4 英雄には酒と喝采を

 男は明らかに気分を害した様子でミスター・サムを睨みつけた。が、彼は毅然と背筋を伸ばしたまま、一歩も引かなかった。


「あんだよジジイ」

「開かない箱を買ってくれる物好きなどいやしないだろう」

「っ……てめえ!」

「この店の権利書は君のような男の手には相応しくない。速やかに、あるべき場所へと戻したまえ」

「うるせえ! 舐めた口きいてんじゃねえぞ老いぼれがっ!」


 男が拳を振り上げた。

 危ない! なんて僕が思った時には、すでにウルフが男の腕を掴んでいた。そして何をどうしたのか分からないが「いでででででででっ」と呻く男をくるりと引きずって、出入り口の方に押しやった。

 男は二、三歩前によろめいて、すぐに振り返った。


「てんめえこのクソガキ、何しやがる!」

「お帰りの方向を見失っていらっしゃるご様子でしたので、僭越ながらご案内をと」


 慇懃無礼を極めたような言い回しでウルフは微笑んだ。

 男はたじろいだようだった。本気で怒っているウルフに見下ろされたら、誰だって気圧されるだろう。だって唇は確かに弧を描いているけれど、宇宙よりももっと濃い漆黒の瞳は欠片も笑ってないんだぜ。しかもその目は六フィート百八十二センチの高みにあって、周りは炎みたいに真っ赤なコートだ。そして声は冷凍庫よりさらに冷たい。


「目的を果たされたなら速やかにお帰りになってはいかがでしょう。出口はそちら側に真っ直ぐでございます、サー」


 ウルフは手のひらを上に向けて丁寧に案内する振りをしながら、男の肩を掴んで、有無を言わせず出口へ押していった。


「うるせえ! 放せ!」


 男はいきり立ってウルフの手を振り払った。


「てめえこの赤コート、次会ったらただじゃおかねえからな!」

「はい。ぜひこの店以外の場所でお会いしましょう。その時はこちらも、ただでは済ませませんので。では、さようなら」


 そう言われては出ていく他に何も出来ない。男は聞き取れない罵倒をむにゃむにゃと喚きながら、顔を真っ赤にして店を後にした。

 扉が閉まった瞬間、ワアッ! と歓声が上がり、拍手がウルフに捧げられた。みんながあの男に苛立っていたのは明白だ。もちろん、僕も思い切り両手を打ち鳴らした。


 ひとしきりもみくちゃにされて、一日で飲み切るには難しいほどの酒がウルフのために注文された後、ようやく彼はカウンター席に腰を下ろした。


「お疲れ、ウルフ。見事だったよ」

「ありがとうございます」


 ウルフは椅子の背にコートを掛けて、僕の乾杯に応じた。ワインを半分ほど干してから、彼は椅子に深く座り直して、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を解いた。


「僕と君とじゃあ、流れる時間が違うみたいだね」

「どういうことです?」

「僕が“やばい!”って思った時には、君はもう動いていたからさ。反射神経とかそういうのの違いじゃなさそうだなって思って」

「ああ」


 ウルフは細い革紐で器用に髪を括ると、なんてことないように言った。


「それは単純に、慣れているかどうかの違いですよ。一秒の遅れが死に繋がるという場面を何度か経験すれば、自然に慣れます」

「君って従軍経験あったりする?」

「無いはずです。私の記憶が正しければ」

「一度、記憶領域を洗い直した方がいいんじゃないかな」

「気が向いたらやっておきますね」


 ウルフはすまし顔でワインを飲み干した。


「いやー、助かったよ赤コート」


 厨房から出てきたミックさんがそう言いながら、ウルフの前に大きなパイを置いた。焼きたてほかほかのパイ生地はつややかで、最高に美味しそうな匂いがする。ウルフの目が子どもみたいに輝いて、さっそくフォークを手にした。

