10 正しい正し方は

「どいてください」

「駄目だ」


 僕は宇宙に向かってはっきりと首を振った。気を抜いたら吸い込まれそうだった。足と腹に力を込める。


「落ち着いて聞いてほしい、ウルフ。お願い」

「犯罪は犯罪です。はずみだと言うなら、悪いことはしていないと主張するなら、それをはっきりと警察に言うべきだ。そして正しい判決を受けるべきです」

「そうだね。正論だ。君の言うことは正しい」

「ならどうして」

「君って間違えたことある?」

「もちろん、ありますよ。些細なことからどうしようもない重大なものまで、たくさん」

「その中で一番重大な間違いって何だった?」


 ウルフははっきりと言葉を詰まらせた。痛みを耐えるように口角がぐっと下がる。


「……何が言いたいんですか。人は誰でも間違うものなんだから、一度の間違いぐらい見逃せとでも?」

「違う、違うよ、そうじゃない」


 すべての人間が正しさだけを選んで生きていけるわけじゃない。正しいことしか許されない世界は、きっと息苦しくて住みにくい。

 たぶんだけど、彼がそうやって正しさにこだわるのは、どうしようもない間違いがあるからじゃないだろうか。正しく裁くことのできない間違いが。


 今さっき喉に詰まらせた何か。


 彼の芯にある冷たさは、裁けない間違いを犯した自分への罰なんじゃないだろうか。

 それが中心にあるから、彼はブラックホールみたいになっているのだろう。善意も悪意も一緒くたにしてすべてを拒絶し、誰の心も近寄らせない。危険だから近寄るなと声高に警告して、自分で自分を孤立させている。そうなることを彼自身が望んでいる。


 そのことをやめろとは言えない。そんな資格はない。


 でも、これ以上彼が孤立しないように、ちょっと口を出すくらいは許されてもいいんじゃないだろうか。このまま彼が世界で一番正しい冷酷な判断をしてしまったら、彼はいよいよ人間と見なされなくなってしまう。


 魔法使いだから、怪物だから、人の心はないのだ、って。

 それじゃあ駄目だ。


 僕は混乱して明後日の方向に行ってしまいそうになる言語中枢の手綱を必死にたぐった。


「僕が言いたいのは、正し方っていろいろあるんじゃない? って話」

「正し方?」

「そう。ただ単純に警察に突き出して裁判を受けて、ってそれだけがこの世で唯一の罰で、それ以外にどんな方法も間違いを正すことは出来ない、なんてなったらさ、裁けないような間違いはどうなるの? アンドリューズがした浮気だって間違いだろ? そっちは犯罪じゃないから正しい裁きは無い。だからって突き落としていいってわけじゃないけどさ。でも転落を裁きだって仮定したなら、それは非公式で非合法だけど、間違いに対する正しい罰だって言えるんじゃない?」

「……詭弁ですね」

「そうかも」


 彼の中に少しずつ落ち着きが戻ってきている。よかった、僕の言葉は届いている。少しだけ力を抜いて、わざと笑う。


「それに、僕は知ってるよ。君はそこまで真面目な人間じゃない」


 ウルフは心外だと言いたそうな顔になって、首を傾げた。


「僕らの寮はアルコールの持ち込み禁止だって知ってるだろ? なのにこの間、ウィスキー一本空けてたじゃないか。僕も一杯貰ったから覚えてる。それに、魔法について調べた時に知ったんだけど、魔法を一般人に見せるのは望ましくないって言われてるんだね。初日に思い切り堂々と使ってたし、探査魔法だっけ、何度も僕の前で使ってたよね。いいの?」

「望ましくないというだけであって、禁止されているわけではないので」


 ほら、そういうところだよ。悪戯を誤魔化す子どもみたいな顔でそっぽを向いて。君はイメージされているほどクールじゃない。


「詭弁だね」


 言い返すと、一瞬だけ彼は唇を笑みの形に歪めて「……そうですね」と頷いた。


「それにほら、考えてみてよ。ここで彼女を警察に突き出したら、どちらにせよ君の悪評はうなぎのぼりだよ。警察だって信用してくれるかどうか分からない。彼女が取り調べで嘘をつくことも考えられる。そうしたら、証拠は何も無いんだよ。アンドリューズが意識を取り戻したら、彼女に突き落とされたって証言するかもしれないけど、防犯カメラに彼女は映ってないし、目撃者は全員口をつぐむ。そうしたら事件は完全に迷宮入りだ。突き出された腹いせに君の悪評が広まるだけ。その方がデメリット大きくない?」


