女神の前髪を引っこ抜け!

雨野 優拓

女神の前髪を引っこ抜け!

 そこは大きなホールのような空間だった。いくつもの大きなテーブルが並べられ、そこに座った人々がトランプやルーレットに興じている。床や壁、天井には煌びやかな装飾が施され、それらが照明の光を跳ね返しては爛々と輝いていた。

 きっちりとしたスーツに身を包んだウェイターが、女に向かって恭しく腰を折った。


「ようこそ、地下カジノ『ディーズレス』へ」



 その女がここへ来たのは初めてのことだった。

 傍から見たら、初めて都会に出てきた田舎娘に見えたのだろう。ホールに置かれたテーブルの脇を歩く女のもとに白いスーツを着込んだ男が近づいてきた。


「地下カジノが珍しいかい? お嬢さん」

「お嬢さんって……私は子どもじゃないわ」


 女の齢は二十をわずかに越えていた。しかし、その顔立ちと平均より低い背のせいでよく子どもと間違われることがあった。


「おっと。それは失礼」


 白スーツの男はキザな態度で女に詫びた。

 その言葉に女はムッとした。フンと鼻を鳴らすとその男に背を向ける。

 カツカツと音を立てながら離れて行く女の背を見ながら、白スーツの男は小さく肩をすくめた。




 いくつも立ち並んだテーブルの横を歩いていると、女は一つのテーブルに目をつけた。

 そのテーブルで行われているのは、テキサス・ホールデムと呼ばれるポーカーの一種だった。プレイヤーは各々二枚の手札が配られ、共有コミュニティカードと呼ばれる五枚の場のカードと手札を合わせた計七枚のカードの中から五枚を選び、その組み合わせで役を作って賭けを行う。女が最も得意とするゲームの1つだった。


 一言断って、女は空いている席に腰を下ろす。替えてきたチップをテーブルに置き、他のプレイヤーの顔ぶれをざっと見る。


 テーブルの右端には、三十代くらいの紫色のジャケットを着た男。その隣に黒のスーツに豊かな髭をたくわえた初老の男性と豪華なドレスを着込んだ貴婦人。二人は夫婦なのだろう、楽しげに言葉を交していた。そして空席が1つと、一番左にはハンチングをかぶった男。女は貴婦人とその男の間に座っていた。




 それからディーラーがゲームの開始を告げた。

 テーブルに置かれたカードの山を慣れた手つきで混ぜ合わせると、右から順に一枚ずつディーラーがカードを配る。時計回りにそれを二回。全員に二枚ずつ手札が渡ると第一ラウンドが始まった。

 

 配られた手札は、♥の10と♠のA。

 第一ラウンドでは共有カードはまだ出ない。この段階での判断材料は二枚の手札しかなかった。


 番が回ってくると女はコールを宣言。既に出ていた掛け金二十ドルと同額を場に出す。

それから誰も降りることはなく、皆のベッド額が揃ったところで第一ラウンドは終了した。この時点で場に出た掛け金、計百ドルがポットに移動する。

 これがあと三回繰り返され、最終的に集まったポットの中のチップを勝者が総取りすることができる。

 

