第4話  キッチンクルー 前沢裕太



 六時半までという自分の勤務時間が終わった時、小野田晃一に「ちょっと顔貸してくれないかな」と言われて、前沢裕太は「はい」と答えるしかなかった。

 小野田はスポーツカーを乗り回す遊び人風の大学生。自分はしがない公立高校の二年生だ。体格も違うし、下手にさからうとどういう目にあうかわからない。ただ小野田晃一は見かけによらず小心者で、むやみと暴力を働く人間でないことは、これまで一緒にキッチンの仕事をする中で把握していたので、裕太は簡単に覚悟を決めた。

 連れて行かれたのは、二階にある格安のファミリーレストラン。パスタだけだと三百円台で済む店だった。そしてそこにいたのはカウンタークルーの蒲田美香だった。

 蒲田美香がにこにこしながら席につくようすすめるので、裕太は彼女の向かい側に坐った。そして小野田は彼女の隣に腰掛ける。二人の大学生を相手に面接を受ける気分になってしまった。

「ごちそうするから何でもオーダーして。でもあまり高いのは嫌よ」

 裕太は恐縮してナポリタンとドリンクバーを頼んだ。美香も同じものを注文し、小野田はドリアとピザとドリンクバーをオーダーした。

 私服姿の蒲田美香はアイドルのように可愛かった。とても二十歳過ぎには見えない。はじめは高校生かと思ったくらいだ。しかし彼女は毎年明葉ビル店でQSのアルバイトをしている最年長のアルバイトクルーだった。

 何気ない世間話が続いた後、おもむろに本題に入った。

 瀧本あづさをどう思っているかということ。

 彼女は君のことを何とも思っていない、そのことを受け入れて欲しいということ。

 裕太は頭に来た。

「それで、彼女はどうしてここにいないんです」

「だからね」と蒲田美香は困惑した表情で説明した。「彼女はもう君と話をすることはないというのよ。私も最後にちゃんと話をした方がいいと説得したんだけれど、どうしても嫌だって言うので、こんなこと私も言いたくないけれど、はっきりさせておいた方が良いと思って、彼女の気持ちを伝えに来たの。彼女には付き合っている男の子がいて、君とは付き合う意思がないの」

「嘘だ!」

 思わず口から言葉が出た。あまりに大きかったらしく、小野田が周囲を見回して嫌そうな顔をした。

「大声出さないで、落ち着いて。ね?」

 相手が蒲田美香でなかったら飛びかかっていたかもしれない。裕太は気持ちを鎮めようと必死になった。

 どうしてあづさは来ないのか。

 その質問が頭を駆け巡る。もともとはあいつが言い出したことなのだ。


「ねえ、裕太君でしょ?」

 それがQSのアルバイトクルーの顔合わせの時、瀧本あづさが発した第一声だった。

 はじめは誰だかわからなかった。自己紹介のように名前を名乗って初めて思い出した。彼女は小学四年生のときのクラスメイトだった。たしか親の転勤とかで外国へ行ったはずだ。当時から栗色がかった髪の色をしていたが、今は完璧に金髪だ。それが染めていることを知らされたのはあとになってからだった。髪の色だけではない。彼女はすっかり変貌していた。身長は百六十くらい、胸やお尻が出てウェストが引き締まった悩殺的な体格を、QSの制服でぴったりと包んでいた。スカートがキュロットなのが今ひとつだが、紺のハイソックスが綺麗な脚を演出していた。

 六、七年ぶりの再会となる。

「裕太君、すっかりかっこよくなって……」

 あづさは嘗め回すように裕太の全身を見て、最後に見上げるように裕太の目を見たのだった。

 かっこよいなどと言われたことがなかった裕太はたちまち真っ赤になった。それを悟られないようにしようとすると、ますます顔が火照ってくる。あづさはその様子を楽しんでいるようだった。

「ねえ、覚えている? 私が転校していくときのこと」

 小学四年生の頃のあづさは確かに可愛い子だったが、一部の女子に妬まれて意地悪をされていた。持ち物を隠されたり、上履きに画鋲を入れられたり、といったことが繰り返されていた。見かねた裕太はとうとう我慢がならなくなって、悪戯をしかける女子に向かって一喝したのだ。ふだん大人しい裕太が突然切れたので、その場の女子はみんな驚いて、中には泣き出す者もいたくらいだった。その件で裕太は担任の先生にひどく注意をされてしまった。どうしてどなったのかと問われても口を割らなかったために、親が呼び出され、裕太は親にも叱られるはめになった。今思えば何てことのないエピソードだ。しかし当時はそれ以降、裕太はあづさと付き合っているなどと変な噂を立てられ、冷やかしの対象となってしまった。相談相手は誰一人いなかったが、裕太は苦にならなかった。

