第36話 彰義隊へ

 大坂城から逃走した徳川慶喜が江戸城へ帰ってきたのは一月十二日のことだった。


 これ以降、江戸の町は恐慌に陥った。

 先の大戦における八月十五日の玉音放送、と言っては大袈裟すぎるかもしれないが、当時の江戸市民、特に幕臣が感じたショックはそれに似たたぐいのものであったろう。ただし玉音放送の場合と違って、江戸の幕臣たちは戦争に負けた実感が無く、というよりも戦争をした実感すら無かったのだから(むしろ三田の薩摩藩邸を焼き討ちして勝ったと思っていたぐらいのもので)いきなり将軍様が逃げ帰って来て「幕府軍は関西で負けました」などと言われても何が何だか訳が分からず、負けて悔しいには悔しいが、それよりも

「これから一体どうなるんだ?戦うのか?降伏するのか?我々はどうすべきなんだ?」

 と、視界不良の中で気持ちだけがはやるという、言うなれば恐慌、要するにパニック状態に陥ってしまったのだった。


 このとき江戸に住んでいた若き幕臣で、のちに小説家となった塚原渋柿園じゅうしえんは『脱走兵』という作品の中で

「事実は判明した。死刑宣告は下った。あえなくお味方、大敗北!それで読めた、上様の御帰還!これから官軍が攻めて来るということで、泣く、怒る、はやる、慌てる。覚悟のある奴も覚悟のない奴も、強い奴も弱い奴も、歯を食いしばる奴も腰を抜かす奴も、ただこれ江戸中を一つの大鍋にして泥鰌どじょうを煮る。それが苦しんで、もだえ狂うのてい!」

 といった風に当時の江戸の様子を語っている。


 無論、慶喜が逃げ帰ってきたことによって江戸城内もかなえの沸くが如く、大騒ぎとなった。

 城内の声は主戦論が圧倒的である。

 なんせ江戸にいた幕臣たちはまだ戦ってもいなかったし、このまますんなりと負けを受け入れられるはずもなく、なにより「関西で戦死した同胞のかたきを討たないで、なんとするか!これから必ず逆襲するのだ!」と皆が勇み立った。

 有力なところでは小栗上野介、榎本武揚、大鳥圭介、新選組などが主戦論を唱えた。中でも小栗は、幕府艦隊の艦砲射撃によって東海道で敵を殲滅せんめつすべし、と主戦論を唱えたという。


 しかし慶喜はその主戦派の小栗を罷免ひめんし、恭順派の勝海舟を登用して新政府側との交渉を行なわせることにした。


 慶喜に戦う気持ちが無いことなど、王政復古のクーデターから鳥羽伏見の敗戦までの経過を見れば、論ずるまでもない話であろう。

 そして大坂城の将兵を見捨て、かつては天狗党の残党も見捨てたこの男に「戦死した幕臣たちの敵を討つ」などといった感情があろうはずもない。まあ、この臆病で非情な男のおかげでその後の犠牲が減り、しかも外国勢力の介入を免れたというのは、大局的な見地から見れば大幸だったと言うべきだろう。本人の狙いがどうであったかはともかくとして。


 ただし「天皇を新政府側に握られている限り、どんなに反撃を試みたとしても最終的には勝ち目が無い」という大局観は慶喜にあったであろう。小栗のようなやり方で反撃しては新政府を決定的に刺激して、「朝敵」の名の下に慶喜の命も徳川家の家名も消し飛んでしまうだろう。しかし、そうは言っても最低限の戦力を保持しておかないと新政府との条件交渉が不利になる。新政府を決定的に刺激するのは避け、のらりくらりと交渉を引き延ばした上で「有利な敗戦条件」を獲得しなければならないのだ。


 そこで慶喜が選んだのが勝海舟だった。

 面の皮が厚く、胆力があり、駆け引きがうまい。こんな性質を持った武士は勝以外なかなかおらず、交渉人としてはうってつけである。そのうえ勝は薩摩と長州に人脈がある。それゆえ幕長戦争の時も、勝が休戦交渉に当たったのだった。

 慶喜は勝のことが嫌いだったが、こうなっては勝に頼るしか術がなかった。以後、勝が新政府との交渉を担うことになるのである。




 といった訳で、御大将である慶喜が戦わないと決めた以上、家臣たちがどうあがいたところで、もはや戦争はなくなった。

 そこでもう一度、塚原渋柿園にご登場願おう。彼の『明治元年』という著作から(青蛙房せいあぼう『幕末の武家』より)引用する。ちなみに彼は鳥羽伏見の戦いで戦死した士官、窪田泉太郎せんたろう鎮章しげあき)の知人でもあった。更に余談として、のちに尾高新五郎の伝記『藍香翁らんこうおう』を書くのもこの塚原(その時は塚原蓼洲りょうしゅう名義)である。

