中になったものですが……私も若い頃は、リュック片手に行先も決めずに行き当たりばったりの旅をしたものですよ。安宿で見知らぬ方と相部屋になって、その場で意気投合して飲み明かしたり、後日手紙のやり取りをしたり……懐かしいものです」

「いいですね。自分もそんな旅をしてみたい」

「それでも重い荷物を持って移動とは、カメラマンと言うのは大変ですな」

「あ、これは……置き場がないもんで」

「?」

「俺、まだ住む家がないもんで……ずっと日本から離れていて、今月帰国したばかりで」

「ほう。どちらにおられたんですかな?」

 あ、これはまた失敬、と頭を下げる紳士に、青年は笑顔で応じ、てらいなく答えた。


「インド、です」





 ホームに降り立つと、ムッとした熱気が、青年を包んだ。

 高原の……という形容からは程遠い暑さは、空調の聞いた新幹線から降りる人間をげんなりさせる。開発された駅周辺は、高層ビルこそないものの、コンクリートや人工物で固められ、建物や道から照り返す熱気は都会と変わらない。

 新幹線が走り去る空気の流れが、さらにムワっと熱気を走らせる。

 もっとも、今まで十分な空調設備など望むべくもなかった地域を巡っていた青年にとっては、たいして苦にもならないものだった。

 ふと遠くを見やれば、山並みが目に入る。その青々とした風景に、少し気分が変わる。

 改札を出て、ちょっと日陰に入れば、涼しい風が吹き抜け、なんとも心地よい。

 


 待ち合わせは、駅前のビジネスホテルのロビーに夕方六時。

 まだ時間の余裕はあるからチェックインして、とりあえず必要のない荷物はフロントに預けて……。

 そんな算段をつけて、ホテルのフロントに向かった。

「○○出版の長田おさださんの名前でお願いしてあるんですが……」

「少々お待ちください……笹木ささき健太けんた様、でよろしいでしょうか?」

 にこやかな笑顔で尋ねるホテルマンに、青年……健太は頷いた。

「はい」

「……少々お待ちください……伝言を承っております。遠野様より、打ち合わせを変更したいとのことで」

「……は?」

「こちらの住所にご案内するよう、タクシーの手配も承っておりますので、少々お待ちください」

 そうホテルマンが差し出したメモを見て、健太は首を傾げる。

「すみません。地元じゃないんで分からないんですが、ここって遠いんですか?」

「市内ですが、ここからですと、お車で三十分ほどかと」

 三十分……タクシー代、どうしようか。

 健太は心の中で指折り、財布の中身を思い浮かべる。

 向こうの都合なら、領収証もらっておけば後で清算してもらえると思うが、とりあえず立て替えるにしても往復分を払うとなると、持ち合わせが、ちょっと心許ない。

 考えこむ健太を窺うようにして、ホテルマンは、続けた。

「……それから本日のご宿泊はキャンセルとのことでございます」

「……はあぁぁっ?」

「こちらのご住所のお近くに宿をお取りになられるとのことで……手数料などはご心配になられないよう、お伝え下さいと承っております」

 整然と告げるホテルマンに、思わずスミマセンと頭を下げながら、健太は頭の中を整理する。

 スマホも、携帯電話すらも持っていない健太と連絡を取ろうとするなら、宿泊予定のホテルに伝言を預けるのがベストだろう。

 それは分かる。

 ただ、あまりにも突然で、ちょっと混乱している。

 オマケにわざわざキャンセル料を払ってまで宿泊先を変える必要があるだろうか?

 当日キャンセルなら、宿泊代全額負担というのが、ほとんどのホテルの常識だ。

 タクシー代がかかることを考えても、宿を替えるメリットが感じられない。

 ホテルで手配してくれたタクシーに乗ったあとも、その疑問は解決しないまま、ホテルマンが言った通り三十分ほどで到着した。

 料金は三千円ちょっと。

 帰りのタクシー代がかからないとしても、その分キャンセル料でパーだ。

 ホテルに掲げられていた宿泊代が六千円からだったので、むしろ赤字になる。

「タクシー券をお預かりしてますので」

 代金を立て替える必要もなく、健太は目的の建物の前に立った。

 やや古びた、鉄筋コンクリート造り二階建ての事務所だった。

 薄暮の中に目を凝らしたが看板らしいものは見当たらない。

 と言うか、そもそも灯りが点いていない。

 ……本当にここでいいのかな?

 不安になりながら、キョロキョロ見回し、インターホンを発見した。

 恐る恐る、ボタンを押してみる。

『はーい』

 若い、というか、可愛らしい女性の声が応える。

「あの、○○出版の紹介で伺った笹木と申しますが……」

 優しい女性の声にホッとして、健太は名乗った。

『あ、ちょっと待ってください……』

 プツン、とインターホンが切れて、しばらくたった。

 が、誰も出てこない。

「お待たせしました」

 突然背後から声を掛けられ、健太はドキッとして振り向いた。

「あの……」

 そこに立っていたのは、まだ高校生くらいの、少年。

 夜目にも分かる、麗しい花のような、とびっきりの美少年。

「お呼び立てしてしまい申し訳ありません。叔母が……遠野が体調を崩しまして」

「……」

 目鼻立ちのくっきりとした彫りの深い顔立ち。

 それにどこか懐かしさを覚えるのは、ついこの間まで過ごしていた異邦の地の人々を思い起こさせるからか……。

 ……いや、違う。

 もっと、遥か昔に……。

 頭の片隅で、わずかに開く、記憶の扉。

「こっちの入口は今使っていないんです。ちょっと回りますが、そっちの垣根側に出入口があるんで」

 少年は先導しようとして、微動だにしない訪問者の様子に気付く。

「あの……」

 訝しげに声を掛ける少年を、健太はじっと見つめる。

「笹木さ……」

「……ヤ……」

 ようやく口を開いた健太の声は、強ばって上手く言葉にならない。

 ゴクン、と唾を飲んで、もう一度、今度ははっきり単語を紡ぐ。

「カーヤ……?」

「……ムル?」

 他の誰も知るはずのない、その呼び名が、健太の記憶の扉を、完全に押し開けた。

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