 やがてあづさは転校して行き、裕太もクラス替えを機会に平凡な毎日へと帰っていった。

 そのあづさが転校で、裕太に最後の挨拶をする時、彼女は言ったのだった。

「私は海の向こうに行くことになるけれど、今度会うようなことがあったら裕太君の彼女にしてくれる?」

 そして彼女はそっと裕太の頬にキスをした。

 あまりの衝撃的な出来事に何日も心ここにあらずの状態が続いたものだ。しかし、いつしか時の流れとともに、あづさのことは頭から消えていった。はじめの一、二年は何かのきっかけで思い出すこともあったが、高校生になってからは全く記憶の彼方へと追いやられてしまっていた。

 その彼女が今アルバイトを一緒にする間柄にいる。

 裕太は長い間あたためていた思いが再燃するのを感じた。

 二、三日して裕太はあづさに言った。

「ぼくと付き合って」

「そういうことも言ったかしらねえ」

 あづさは懐かしむだけで、裕太の思いを理解しなかった。

 裕太があまりに真剣に告白するものだから、ついにあづさも裕太の気持ちが本当だと悟ったのだろう、困惑の表情を浮かべて、「私、今つきあっている相手がいるのよ。だから裕太君とは付き合えないわ」と言った。

 確かに彼女は昔の彼女とは違うと裕太も認めている。髪はQSおきて破りの金髪、額を出して後ろで束ねキャップをかぶっているので正面からだと目立たないようになっている。長い睫はつけ睫かもしれない。食品を扱うので爪こそ切りそろえているものの、ヤンキーの印象は免れなかった。裕太にはそれがすべて交際相手の影響のように思えるのだった。あのお人形のように可愛かったあづさが自分の意思でこういう格好をするはずがないと。

 裕太は、断られた後も、あづさに再三、今の彼氏と別れることを忠告した。

 きっととんでもない奴に違いないのだ。

 裕太は、あづさの彼氏の情報を集めるために、あづさと同じ高校に通う一年生の泊留美佳と森沢富貴恵に話を聞いた。

「三年の御木本さんです、それは」と口の軽そうな森沢富貴恵は答えた。

 富貴恵はパフェを奢れば何でも喋りそうな勢いだった。男女のことなどまるで縁のない小中学生のような幼い顔立ちで、それでも店のパート主婦たちの受けは良かった。最も可愛がられているクルーだ。

「かっこいいんですよ、御木本先輩は」

 富貴恵はうっとりとしている。

 こいつでも男に憧れることがあるのかと裕太は内心馬鹿にしていたが、情報収集が最重要課題だった。

「どんな奴なんだ? ヤンキーみたいなのか?」

「軽音楽部です。バンドマンですね」

「やっぱり茶髪なのか?」

「ううん、それほど派手な髪ではないですね。長髪ですがどこにでもいるような髪型です」

「それでもかっこいいのか?」

「顔ですよ、顔、イケメンアイドルといった感じ」

「写真とかないのかな」

「いくらなんでも、ないですねえ」と富貴恵は能天気な笑いを見せた。

「それで、どうなんだ、二人の仲は?」

 裕太は裸で男に抱かれるあづさを想像して首を振った。

「いいんじゃないですか、昔はよく一緒に歩いていたらしいですよ、私たちが入学した時にはもう御木本先輩は三年生で、受験を控えて勉強に打ち込んでいるらしくて、最近はあまりふたり一緒のところは見かけませんけれど」

 役に立たないな、もっとよく知った奴はいないのかと裕太は苛立った。

「君はどうなんだ? 何か知らないか?」

 裕太はとなりで黙ってパフェを口にして頷いているだけの泊留美佳に訊いた。

「あ、あの」と留美佳は突然話が自分に振られて狼狽し、クリームを唇につけたままの間抜けな顔のまま答えた。「御木本先輩は家が近くなので、小さい頃からよく知っています。優しいお兄さんです」