「窪田泉太郎はじめ知人の戦没は多くあった。それも残念だが、それよりもこの大敗というのが実に残念で残念で居ても立ってもたまらない。いずれ再度の盛り返しの戦争は是非ある事!その時こそは!と銃をみがき、弾薬の用意をして、刀に引肌まで掛けて、今日か明日かとその沙汰を待っていたところが、二月になると上様は上野に御謹慎!戦争はない!という事に決まった。とむらいくさをしないでどうするか、このまま敵に降参か、そんな事が出来るもんか、あるもんか!と、ただむやみにはやるのは私どもぐらいの年格好の者がいずれも口にする議論。剣術の師匠へ行っても柔術の稽古場へ行っても皆そんな事ばかり。泣くのもあればののしるのもある」


 この「上様は上野に御謹慎!」すなわち慶喜が上野寛永寺の大慈院に入ったのは、二月十二日のことであった。

 そしてちょうどこの頃、かつて慶喜の家臣として一橋家にいた人々が主君慶喜の雪冤せつえんを訴えて、立ち上がろうとしていた。


 彰義隊誕生の第一歩が踏み出されたのである。


 この前日の十一日、元一橋家家臣で幕臣の本田敏三郎としさぶろうと、わらび宿(埼玉県蕨市)出身の幕臣ばん門五郎もんごろうが作成した「檄文」が幕臣たちへ回覧され、この十二日、雑司ヶ谷ぞうしがやの鬼子母神前にある茗荷屋みょうがやという料亭に有志が集まった。この日に集まったのは十七名だった。その中には篤太夫の従弟で、やはり一橋家に入っていた須永於菟之輔おとのすけなどもいた。

 檄文の中身は「我が公、元来、尊王の為に御誠忠を尽くされ」といった文言から始まり、本来尊王家であった君公(慶喜)が薩長の陰謀によって朝敵とされているのは「君はずかしめらるれば臣死す」の状況であり、一橋家の恩を受けた者は君公の雪冤のために立ち上がるべきである、といった内容だった。


 彼らは十七日にも四谷鮫ヶ橋さめがはしの(現在の信濃町駅の北東辺りにあった)円応寺で会合を開き、今度は少し人数が増えて三十数名が集まった。そして四日後に再度、この円応寺に同志を呼び集めることにした。


 たちまち四日がたち、二十一日になった。

 この日、円応寺のすぐ近くにある料亭の二階から渋沢成一郎と渋沢平九郎、それに尾高新五郎の三人が、寺へやって来る武士たちを観察していた。

「どうやら喜作さんの心配は杞憂きゆうだったようですよ。なかなかどうして、格式のありそうな武士たちが次々とやって来てますよ」

「平九郎。何回言ったら分かるんだ。今は喜作君じゃなくて成一郎君だと言ってるだろう。まあ、それはともかく、確かに平九郎の言う通り、同志とするに足る、ひとかどの連中が集まったようだ。どうだろう成一郎君。そろそろ我々も腰を上げて、寺へ向かうべきなんじゃないか?」


 しかし、この新五郎の勧告に成一郎は答えず、黙々と酒を飲み続けていた。

「何が気に入らないんだかなあ、喜作……、いや成一郎さんがあの団体に加われば、まず間違いなく隊長になれるのに。そうなったら思う存分、薩長賊を相手に戦が出来るというものじゃないですか」

「平九郎。何回言ったら分かるんだ。まだ戦になると決まった訳ではないと言っただろう。上様のえんそそぐために我々は立ち上がったのだ。残念ながら私は、鳥羽伏見には間に合わず上様のお力になれなかったが、今度こそ上様をお救い申し上げるため、身命をして働く所存だ」

 実のところ新五郎は前年の暮れ、慶喜の側近である篤太夫と成一郎の師ということで慶喜の相談役として京都に招聘しょうへいされたのだが、新五郎が中山道の信州追分おいわけ宿まで来たところで鳥羽伏見の敗報に接し、そのまま仕方なく下手計しもてばか村へ引き返したのだった。


 かたや成一郎はこのころ腰が重くなっていた。

 かつては思慮深い篤太夫と比べてどちらかというと軽率な感もあった成一郎だったが、思いもかけない鳥羽伏見の大敗という経験から、その成一郎でさえ立ち上がるのに二の足を踏むようになっていた。