 第二ラウンドが始まった。

 ディーラーがカードの山の一番上をイカサマ防止のため廃棄すると、それからフロップと呼ばれる三枚の共有カードを場に並べた。


 左から順に♣の2、♦の3とJ。


 手番が回ってくると、女はフォールドを宣言してゲームを降りた。

 この時点で役無し。この先二枚の共有カードが公開されたとして、勝てる確率は低かった。

 残った全員がコールして、第三ラウンドへ。

 ディーラーが再び山札の一番上を廃棄して、四枚目のカード、ターンが場に置かれた。♠の2。

 黒スーツはそれを見てフォールド。貴婦人は笑みをたたえながら四十ドルをベット。ハンチングがコールし、つづく紫ジャケットはフォールド。

 残ったのは貴婦人とハンチングの二人。ゲームは第四ラウンドへもつれこむ。

 リバーと呼ばれる最後の共有カードが場に出た。♥の10。

 貴婦人は息巻いて八十ドルをベット。相当の自信があるらしい。

 負けじとハンチングがコール。再び手番が回ってきた貴婦人はレイズ。掛け金が百六十ドルになった。少し考える素振りを見せてからハンチングがコール。

 そうして第四ラウンドが終了した。


 四つ全てのラウンドが終わると、ショウダウンフェーズに移る。手札を見せ合って役を競う決着の場だ。

 最後のレイズを行った貴婦人が始めに手札を公開した。

 彼女の手札は、♣のJと♦の2。共有カードと組み合わせて、2とJのフルハウスだった。なるほど、強気にレイズしていたわけだ。

 対して、ハンチングは2のスリーカード。


「ああ、くそ」


 ハンチングが忌々しげに声を洩らした。

 ポットに入っていた掛け金、六百六十ドルが貴婦人のものとなる。

 早々にゲームを降りた女は二十ドルのマイナスで済んだ。




 すぐに次のゲームが始まる。

 配られた女の手札は♣の8と♠の4、。これはダメだ。

 他のプレイヤーが次々とコールが宣言する中、女はすぐにフォールド。すると、

「おいおい。ずいぶんと弱気じゃねぇか。やる気あんのか?」

 ハンチングが野次るように言った。前のゲームで負けた八つ当たりだろうか。


 隣の貴婦人も「せめてフロップを見てからでも良いんじゃない?」と言った。


「ええ、まあ……」


 曖昧な笑みを浮かべながら女はディーラーに手札を返す。

 

「せっかくなんだから運を試さなくちゃ。でないと楽しくないでしょう?」


 先程のゲームで勝って調子が良いのか貴婦人がそんなことを言う。他のプレイヤー達もそれに頷く。


「ええ、そうですね」


 そう答えながらも、女はほくそ笑んだ。

――これなら楽に勝てそうだ。



 

「ポーカーは単なる運任せのギャンブルじゃない」


 昔、彼女にポーカーを教えた師匠とも呼べる男が言っていた。


「いいか、ポーカーは八割の手札で降りるんだ。小さな負けを積み重ねて、時が来たら勝負をしろ。そうすれば負けない。いいか。運命の女神が目の前を通り掛かるのを、黙ってジッと待つんだ」


――それがわからないようじゃ、私の敵じゃない。

 女は今日の夕食は豪華にしようと決めた。



 次も、その次もまたその次のゲームも女は早々にゲームを降りた。他のプレイヤー、特にハンチングから冷笑を向けられたが女はそれを無視した。



 そして時が来た。配られた手札は♣と♠のA。この上なく最高と言える手札だ。上がりそうになる口角を、女は奥歯を噛みしめることで必至に押さえつけた。

 このときになって初めて女は第四ラウンドまで残った。

 リバーは女の有利に働かなかったが女の役はAのスリーカード。彼女は強気で勝負を仕掛けた。

 掛け金はどんどん上がり、百四十ドルに達した。途中で貴婦人が降り、ハンチングとの一騎打ちに。ここまでついてくるとは、相手も相当にいい手なのかも知れない。だが、女は引かなかった。


 コールの合わせが終わり、ショウダウン。

――さあ一体どんな手をもっているの? 見せてみなさい。

 女は笑みを浮かべながら手札を表にした。

 間もなく、ハンチングが二枚の手札を開示。貴婦人が「あら」と声を漏らした。女は愕然とした。

 ハンチングの役は♦のAを初めとしたストレートだった。

 女の負けだった。


 ハンチングがにやつきながらチップを懐に掻き込む。

 今の戦いでの女の損失は四百二十ドルに及んだ。それは今日の女の軍資金の半分に近く、これまでの負け分を合わせると既に持ち金は当初の三分の二を割っていた。女は唇を噛む。