「あづさが御木本の家に来たことがあったか?」

「さあ」と留美佳は首を傾げた。

 可愛い顔をしているがどうも頭が弱いらしい。宮本SWマネージャーに叱られてばかりいるのも頷けると裕太は思った。

 それ以上二人に関することは、富貴恵と留美佳から得られなかった。しかし御木本の住所とあづさの住所を手に入れることは成功した。これでいつでも彼らのところを訪ねることができる。


 そこまで回想したところで、ふたたび蒲田美香が目の前に現れた。

「大丈夫? しっかりして、前沢君」

 ときどき空想や回想で現実世界からトリップすることがある。今回もそうだったらしい。

 美香は心配そうに顔を覗き込んでいた。

「で、あづさはやっぱり来ないというのですか?」

 裕太がようやく言葉を口にしたので、美香はほっとした表情になって答えた。

「ここへは来ないわ。はっきりさせるために一度ちゃんと気持ちを伝えた方が良いと言ったのだけれど、どうしてもダメみたい……」

 裕太は、ふっと息をついてから、過去のことを語った。自分とあづさが小学生の時クラスメイトだったこと、別れる時に交わした約束、あづさに告白して断られたが、あづさにバンドに興じる優男は似合わないということ。

「それは、あづさちゃんからも聞いたわ。小学生時代の君の活躍も、あの頃の君に今も感謝している彼女の気持ちも」

「だったら、どうして約束を反故にする?」

「だからね」と美香は母性を前面に出したような顔になった。「小さい頃の約束は小さい頃の約束なの。その時は本気でそういう約束をしたんだとしても、長い時が経過すると、ひとの気持ちも変わるじゃない? 君も彼女と会うまでは彼女のことを忘れていたんでしょう?」

「でも、『転校していく時のことを覚えている?』って言ったのはあづさなんだ。それでぼくはすべてを思い出した」

「小さい頃の思い出って、やっぱり特別なものがあるじゃない? 彼女はそれを思い出し懐かしんだだけなの。君も同じように懐かしんだ。でも君も気づいたはずよ、昔の彼女と今の彼女が違うことを。同じように彼女にとっても、昔の君と今の君は違うのよ、わかるでしょう?」

 蒲田美香が見た目どおり、いや見た目以上に優しい人間であることは裕太にもわかった。しかしそれとあづさのことは別の問題だ。裕太はとうてい納得できなかった。

 いずれあづさともう一度顔を突き合わせ、はっきりとさせなければならない。

 裕太はそう決意した。

 しかし、蒲田美香と小野田晃一を前にしてこの場をしのぐには、彼らから解放してもらわなければならない。そのために裕太は彼らに対して納得した顔を見せておく必要があった。

「わかりました、帰ってもう一度じっくり考えさせていただきます」

「本当に? これ以上彼女を困らせないと約束できる?」

「彼女に不幸になって欲しくはありません」

 美香はほっとしたようだった。たちまち高校生のようなあどけない顔に戻る。隣の小野田も浮かぬ顔だったが、何も言わなかった。

 あづさに不幸になって欲しくないのは事実だ。あづさは自分が幸福にする。裕太はそう自分に言い聞かせた。



 蒲田美香と小野田晃一が仕組んだのか、それともあづさがシフトに希望を反映させたのか、それ以降裕太はあづさと一緒になる勤務がめっきり減ったと感じた。たまに一緒の時間帯に勤務があったとしても、キッチンには必ず小野田がいて、レジカウンターには美香がいた。あづさと二人きりになるチャンスは訪れなかった。

 こうなるとあづさに直接訴えかける手段はそうそうとれるものではない。しかたなく裕太は、御木本の方から牙城を崩す戦略に出た。

 奴の家をつきとめてやる。

 裕太は泊留美佳に教えてもらった住所をもとに、御木本英司の家を探した。

 あらかじめネットで地図検索を行い、そこが自転車で十分行けるところにあることを知ると、裕太はバイトがない日の午後、目的の場所まで自転車を走らせた。

 御木本英司の家はすぐに見つかった。駅の北側にある高台をずっと登ったところにある閑静な住宅街にそれはあった。敷地で八十坪くらい、建坪五十坪の五LDKくらいはありそうだ。趣味でバンドをしているというだけに、比較的裕福な家庭なのだと裕太は羨望の目を向ける自分に苛立った。