 ウルフは目を閉じて、ゆっくりと息を吸った。吐くのと一緒に肩から力が抜けていくのが見て取れた。

 彼はクームズを放した。


「……わかりました」

「それじゃあ」

「ただし、条件がいくつか」


 ウルフは振り返り、ジュールとクームズを交互に睨み見た。


「もしアンドリューズが亡くなったら、私はすべてを話します。……誰かが死んだ理由を曖昧にするのは、どうしても見過ごせないので」


 そこが彼にとってギリギリの妥協点なんだろう。


「それともう一つ。このまま私が呪ったと思われ続けるのは気に入りません。なので、アンドリューズの意識が戻ったら、別の呪いを仕立て上げるのを手伝っていただきます」

「別の呪い?」

「ええ」


 僕の反問をウルフは軽く肯定した。


「もちろん、魔法は使いません。使うのはいくつかの事実と演技、それだけです」


 はぁ。分かったような分からないような。

 詳しい説明を求めようとしたその時、ふと背中の向こう側が騒がしくなった。


 ドンドンドンドンッ!


 けたたましいノックの音がして、誰も返事をしていないのに扉が開いて――僕は慌てて飛び退いた。どうやら外で盗み聞きしていたらしい。五人、六人……八人。いくら広いと言っても、この人数の男たちに一気になだれ込まれればさすがにむさくるしい。

 その内の一人が息せき切って言った。


「け、警察が来る! この間来た二人組だ! ついさっき表門をくぐった!」


 サマーヘイズ警部とルーサー刑事だろう。話を盗み聞きして、警察の到来を報告に来る。そうするってことは、彼らは半ば共犯関係のようになっているらしい。寮則違反がばれたらそんなにやばいのだろうか(やばいんだろうね)。


「クームズ、隠れろ!」

「ちょうどいい、これですべて片付きますね」


 緊迫するジュールと対照的に、ウルフはどこかのんきな感じだった。


「警部たちが来るということは、アンドリューズの容体に変化があったということでしょう。亡くなったと言ったら彼女をここで引きずり出す。意識が戻ったならそのまま誤魔化しにかかる。協力してもらいますよ。ああ、クローゼットの中はやめた方がよろしいかと。別の部屋に行ってください。クローゼットの中をもう一度調べると言われたらどうするつもりですか? 他の方々は残っていてください。話は聞いていましたよね。言い訳に使います」


 ウルフの言葉に従って、クームズが部屋を出ていく。ジュールが嫌そうな顔をして、別の部屋の友人に彼女のことを頼んだ。

 来たはいいけれどすることのない男たちが、気まずそうにそわそわしながら立っている。

 なんだか学芸会の本番直前の舞台袖みたいだ。あの時だけはどんな悪童も、緊張と不安に口を閉ざして、ふわふわしそうになる足元を抑えるのに必死になっていた。そんなことを思い出したら笑えてきた。

 ウルフがひょいと眉を上げた。


「余裕ですね」

「だってほら、僕って一番無関係な人間だから」

「確かに」

「君だって余裕そうだけど?」


 すると彼は屈託なく笑った。


「だってどう転んでも、命の危険はありませんから。少々退屈なくらいです」

「これまでどんな学校生活を送ってきたの?」

「その辺りは極秘事項が多いので、また今度」


 話せない、とは言わなかった。ということは、その内話してくれるのだろう。やっぱりこれが本性らしい。何がブラックホールだよ。鋼鉄の騎士だよ。単なるとびきりの悪戯っ子じゃないか。


「さて」


 壁から背を離して、ウルフは両手を打ち鳴らした。パンパンッ。ムカつく女教師が注目を集める時のやつ。それの二・五倍鋭い音。そわそわしていた悪ガキどもの背筋がすっと伸びる。


「和やかな雰囲気を消しますよ。適当に言い争っておきましょう。その方がリアリティが出るので。始めます。よーい、スタート」


 ごくごく軽い宣言。

 次の瞬間、怒涛のような罵倒が始まった。よくも悪い噂を流してくれたな汚らわしいクソガキども、卑怯な行ないだという自覚は無いのか、いっそ全員階段から落ちてみた方が世のため人のためじゃないか、うんぬん――半ば本心が混ざっているのだとしても、よくもこんなに流暢に言えるものだと感心したくらい。

 最初は呆気に取られていた連中も、やがてウルフの声の調子に流されて、だんだんまなじりを吊り上げていった。一人が言い返したのを皮切りに、罵声が室内に溢れ返る。部屋が爆発するんじゃないかってちょっと心配になった。

 それが杞憂で終わらなくなりそうになった(つまり一人がウルフの胸倉を掴んだ)頃、


「おい! 何やってるんだ!」


 ノックもなく開かれた扉から、刑事さんたちが飛び込んできた。


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