【第一部完結】トリムルティ~まほろばの秋津島に まろうどの神々はよみがえる~ 第一部 兆しは日出ずる国に瞬く

清見こうじ

兆し(きざし)

「ねえ、ちょっとイケテナイ?」

 特に大声というわけではない、むしろ小さな、抑えた声音こわねであった。

 耳に届いたのは、その声が、明らかに年齢を重ねた女性のもの、であったから。

「オボーさんにしとくの、もったいないわねえ」

 別の、同年代の女性の声が後に続く。

 今度は、いくらか年相応な言葉に思え、私は通路の角を曲がるのに合わせ、さりげなく声のほうに眼を送る。

 容貌ようぼうからは年齢は察しづらい東洋人の女性数人が、私に板状の携帯電話機を向けている。

 どうやら、いわゆる『写メ』という物で撮影しているようである。

 ……構内は撮影禁止となっているのだが。

『……日本語の表示も必要なようだ』

 ひとりごちて、不快感を隠し、そ知らぬ顔で一団から遠ざかっていく。

師様しさま、なぜ、日本人と? 観光客は皆同じような服装をしておりますし。最近は、韓国や中国の人も、お金持ちのようですよ』

 まだ、入門して日の浅い、童子どうじといってよい弟子が、こらえきれずに聞いてくる。

『アディット、黙りなさい。師様に対して、礼を失した物言いですよ。口をつつしみなさい』

 別の、年長の弟子が年若の彼をたしなめる。

 思わず言を発した私が原因ではある。

 振り返り、顔を赤くして恥じ入るような、泣きそうな顔つきの童子の頭を、私はそっとなでる。

『興味を持つ事は、学ぶ上で大切な事だ。同じように礼節を重んじる事も。兄たちはお前にそのことを教えたのだ。心にとめておきなさい』

『……はい、師様』

 私に慰められた事で、逆に緊張の糸が切れたのか、童子の両の目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。

『シータラ、アディットと一緒に、先達をしておくれ』

 今から行く先は宿坊であり、先達は必要ない。

 早く部屋に戻り、落ち着くまで見てやれ、ということだ。

 中堅の弟子であるシータラは、しかし気働きのできる少年であり、心得顔こころえがおでうなずき、アディットを促し、足早に去っていく。


『師様……、差し出がましいようですが、アディットにもう少し厳しく注意されるべきかと……』

 宿坊の私室に入り、部外者がいないのを見計らい、タージが苦言を呈する。

『私達も同じ過ちをいたしました。師様は私達にも同じようにさとされてきました。けれど、あの者は兄弟子達から何度も同じ叱責しっせきを受けているのに、ただそうという気配がごさいません』

『そうだね。本当に賢いものは、逆鱗げきりんに触れる前に、学ぶものだよ。あの子も、中々に好奇心旺盛で、才気はあるのだが……もう少し、賢ければ、日本語も教えようと考えていたのだがね』

『……奥付きに、と?』

『日本語にこんな慣用句がある。〈ことわざ〉というのだよ。〈仏の顔も三度まで〉。我が国発祥の宗教は、本当に日本の生活に根付いているのだよ』

『…………アディットは、対外的なことに興味がありますので、例えばシャンティ師のもとで観光用の祭事を学ばせたら良いですね。師様』

『そうだね。才気煥発で、なかなかかわいらしいからね。きっとお気に召されることだろう』

 一番弟子の提案に満足して、私はうなづいた。

 その「仏のような」慈悲深い笑顔の下にある非情さを、彼が承知している事も、私は知っていた。

 近いうちに、理由を付けて他の師へ預けるつもり……そんな私の意を汲み取り、速やかに解答を導き出す。

 才あるだけの者は、無用だ。

 特に早熟な者は才気走って、要らぬ詮索をし、思わぬ災いを呼び込む。

 要るのは、思慮深さと慎重さ、そして幾らかの、頭脳。

 それだけあれば、後は経験が何とかしてくれよう。

 それで、『私の弟子』は、勤まる。

 だから、まわりからは、私の下には『思慮深いが、特に目立った才がない』凡庸な者ばかり集まっていると思われている。

 それでよい。

『能ある鷹は爪を隠す』

 そんな日本語が思い浮かぶのは、主人と共に日常会話まで日本語を習得した賜物だろうか。

 主人……我が君を守るために、必要な人材を秘かに育ててきた。

 慈悲深く、清廉せいれんで、教義に通じ、多種の言語に通じる、けれど権力欲も政治的手腕もない、『学者馬鹿』な師。

 その元で、出世街道からは遠ざかった、思慮深さが唯一の取り柄のような、慎ましくも凡庸ぼんような弟子たち。

 ……そんな石ころの中に、金剛石こんごうせきを隠している。

 やたらに自らの輝きを見せびらかす者は、煌めいているように見えても、良くて水晶、多くはもろ雲母うんもばかりだ。

 どれほどきらびやかに輝いていようとも、そんな脆く弱い石は無用。

 むしろ、いらぬ敵を呼び込みかねない。

 我が君は慈悲深い。

 弱いものが身近にあれば、そのかいなに抱き、ひなを守る母鳥のように、守ろうとなさるであろう。

 それが、あの方の本能。

 だからこそ。

 あの方を、そんな卑小ひしょうな者でわずらわせることはできない。

 あの方が、どれほど偉大であっても、その手で守りきるには、この世は、あまりにも広すぎる。

 あの方のかたわらに、必要なのは……強き者。

 この世界の、調和を維持していくために……。


『失礼致します。アストラ師。大師だいし様からの使者がおいでにございます』

 タージが房の外から呼びかけてきた。

『広間にてお待ちいただいております』

『分かった。今しばらくお待ちいただくように』

 大師様からの使者、ということは、即ち、我が君がお呼びになっているということである。

 火急のお呼び出しである……日没になれば、わざわざ使者を立てて呼ばぬとも、毎夕うかがうことを、我が君も大師様も十分に分かっていらっしゃるのだから。

 身支度を整えて、私は広間に向かい、歩き出した。


 ……そこで知らされるであろう事態に、思いを馳せながら。


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