 夏休みとはいえ、平日の午後四時くらいでは人通りはめっきり少ない。こんなところでじっと家を窺っていては不審者と思われるだろう。どうしたものかと逡巡していると、玄関の扉が開く音がした。

 誰かが出てくる、と裕太は電柱の後ろへ下がった。完全に死角に入るわけではないが、突っ立っているよりましだ。

 出てきたのは、高校生くらいの年代に見える少年、耳が隠れるが肩には到達しない程度の茶髪、脚が細く長い。黒っぽいスキニータイプのパンツの上に、紺と黒の柄物のシャツを着ていた。その少年は、ディパックを背負うと、自転車に跨った。

(あいつが、御木本か)

 彼には男の兄弟はいないと聞いていたので、あの年格好の人間は御木本英司しかありえない。裕太は確信して、彼の後を追った。

 あまり接近すると気づかれる虞もあるので、自転車の音が聞こえぬ程度に間をとった。静かな住宅街で音はよく響く。さいわい道は碁盤の目のように区画整理されていて、角を曲がっても見失うことはなさそうだった。彼は駅の方へ向かっていた。

(今頃、あづさはQSでレジについているはずだ。やつはそこへ行くこともありうる)

 裕太はキッチン業務をしていたので、どういう客が常連で来ているのか全く知らなかった。日頃から御木本英司がQS明葉ビル店にハンバーガーを買いに来ることがあるのかさえ知らない。富貴恵に聞いておけば良かったと後悔した。

 彼は全く尾行に気づいていないようだった。

 裕太はらくらくと追跡することができ、彼が駅前近くのバス通りに面した駐輪場に入るのを確認した。

(ここで奴は電車に乗ってどこかへ行くのか? だとしたら俺も自転車をどこかへとめなければならない。それに、こう人が多いのでは、尾行も厳しいかな)

 慣れないことは難しい。テレビドラマの刑事のようにはいかないだろうと、裕太は悲観的な見方をした。何しろ自分は人ごみを歩くのが苦手で、誰かのあとについていくと、必ず他人に間へ入られて見失いそうになるのだ。しかしチャンスは今日だけではない、見失ったらその時のことだと裕太は自転車を駐輪場にあずけ、尾行を続けることにした。

 彼は自分の顔を知らないはずだと、裕太は思った。適当に人がいると自然な尾行ができる。

 しかし彼は、裕太の予想に反して、駅構内へは向かわなかった。バス通りを少し歩き、大手予備校の五階建てビルに入ったのだ。

(なるほど、この時間帯から夏期講習を受けるのか。三年生は追い込みの夏だったよな)

 裕太は、高校生やら浪人生やらが出入りする一階の玄関の前にしばし佇み、意を決して中へ入った。これだけ人がいれば目立ちはしない。予備校の職員に声をかけられたとしても、ちょっと見学に立ち寄ったとでも言えば全く不自然ではないと思った。

 パンフレットやら掲示物やらが所狭しと並び、正面のカウンターの奥にはデスクがいくつもあって、事務系の制服を着た職員が忙しそうに動いていた。

 本日の時間割を見つけたので、それに目を遣った。

 高校三年生が関係する教科はいくつもあって、彼がそのどれを聴講しているのかわからない。しかし次の講義の終了時刻、その次の講義の終了時刻を頭に入れると、裕太はそのビルの外へ出た。

 彼とふたりきりで話をするためには、やはり帰りの彼を捕まえることが必要だ。夕食の時間帯を挟むことになるから、六時台か七時台に彼は出てくるのではないかと裕太は睨んだ。

 裕太は道路を挟んで予備校の向かい側にあるコーヒーショップに入った。QSとよく似た店だ。アイスコーヒーを一つ注文し、それを手にして、外の様子がよくわかるようにガラス張りのカウンター席に坐る。ここでなら一時間や二時間粘っても問題はないだろう。何事も辛抱が肝心だと自分に言い聞かせた。

 驚いたことに、一時間半くらいして御木本英司と思われる彼が出てきた。一つしか授業を受けなかったということか。拍子抜けした気分になって呆れてしまった。たったこれだけのためにここまで来るのかと思う。しかしもっと呆れたのは、彼が一人ではなかったことだった。

