人形道

長月 航

人形道

 その日、僕は急いでいた。珍しく寝坊してしまって、学校に遅刻しそうだった。

僕は道の途中で立ち止まった。左手に見える古い倉庫に目をやる。その倉庫の脇には細い道があった。人形道。それはこの街の七不思議の一つだった。

― その道で迷ったら二度と帰ることは出来ない。

そこでは何年か前に中学生の少女が行方不明になったため、学校でも絶対に通ってはいけない道と言われていた。

しかし、どうやらこの人形道、噂によると学校までの近道らしいのだ。普通の通学路の半分の時間で学校に着く。しかもただの一本道だから迷う心配もない。

僕は少し怖かったが、決心してその人形道を通ることに決めた。

噂に聞いた通り、それはただの長い一本道だった。左右には手入れされていない草木が生い茂っていたが、視界が邪魔されるほどではない。足元の砂利道も特段歩きにくいわけではなかった。逆にどうやったらこんな場所で迷うというのだろうか。

歩き始めて一分。僕はすっかり怖さも忘れて鼻歌を歌っていた。人形道は日があまり当たらないおかげで涼しく、猛暑日には最適だった。これはいい場所を見つけたぞと思ったその時。突然首筋に冷たい風が吹いた。僕は真夏にも関わらず大きく身震いした。異変を感じてゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、黒髪の少女だった。

少女は木々の間からじっとこちらを見ていた。顔が見えないほど長い髪の毛に、白いワンピース。体型は小柄で、中学生くらいに見える。

僕は彼女を見た瞬間、全身の毛がブワッと逆立つのを感じた。なぜだか彼女からは生気が感じられないのだ。まるで感情のない人形のよう…

少女はゆっくりと手招きして、不気味に微笑んだ。

僕は次の瞬間、脱兎の如く走り出していた。本能が「逃げろ」と叫んだ。出口を目指してひたすら走る。途中足を何度か挫いたが、気にしてはいられなかった。そうしてどれくらい走っただろうか、気がつくと僕は人形道を抜け、高校の正門の前に立っていた。

恐る恐る振り返ると、そこにはもう少女の姿はなかった。


 「昨日、人形道を通った生徒がいる」

翌日の朝の会で担任の先生が言った。途端にクラスがざわつき始める。人形道を通ってはいけないというのはその町の常識であった。その禁忌を犯した者がいるとなれば、当然の反応だ。

「今朝、近くの民家から連絡が来た。心当たりのある生徒は自分から名乗り出るように」

その話は瞬く間に学年中に広まり、生徒間の話題もそのことで持ちきりになった。

しかし、僕は名乗り出る気はさらさらなかった。あの辺りには監視カメラもないし、黙っていても名前が上がることは絶対にない。人形道を通るのもあれっきりにするつもりだった。

「おーい、ハヤシ。お前さっきからぼーっとしてどうした?」

リョウの声で僕はハッと我に帰った。少し遅れて今が体育の授業中だったことを思い出す。

慌ててボールを拾ってリョウにパスした。

「今日、なんか変だぞお前」

「いやっ、そんなことないよ」

僕は必死に誤魔化した。

「もしかして、お前なの?人形道入ったの」

リョウはからかうように言った。僕は首を横に振りかけて…止めた。やっぱりリョウには本当のことを話すことにした。

「そう。僕だよ」

「え…マジ?」

リョウは予想外のことに、キョトンとした顔で振り向いた。

「どうだった?噂は本当だったか?」

リョウは僕に顔をグッと近づけて興味津々に聞いてくる。ここで怖がったりしないあたりがいかにもリョウらしい。僕は昨日見たことを詳しく話した。ただ、黒髪の少女のことだけは伏せておいた。信じてもらえる気がしなかったし、何より、人に話してはいけないことのような気がした。