 それからミックさんはミスター・サムに向けて頭を下げた。


「失礼しました、ミスター・サム。お見苦しいところを」

「いやなに、私こそ余計な口出しをした。助かったよ、若いの」


 隣に座っていた彼がそう言った時、ウルフはちょうど大きな一口を詰め込んだところだった。しゃべれなくて無言で首を振る。

 ミスター・サムはたっぷりとした頬を揺らすように笑った。


「面白い子だね、君は。さっきまでは立派な紳士だったのに、今はまるで幼児だ」


 ウルフはようやく物を飲み込んで「お褒めにあずかり光栄です」と微笑んだ。まったく、口元にパイのカスがついていなかったら完璧だったのに。


「すべてが丸く収まることを祈っているよ、店主さん」

「ありがとうございます」

「赤コートくんに小さなお礼をやってくれ。では、私はこれで」


 ミスター・サムはちょっと帽子を傾けて、ゆっくりと店を出ていった。

 僕はカウンターに身を乗り出した。


「それで、いったい何者だったの? さっきの男は」

「ああ……」


 ミックさんは後頭部を引っ掻くようにしながら、重たげに口を開いた。


「さっきのはブレット・ロビンソンっつってな。グランマの息子さんだよ」

「えっ? グランマの?」


 僕は目を見開いた。ミックさんが重々しく頷く。


「大昔、俺がここへ来るよりもずっと前に、グランマと大喧嘩して出ていって、それきり音信不通だったんだけどな。グランマが死ぬちょっと前にふらっと戻ってきやがって」


 困ったもんだ、とミックさんの溜め息。


「それで、グランマが亡くなったと思ったら、店の権利書をグランマから相続したって言い出して。もちろん俺たちも家中を探したけど、権利書はおろか遺言書も見つからなかったから……本当にアイツが持ってんだろうよ。仮に全部ハッタリでさ、実際は持ってなかったにしても、遺言がない以上相続すんのは実の息子、つまりアイツだ。くそっ」


 軽い悪態が、響きほど軽くないことは察せられた。疲れた顔にもなるわけだ。


「グランマの家に盗みに入ったのって、アイツじゃないの?」

「おいおい、盗みの話、誰から聞いた?」

「噂になってるよ」


 ミックさんは呆れたように苦笑しながら「そうだと思うんだけどな。証拠がないんだ」と残念そうに言った。


「セキュリティも役に立たなかったし」


 パイに夢中になっていたウルフがふと顔を上げた。僕に目で訴えてくる。宇宙みたいに真っ黒な目は、一度気付いてしまうと驚くほど雄弁だ。掘り下げろ、って言っている。分かったよ、仕方ないな。


「セキュリティ、頼んでたんだ」

「そりゃあな」

「侵入者があったら警備会社に連絡がいくやつ?」

「そう。でもそれがなんでか作動しなかったんだ。警備会社の連中いわく、原因不明の故障だってよ。ったく」


 ウルフが軽く頷きながら、パイの方に向き直った。話はもういいらしい。


「はぁ……厄介な話だよなぁ。このままじゃ……」


 ミックさんは不吉な考えを振り払うように言葉を切った。けれど僕は勝手に続きを補ってしまった。

 このままじゃ、いつこの店を奪われてもおかしくない。


「マチルダもいなくなっちまったし」

「どっか行っちゃったの?」

「ああ。葬儀の後ぐらいから、とんと行方知れずだ。アイツ、グランマのことが大好きだったからなぁ」


 僕はあの煤色の毛と、柔らかくてセクシーな声を思い出した。不思議なことに、そのイメージは僕らのテーブルに座っていた姿ではなく、グランマの膝に抱かれている姿だった。


「こんな時、グランマだったらどうするのかな……」


 ミックさんの目の先には空っぽの安楽椅子。

 あの場所から店を守っていた天使は、もう天界に戻ってしまった。


「……なぁ、死んだ人と話せたりしないのか、赤コート」


 ひどくぼんやりとした口調だった。

 ごくり、と飲み込んだ音は、単純に口に詰め込んだ物を嚥下しただけだろう。それからウルフはあっさりとした声音で言った。そこには緊張も悲哀も含まれていないように感じられた。


「不可能です。少なくとも、幸せな最期を迎えた人に関しては、確実に」

「そっか」

「はい」

「そうか……そうだよなぁ」


 それが普通だよな、と呟くように言って、ミックさんは厨房へ引っ込んでいった。ウルフはその大きな背中を少しだけ見詰めていた。その目がなんだか影を抱え込んでいるように見えて、僕は目を逸らす。ブラックホールに吸い込まれる。

 食事を済ませて僕は帰ることにしたが、ウルフはまだ残ると言った。たくさん寄せられたお礼・・をすべて飲まなければならないから。そう言って笑った時の彼の目は、いつも通りの柔らかさに戻っていた。

 細々と雨が降る冷たい昼下がり。凍ったような街並みはなんだか色褪せて見える。

 ゆっくりと足を進めながら、僕は考えた。――僕らには立派な手足がある。これを使って、お給仕以外に何か出来ることがないだろうか、と。

 そして道を曲がった。


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