 御木本の周りには女子高生らしき少女たちが三人も纏わりついていた。楽しげに話をしている様子から、彼の取り巻きのような存在なのではないかと裕太は考えた。

 裕太はおもむろに店を飛び出した。奴の後を追わねばならない。御木本は自転車をあずけた駐輪場とは反対の方へ向かって歩いた。彼の行動が読めない。一人になるところを見計らって声をかけようとしていただけに、予想外の展開だった。

 御木本は女子高生三人とそのまま暫く歩き、五十メートルほど離れたビルにあるカラオケボックスに入ってしまった。

 またも時間を潰さなければならないのか。さすがにカラオケにまで入られたらたまったものではない。いつ出てくるのか予想もできなかった。

 裕太は今日御木本に声をかけるのをあきらめることにした。またの機会にしよう。やはり自宅を出たところをつかまえるのが妥当なのだ。

しかしあれでも受験生なのか。女の子たちと遊びに興じるところを見る限り、御木本はあづさにふさわしい人間には見えなかった。むしろ悪影響を及ぼしかねない。それどころか既にあづさを裏切る行為をしているかもしれなかった。

 やはりあづさは自分のものだと裕太は思い、踵を返した。



 自転車をこぎながら裕太は計算した。あづさがQSのバイトを終え、もし真っ直ぐに帰宅したとしたらそろそろ家に着く時間ではないか。あづさの自宅もすでに把握していた。それは昔小学生の頃あづさが住んでいた家から徒歩で五分もしないところだった。すぐ傍に幼児が遊ぶのにちょうど良い小さな公園があった。ブランコが二つ、滑り台が一つ、そして砂場。必要最小限の取り合わせだ。裕太はそこで彼女の帰りを待つことにした。

 こういう風にして待ち伏せると、人は自分のことをストーカーと思うかもしれない。しかしそれは違うと裕太は思った。自分はただあづさに恋焦がれているだけなのだ。そしてあづさに振り向いてもらいたいがためにこうしてひたむきな行動に出ている。どうしてそれがストーカーなのか。自分の気持ちを誰も理解してくれない、と裕太は孤独を感じた。

 七月も押し迫り、七時半には外は真っ暗になっている。街灯がなければ、この寂しい住宅街はすっかり闇に包まれてしまうだろう。

 静かに待っていると、やがて自転車が通りかかる音が聞こえた。そちらへ目を向ける。暗がりにミニスカートを穿いた女性の影が見えた。

 背格好でそれがあづさだと裕太は認識した。自分も自転車を動かし、向かってくる彼女の前に飛び出した。

 相手のライトが自分を捉えた。おそらく向こうもこちらが誰であるか認識しただろう。ゆっくりと自転車は止まり、片足を地面に下ろした彼女は、恐る恐る声を出した。

「前沢、くん、なの、ね?」

「瀧本さん、待っていたんだ」

 裕太は街灯の下へ進み出た。お互いの顔がはっきりとわかった。

 彼女は両足を地面に下ろした。つま先でようやく立っている感じだ。デニムのミニスカート、夜は涼しいからかシャツの上に七部袖のカーディガンを羽織っていた。金髪を後ろで一本に結わえていた。

「とうとう、ここまで来たの。でも、もう話すことはないわ」

 彼女は溜息混じりにそう言った。

「ひとつ、聞きたい」と裕太は言った。

 彼女は諦めたように成り行きに任せている。

 裕太は付け入る隙があると思った。

「君が付き合っている相手というのは、御木本英司なのか?」

 答えるまでに少し間があった。

「え、ええ、そうね」

 微妙な表現だ。それはまるで他人事のような言い方ではないか。もともと御木本英司という名前を出したのは富貴恵と留美佳だった。その情報が誤りだったとしたら根底から覆ることになる。しかしあづさは完全な否定を示さなかった。

「違うのか?」

 裕太は確認を入れた。彼女はあやふやな態度をとっている。まるで交際相手が御木本ということにしておけば、それでうまく自分を誤魔化せると考えているようにも見えたからだ。