僕が話し終わると、リョウは分かりやすく目を輝かせた。

「やっぱり近道ってのは本当だったんだな。じゃあさ、明日二人で通ってみようぜ」

「いや、でも…また先生に怒られちゃうよ」

僕はしばらく抵抗したが、リョウは言い出したら止まらない。結局明日も人形道を通ることになってしまった。

僕たちが明日の集合時間を決めたところで、体育館の前方から大きな音がした。見ると、男子生徒が一人倒れ込んでいる。足首が青くなっていて、捻挫か骨折だと分かった。

この日の事件と言ったらそれくらいで、他には特に不思議なことはなかった。

下校時間のチャイムが鳴り、僕が一人で廊下を歩いていると、向こうから同じクラスの女子が来るのが見えた。

重い前髪に腫れぼったい目。なんという名前だっただろうか。いつも静かな子なので名前が思い出せない。僕が頭を悩ませていると、すれ違いざまにその子が言った。

「あなたでしょ。人形道に入ったの」

「え?」

「あそこはふざけ半分で入らない方がいい。帰って来れなくなる」

その子はそれだけ言って去っていった。脅しているわけでもない。切実で、真剣な声だった。

僕は呆気に取られてその場に立ち尽くしていた。何故彼女がそのことを知っているのだろうか。しばらくしてバッと後ろを振り返ったが、もう彼女の背中は遥か遠くにあった。


 次の日、僕が集合時間ぴったりに人形道に行くと、リョウはもう既にそこにいた。僕の姿に気がつくと、両手を大袈裟に振ってくる。

「ハヤシ!遅いぞー」

「遅くないよ。ちょうどだよ」

その興奮した様子から見るに、彼は集合時間のずっと前に着いていたようだった。遅刻魔の彼が前もって集合場所に来るなんて、よっぽど今日が楽しみだったのだろう。

僕たちは周りの目に注意しながら慎重に人形道に入った。立ち入り禁止のテープをくぐる時、ふと頭に昨日の忠告がよぎったが、今更引き返すわけにもいかなかった。

「すげー、これが人形道か。なんか、本当に秘密の道って感じだな」

リョウはキョロキョロと辺りを見渡して感激したように言った。どんどん奥に進んでいってしまうので、僕は急いで彼の後について行った。

目の前の背中を追いかけながらも、僕は時折振り返って後方を確かめた。黒髪のあの少女がまた現れるのではないかと、不安だった。

「ハヤシ、さっきから後ろばっか気にしてるけど、怖がってんのか?」

「いや…別に」僕は強がって言う。

その日は結局、途中で黒髪の少女に会うこともないまま僕たちは人形道を抜けた。リョウは大満足の様子だった。

休み時間、僕は席を立って昨日の女子に話しかけた。名前を思い出したのだ。

「ねぇ、金子さん。昨日言ってたこと、詳しく聞かせてくれない?」

しかし、彼女の返答は思いがけないものだった。

「え?なんのこと?」

僕は一瞬固まってから、聞き間違えかと思って再び尋ねる。

「だから、その…人形道にはふざけ半分で入らない方がいいって…昨日言ってたじゃん」

「いや…私、昨日林君と話した覚えなんてないけど…」

はっきりとそう言われて僕は戸惑った。金子は怯えたように視線を泳がせている。彼女は本当に昨日の記憶がないみたいだった。

そして、おかしなことはこれだけではなかった。昨日体育の時間に捻挫した男子生徒も、けろっとした顔で席に座っているのだ。あの傷から見て松葉杖は確実だったはずなのに。直接話を聞いてみると、あからさまに変な顔をされた。

皆んな昨日のことを忘れてしまっている。それはとても気味の悪い話だった。

授業中も、僕はなんだか居心地が悪くて集中できなかった。どうも学校の隅々に違和感を感じるのだ。何かがいつもと違う。その違和感は一日中続いた。

事件が起こったのは下校の時だった。僕は違和感について考えすぎたせいか、体調があまり良くなかったので、早めに帰ることにした。教室を出て、早足で廊下を抜ける。

エレベーターに乗りこんで、1Fのボタンを押し込んだ。しかし、いつまで経ってもエレベーターは動かない。僕は不審に思って一旦外に出た。諦めて階段で降りようとしたその時…

エレベーターが大きな音を立てて落下した。

金属が潰れる音と同時に一階で悲鳴が上がった。鉄屑と化した箱が廊下に飛び出し、粉塵を巻き上げている。幸い中に人はいないようだったが、案の定大騒ぎになった。

「なんの騒ぎだこれは!一体どうなってる!」

体育の教師がやってきて、その光景を見るなり怒鳴った。

もし、後数秒僕がエレベーターから降りるのが遅かったら…今頃鉄骨の下敷きになって潰されていただろう。僕はそんなことを考えてゾッとした。

後から、これは何者かがワイヤーに切り傷を付けたことが原因だと分かった。

「これはただの悪戯では済まされないぞ」

先生は僕たち生徒を問い詰めたが、僕はこれが生徒の仕業であるとは到底思えなかった。そもそもエレベーターのワイヤーなど簡単に切れるものではない。僕は直感的にそれを、呪いだと思った。人形道の呪い。

― 迷ったら二度と、帰れない。

リョウ…

嫌な予感がした。


 僕はその後、リョウを探して学校中を駆け回ったが、結局見つけることは出来なかった。

何度携帯に電話をかけても返信がない。翌日の待ち合わせ場所にも現れなかった。僕は一人で人形道を通る勇気はなかったので、この日は普通の通学路を通った。

学校に着いて、物々しい表情で担任の先生が教室に入ってきた時には全てを察した。

「角川凌が、昨日の夜から行方不明になった。最後に人形道を通ったのが目撃されている」

教室がにわかにざわつき始める。斜め前の席で、金子が暗い表情をしているのが分かった。

休み時間になると、彼女は周りの目も憚らずにすごい剣幕で僕に迫ってきた。

「忠告したよね!ふざけ半分であの道を通るなって!」

僕は俯いたまま黙りこむ。僕自身、混乱していた。最後にリョウが目撃されたのが人形道?そんなわけがない。リョウは昨日僕と一緒に学校に来ていたじゃないか。

「私の姉も、三年前にあの道を通って…消えてしまったの」

「え…」

金子が言う。初耳だった。

「今もまだ、行方不明よ。生きているのかも死んでいるのかも分からない」

「そんな…あの一本道で、どうやったら迷うっていうんだよ」

僕は恐る恐る尋ねる。金子は悔しさを噛み締めるように首を横に振った。

「分からない。でもあの道は何かがおかしいのよ」

僕は話を聞きながら、再び違和感を感じていた。そういえば昨日金子はこのことを知らないと言っていたのに、今日は平然と話している。僕はハッと思いついたように顔をあげた。例の男子生徒の方を見る。やっぱり…彼は松葉杖を突いていた。