――ここが引き時か……。


 素人と侮り負けたのは自分のせいだが、そうとわかっていても悔しい。


「なんだい嬢ちゃん。もう止めちまうのか?」


 席を立とうとする女に笑いながらハンチングが声をかけた。女はキッと睨んで返す。


 そのときだった。


「うおっ」

「おっと。これは失敬」


 最初に女に声をかけてきた白スーツの男が足下をふらつかせてハンチングの男にぶつかったのだ。


「気をつけろ!この酔っ払い」

「いやあ失礼失礼。――ところで僕もゲームに参加させて貰ってもいいかな?」


 そう言って、酒の匂いただよわせた白スーツは空席に腰を落ち着けた。


「それじゃあこの人が私の代わりってことで……」


 女は丁度良いと席を立とうとした。しかし、その腕は白スーツが掴んだ。


「諦めるには少し早いんじゃないか?」

「そうよ。もう少しやれば、あなたにも運の女神が微笑んでくれるんじゃない?」


 白スーツの言葉に、右隣の貴婦人も乗っかった。


「いや、今日はそろそろ……」

「おい。やるのかやらねえのか、早く決めろよ」


 ハンチングが急かすように、苛立ちを露わに言った。

 白スーツと貴婦人を交互に見る。それから女は浮かせていた腰を落ち着けた。

 師匠の言葉には背くが、このままでは今夜の寝付きが悪くなりそうで終われなかった。



 それからディーラーがカードをシャッフルしようとして、その手が止まった。どうしたのかと見ると、白スーツがぶつかった拍子に零れた酒でカードが濡れていた。ディーラーが新しいトランプに交換しようとすると、


「おいちょっと待て」


 ハンチングが声を挟んだ。


「別にそのままでもいいだろ。わざわざ替える必要はねえ」

「いえ、規則ですので……」


 ディーラーはそう言いながら新しいトランプを取り出す。ハンチングはまだ何かを言おうとして、「……ちぇっ」と小さく舌打ちをした。それが少し気になったが、間もなく白スーツを加えた六人でゲームが再開された。


 女は少し冷静さを取り戻していた。

 何度かゲームが行われ、失ったチップの半分ほどを取り返していた。隣の白スーツも着実にチップを増やしていた。

 一方で、ついさっきまで飛ぶ鳥を落とす勢いだったハンチングはすっかりその色を失い、無謀な賭けに破れて稼いだチップを少しずつ放出していた。



 そして、女のもとに二度目のチャンスが巡ってきた。

 配られた手札は♥の10とJ。

 定石通りコールした女は、第二ラウンドのフロップを見てハッとした。

 現れたのは♥の2、K、A。それで、♥のフラッシュが完成した。

 黒スーツが二十ドルをベットし、貴婦人がコール。

 女の役は現時点で最強。ここで高額レイズをすれば恐らく勝てる。だが、女はそうせずにコールを宣言した。

 白スーツはフォールド。ハンチングがレイズ。掛け金は六十ドルに。それから誰も降りることなく合わせが終わり、第三ラウンドが始まった。


 ターンは♣のA。

 前のラウンドでは間違いなく最強だったが、それがわずかに揺らいだ。

 だが、そのラウンドでは女を含めて誰も降りなかった。

 この時点でポットの中には千二十ドル。これまでのゲームで最高額だった。

 女の手にはいつの間にか汗が滲んでいた。

 