「そうよ、押坂高校三年、軽音楽部のリーダー、御木本英司。それが今の私の彼氏、なの」

 今まで彼氏がいるとは言っていたが、決してその名を明かさなかったあづさが、今はっきりと御木本の名を挙げて断言したのだった。

「そいつは、どういう奴なんだ?」

「どう、って?」

「ちゃんとした奴なのか? 君を大切にするちゃんとした男なのか?」

「ええ、そうよ、彼は一つ年上で、優しくて、かっこよくて、みんなの人気者で、軽音楽部のリーダー。誰もが私たちを羨ましく思っているわ」

「何だか、嘘っぽいな、その言い方」

「どうして?」

「あまりに美化しすぎている」

「ごめんね、私、クォーターだから。欧米ではこういう言い方をするのよ」

 あづさはお国柄の違いだと言い訳をした。暗いので表情までわからないが、苦しい言い訳をしているように思えた。

「あいつは女たらしだと言う噂がある」

 それは裕太の作り事だった。富貴恵たちの話から、御木本が格好の良い憧れの先輩だという印象が伝わってきたので、やたら女性に手を出す男ではないのかと裕太は虚像を作り上げたのだ。

「そんなことはないわ。彼は誰にも優しいから、まわりに女の子のファンが多いのよ。常に女子生徒が取り巻いていることくらい知っているわよ。でも彼が私をおいて他の人に心を奪われることなどないの」

 あづさは自信たっぷりの口調で言った。それはまるで自分に言い聞かせるかのような念の押し方だったので、猜疑心の強い裕太はさらに彼女の台詞に疑問を持った。

「僕は、この何日か、御木本英司を尾行して行動を見たよ」

 裕太ははったりであづさを揺さぶる作戦に出た。尾行したのは今日が初めてなのに、以前から何度も行っていたかのように彼女に印象付けたのだ。

「まあ、探偵のモノマネをしたわけね、なんという執念なんでしょう」

 あづさは呆れたところを強調したが、それに構わず裕太は続けた。ここは勝負どころなのだ。

「それで、あいつについて、いろいろなことがわかった。一つ目、いつも女がたくさん周りにいること……」

「そんなこと、知っているわよ、ああ、もう私帰るわ、道をあけてよ」

「話を最後まで聞いてよ、毎日こうして待ち伏せされるのも嫌だろう?」

「そんなの、ストーカーよ。どいてくれないなら、大声を出すわよ」

 あづさの苛立ちは、痛いところを突かれているからに違いない。裕太は自分の遣り方が間違っていないと確信した。

「今日も、予備校の講習の後、女の子三人連れてカラオケに入ったよ」

 見てきた事実を適当に入れる。嘘と真実を適度に混ぜ合わせることで、絶妙の味わいを作り出すのだ。あづさは言葉を失った。

「あいつ、本気で勉強しているのか? 三年生といえば受験生だろう? 夏期講習だって、ひとコマくらいしか出ていないぜ。それで女の子を誘っているんだから。まあついていく女も馬鹿に見えたけどね」

 あづさはうつむいて動かなくなった。耳を塞いで立ち去りたかったのだろうが、裕太の話が彼女を金縛りにしたようだった。

「この間は、連れている女の子がひとりだったなあ」と裕太は勝負のひとことを放った。もちろんでまかせである。このはったりにあづさはきっと食いつくに違いない。

「嘘に決まっている」

 あづさはうつむいたまま小さく言い放った。掠れたような弱々しい声。これも自分に言い聞かせているのだろうか。

「嘘じゃないよ、あいつはそういう奴なんだよ、適当に身近にいる女をつまみ食いするような奴なんだよ。どうして君はそれがわからないんだ?」

「違う、そんなことはない」

「いや、違わないね、それは君自身も気づいているんだろう? 本当に気にしていないのなら、僕のいうことなど笑い飛ばすはずだよ」

「じゃあ、笑ってやる、あはははは」

 あづさは顔を上げた。笑ったふりをしているだけで、その目は決して笑っていなかった。むしろ裕太を非難する様子が窺われた。

「ねえ、もうあいつのことは忘れろよ、それで小学校の時の君に戻るんだ。その金髪だって、あいつにあわせて染めたんだろう? 似合わないよ、君はもっとお人形のような子だったんだ。今頃は世界一の美女になっているはずだよ」