「どういうことだよ、これ…」

僕は金子の横を通り抜けて廊下に飛び出す。

エレベーターを見た時には、思わず笑ってしまった。昨日ワイヤーが切れて落下したはずのエレベーターが何事もなかったかのように綺麗になっているのだ。

「あはは…」

これはもう記憶違いなどで済まされる話ではなかった。昨日のあの一日はなんだったのか。僕が体験したあの恐怖も、全て夢だったというのだろうか。もうこの世界はおかしくなってしまったのかもしれない。


 僕はその日から、もう人形道のことについて深く考えるのはやめた。これ以上関わりを持つと、今度こそ帰れなくなると思った。

しかし、一方で僕はどうしても親友のリョウのことを忘れることが出来なかった。だから僕は毎日通学路の途中で足を止め、人形道の近くを通るようにしていた。

この日もいつもと同じようにダメもとで人形道の近くまで足を運んで、僕は思わず目を疑った。

そこには人影が立っていた。暗がりで顔はよく見えなかったが、親友の僕には分かった。

リョウだ。

僕は恐る恐るその人影に向かって尋ねる。

「リョウ…なの?」

リョウは照れ臭そうに笑って頷いた。僕は嬉しくて、一目散に彼の元に駆けて行った。

「てっきり死んじゃったと思ってた…」

「バカヤロウ、勝手に殺すなよ」

久しぶりのリョウとの会話は楽しかった。僕たちは以前のようにくだらない話をしながら人形道を歩いた。

「それで、リョウは一体、これまでどこに行ってたの?」

「…学校だよ」

「え?」と僕は首を傾げる。人形道の中間辺りまで来たところだった。

「どういうこと?」と尋ねようとして横を見たが、僕はそこで言葉に詰まってしまった。そこは周りの木々が低く、入り口に比べて日の光が良く差し込む場所だった。リョウの横顔が日の光に照らされてはっきりと見える。

そこにいたのは、リョウではなく、リョウの形をした人形だった。

一目で人形と分かったのは、目がガラスで、腕や足がつぎはぎだらけだったからだ。

恐怖で全く動けないでいる僕に、「それ」はゆっくりと近づいてくる…

僕は出口に向かって駆け出した。焦って足が絡まり、汗が目に入って滲みた。それでも、僕は走り続けた。

大丈夫。この道はずっと一本道だ。迷うはずがない。

やがて校門の前に出て僕は立ち止まった。振り返ると、そこにはもうリョウの姿はなかった。

僕は自分の教室に向かおうとして階段の前で足を止めた。

本来エレベーターがあるはずの場所にはカラーコーンが並べられていて、その奥に瓦礫の山が見えた。

やっぱりエレベーターは壊れている。だとすると、昨日の出来事の方が夢なのだろうか。もう僕は訳が分からなくなって頭を抱えた。

教室に着くとすぐにチャイムが鳴って朝のホームルームが始まった。

「今朝、人形道を通った生徒がいる」

担任の先生は開口一番そう言った。怒気を含んだ低い声だった。僕は今度こそ怒られることを覚悟して、ギュッと目を瞑った。先生に腕を強く掴まれ、僕はあまりの痛さに目を開ける。

そして目の前の光景にゾッとした。

そこにいたのは先生…ではなく、先生の形をした人形だった。

「え」

僕は思わずその手を振り払って、椅子から転がり落ちた。

助けを求めようと周りを見渡して、絶望する。

クラスメイトたちも皆、ガラスの目をした人形だったのだ。

おかしい…こんな世界あり得ない…

僕は床を這いつくばりながら必死に扉へと向かった。助けを求めて伸ばした腕をもう一度掴まれる。

「帰れないよ、もう」

人形の一人がそう言って僕の腕を引きちぎった。

「ああああぁぁ」

僕は無数の手に掴まれ、体を改造されながら考えていた。遠のく意識の中で、一つの答えを見つけた。

そういうことか。 

人形道は最初から近道なんかじゃなかった。人形道を抜けた先にあるのは僕たちの高校ではなく、高校そっくりの別世界だったのだ。そこでは本物そっくりの人形が、「学校ごっこ」をしている。

金子が話を覚えていないこと、男子生徒の怪我が直っていたこと、エレベーターが綺麗になっていたこと…全て合点がいった。あの分かれ道は、通学路を通れば現実世界に、人形道を通れば別世界にたどり着く。つまり僕は日によって違う道を通ることで、二つの世界を行き来していたのだ。

一本道で迷うわけがないと思っていたが、僕は知らず知らずのうちに迷い込んでしまっていたのである。

二度と帰れない人形道に。

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