 そして迎えた最終ラウンド。リバーが公開されると、


「ベット。百ドル」


 黒スーツがいきなり勝負に出た。相当自信があるのだろう。

 負けじと貴婦人がコール。

 女も震えを抑え切れていない声でコールを宣言。それに被さるように、


「レイズ。二百ドルだ!」


 ハンチングがドンッと音を立てながらチップを場に出した。

 それを受けて黒スーツがフォールド。貴婦人はリレイズ。女はコール。ハンチングがそれにまたレイズ……。

 最終的な掛け金は四百ドルまで膨れ上がっていた。誰も降りる気配はない。

 そしてショウダウン。

 最初に手札を公開したのはハンチング。彼の手札は、♠と♦のA。Aのフォーカードだった。


「……わたくしの負けね」


 がっくりと肩を落とした貴婦人が手札を開示。♣と♠のK。場のカードと合わせてKとAのフルハウス。かなり強い役だ。だが、フォーカードには敵わない。

 そして最後は女の番。

 しかし、彼女はなかなか手札を見せようとはしなかった。


「……おい、さっさとしろよ。これが俺様の実力なんだ。今さら駄々をこねても遅いぜ!」


 ハンチングが勝ち誇ったように女を急かす。彼の手はすでにチップの山に伸びかけていた。

 そして、とうとう女は二枚の手札を表にした。


「これは……」

「まあっ!?」


 それを見た両隣の白スーツと貴婦人から驚愕の声が上がった。

 

「私の……勝ちです」

「は?」


女は震える手で、自分の手札と共有カードを横に並べる。

 出来上がったのは、♥の10、J、Q、K、A。

 ポーカーにおける最強の役。ロイヤルストレートフラッシュだった。

 ハンチングの口がぽっかりと開く。

 女の前に、場に出たチップ総額二千三百二十ドルが移動した。

 信じられない思いだった。身体の震えが止まらない。これほどの大金を勝ち取ったこともそうだが、何よりロイヤルストレートフラッシュが自分の手に表れたことが信じられなかった。約六十五万分の一の確率。ポーカーを一生涯プレイしても出るかどうかわらかない。彼女はそれが信じられなかった。


「い、イカサマだっ!」


 突然、ハンチングがそう喚きながら立ち上がった。


「こんなことあり得るはずがない! イカサマをしたに違いない!」


 ハンチングの大声に野次馬が集まってくる。

 事実無根の言いがかりだった。

 当然、女も反論する。が、耳を塞ぎたくなるほどの男の大声に、女の立場は劣勢に。


「無効だ! 不正があったんだ、俺の掛け金は返して貰う!」

 

 そう言って男が女の前のチップに手を伸ばそうとしたその時だった。

 いつの間にかに姿が見えなくなっていた白スーツの男が、数人の警備員を引き連れて戻ってきた。



 ハンチングが、警備員たちを見るや唾を飛ばした。


「――こいつだ、こいつがイカサマをしたんだ!」

「ち、違う! 私はなにも……」


 警備員が近づいてくる。そして――。

 彼らが取り押さえたのは女ではなく、ハンチングの方だった。


「俺じゃない! こっちのガキの方だ!」


 わめき散らすハンチングに向かって、警備員は一組のトランプを懐から取り出して見せた。それは少し前まで女たちのテーブルで使われていた、こぼれた酒が染みついたトランプだった。

 男はそれを見ると急に色を失った。そして、おとなしく警備員たちに連れられていった。




 女はカジノ備え付けのバーに白スーツと並んで座っていた。

 あの後、カジノの支配人を名乗る男が女の前に表れ、彼女の潔白とハンチングがカードに細工を施していたことを告げた。


「素晴らしい」


 白スーツが言った。


「大勝ちじゃないか。それに腕も見事だった。まさかロイヤルストレートフラッシュとはな」


 君の実力が招いた結果だ、白スーツはそう言った。

 第三ラウンドまで彼女の役はフラッシュだった。だが最後のリバーがそれを変えた。

 ♥のクイーン。女はジッと堪えた結果、運命の女神が彼女の前に現れたのだ。

 だが、そのきっかけを作ったのは白スーツの男だとも言える。この男が、あのとき酒をトランプにこぼさなければハンチングのイカサマが露見することはなく、女はそのままテーブルを離れていただろう。あれは本当に酔っ払ってのことだったのだろうか。


「それじゃあ。運命の女神に」


 白スーツは酒の入ったグラスを掲げた。女もグラスを持ち、それを男のグラスに打ちつけて言った。


「前髪を失った運命の女神に。――あのとき、目の前を通った女神の前髪を、私が勢い余って引っこ抜いてしまったから」


 女の言葉に、白スーツは笑った。

 女はグラスを口につけ傾ける。

 勝利の美酒は格別だった。

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