「笑わせるわ、あんたの方が欧米化している。そんなくさい台詞、よく言えるわよね」

「君が好きだからだよ、あいつなんかより何百倍も君が好きだからだよ」

 言いながら裕太は顔が沸騰するような感覚になった。いくら思いつめ、追い詰められた状態にあるとはいえ、次から次へと嘘や方便が口から湧いてきて、挙句の果ては日本人離れした愛の告白をするとは、全く自分はどうかしていると。

 しかし、頭の中のもう一人の自分がそう考えている一方で、あづさを目の前にした前沢裕太は、なおもあづさをこちらへ引き込もうと、出しうる限りの切り札をばら撒いていた。

「あいつが君に何か特別なことをしてくれたか? その辺の女にするのとは違う、君だけに対してだけする何か特別なことを」

 あづさは口を噤んだ。その様子で裕太はあれこれ想像した。あづさはもう御木本に抱かれているかもしれない。しかし御木本が他の女も簡単に抱くような男だとあづさが認識していたとしたら、裕太の問いに答えることができないだろう。自分も他の女も同じ扱いしか受けていないと認識していたとしたら。

 あるいは、あづさはまだ御木本とそれほど深い仲になっていないのかもしれない。裕太としてはそちらの方が嬉しいのだ。だから裕太はあづさがまだ純潔を失っていないことを望んだ。

「少なくとも、あいつは君にふさわしい男ではない。あちこち女に手を出すような男なんて、君には絶対に似合わない」

「だったら……」とあづさは震える声で言った。「だったら、証拠を見せてよ。彼がその辺の女と何かやらかしていると前沢君が言うのなら、証拠を見せてよ。写真でも何でも撮ってきて、私の目の前に披露してよ、そうしたら……」

「そうしたら?」

「もし、それが本当なら、私は前沢君の言うことを一つだけ聞いてあげるわ」

「ひとつだけ、か」

「ひとつで、十分よ。君の方こそ私にふさわしいかどうかわかりやしないんだから」

 あづさの精一杯の強がりが、裕太のこころをくすぐった。

 全く可能性ゼロの状態から、少しは目が出てきた。

 やはりあづさは御木本を疑っていたに違いない。だから裕太のはったりに動揺し、裕太のかけひきに応じたのだ。これを逃すと一生の後悔を覚えることになる。

「わかった、奴の非道についての証拠写真を用意すればいいんだよね。待っていて、すぐに手に入れるから」

 あづさは別れの言葉も言えずに、裕太の脇をするりと抜けて帰っていった。

 裕太は彼女の後姿を見ながら、いかにして目的のものを手に入れるか思案に暮れていた。



 思い立ったらすぐにでも行動に移す。今日のように興奮していては、自宅に戻ったところで眠ることすらできやしない。裕太は駅前の駐輪場へ向かった。

 午後九時を過ぎた時間帯。駐輪場に御木本英司の自転車はまだあった。すると奴はまだカラオケボックスにいるのか。入ってから一時間と少し経っている。四人で利用すればそのくらいは当然かもしれない。しかし一緒にいる女の子たちが普通の受験生であるなら、夜明かしでカラオケをするはずがなかった。

 裕太はカラオケボックスが見える適当な場所を見つけて待機することにした。

 御木本が今夜誰かとどうこうするということはないかもしれない。しかし、それでも裕太は今夜の御木本の行動を最後まで見届けたかった。

 十時少し前になって、御木本たちが出てきた。入った時の女の子三人もいた。店の前で彼女たち三人は彼に別れの挨拶をして駅の方へ歩いていった。

 なんだ、今夜はこれでおしまいか、と裕太は落胆した。

 御木本は駅とは反対の方向へ歩き出した。自転車をあずけた駐輪場は駅の方角にある。逆方向へ歩いていくということはまだ自転車を取りに行かないことを意味していた。

 いったい御木本はどこへ行くのだろう? 裕太は自転車に跨り、道路の反対側でゆっくりと彼の行方を追った。

 やがて彼はバス通りから脇道へ逸れた。裕太は慌てて道路を渡ろうとしたが、車に遮られて十秒ほど遅れをとってしまった。ようやく渡って自分も脇道を行き、彼の姿を探したが見つからない。突き当たりは線路だ。そこまで行くと、線路の向こう側へ渡る跨線橋があった。

 自転車を飛び降りた裕太は、跨線橋の階段を駆け上がり、四方八方遠くを見渡したが、ついに御木本の姿を見つけることはできなかった。

 御木本は線路の反対側に消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る