 予想だにしなかった「幕府崩壊」という乱世に突入し、この先なにが起こるのか全く見当もつかないのだ。そう簡単に腰を上げるわけにはいかない。が、この乱世をうまく渡り歩くことができれば一国一城の主になれるかも知れない、という野心もある。

 もちろん将軍(慶喜)様の側近として仕えていたという自負もあり、「上様の雪冤を果たすのは自分をおいて他にない」とも思っている。さはさりながら、事は慎重を要し、うかつに動くわけにはいかないのである。


 成一郎は冷静なフリをして酒を飲みつつも、心の中では激しく葛藤していた。

(まったく、この大変な時に篤太夫がいないとは実に残念だ。今あいつが近くにいれば、あいつと相談してうまく事を運べたんだが、新五郎さんではな……。新五郎さんは知識は豊富だが、残念ながら現実の政治まつりごとを知らない。理屈通りに進まないのが現実の政治なのだ。将来さきの見極めに失敗すれば自分はもちろん、多くの人間が死ぬことになる……)


 それでもとにかく新五郎が盛んに説得して、腰の重い成一郎を動かそうとした。「上様のえんそそぐために、今は躊躇ちゅうちょしている場合ではない」と。むろん、その気持ちは成一郎も同じである。というよりも、実際に上様の身近にいたのは自分なのである。上様に仕えたこともない新五郎さんに言われたくはない、とも思った。そしてとうとう成一郎も腹を固めた。

「それでは、いざ、我々も参るとするか」

 と成一郎は二人に告げ、重い腰を上げた。それから三人で連れ立って円応寺へ向かった。


 この日、円応寺には六十七名の有志が集まった。

 その中に天野八郎がいた。

 のちに「彰義隊といえば天野八郎」と言われるぐらい彰義隊を代表する顔役となる男である。

 上野国こうずけのくに甘楽かんら磐戸村いわどむら(現在の群馬県下仁田しもにた町の更に山奥のあたり)の庄屋の次男で、やはり渋沢・尾高一族同様、農家の出である。歳は三十八歳で、三年前に火消与力の養子となったがすぐに離縁となったので、まず幕臣と呼べるような身分ではない。が、人物としては傑出しており、多くの人々から信望を集めていた。

 のちに田辺太一が書いた天野の墓の碑文に「短小豊肥、眼光炯炯けいけい射人」とあり、「背が低く太っているが、眼光は人を刺すように鋭い」といった外見の持ち主だった。ただし太っているといっても動きは敏捷で、剣の腕もたつ。


 一同は隊の方針を話し合って「血誓帖けっせいちょう」という決起文を作成し、全員が署名血判した。その内容は「身命をなげうって上様の汚名をそそぐ」という点に一番の眼目が置かれてはいるものの、中には「反逆の薩賊を戮滅りくめつし」という文言もあり、そろそろ武闘派的な色合いもいくぶん見せ始めていた。

 そして隊の中心人物は渋沢成一郎と天野八郎の二人に絞られた。天野は人物的な器量によって信望を集め、成一郎は慶喜側近の幕臣だったという実績によって人々から推戴されたのである。


 翌日、成一郎と新五郎は数十名の同志と共に浅草の東本願寺を訪れ、半ば強引に隊の屯所として借り受けた。その後ここで同志の募集をおこなったところ数日でおよそ三百人の隊員が集まった。


 そして二十三日、隊の名前が正式に「彰義隊」と決まった。

 隊名は他に「昭義隊」という候補もあったのだが二年前に亡くなった将軍家茂の院号が「昭徳院」なので昭の字を使うのをはばかり、「義をあきらかにする隊」すなわち「彰義隊」となったのだった。

 また以前第二十二話でも書いた通り、この彰義隊の名前には、寅之助が一橋家にいた時に所属していた「床几隊しょうぎたい」とも関連性があると言われている。

 事実この日、隊の幹部も選出され、頭取の成一郎を筆頭に多くの元一橋家関係者が幹部につくことになった。

 頭取:渋沢成一郎、副頭取:天野八郎、幹事:本多敏三郎・伴門五郎・須永於菟之輔




 そして数日後、やはり以前一橋家に籍をおいていたこの男も彰義隊に加わった。

 寅之助である。


 東本願寺の屯所へやって来た寅之助は成一郎に告げた。

「成一郎さん。俺も参加させてもらいますよ」

「おお、吉田君か。しかし意外だな。君がそこまで上様のことを気遣っているとは思わなかった」

「まあ、上様のことはともかく、俺も元一橋家の人間ですからね。鳥羽伏見のいくさに出た農兵たちを募集したのは俺が一橋家の床几隊にいた時のことだし、江戸へ戻って来てからいろいろと幕臣たちの動きを見て回ったけど、やはり俺が戦う場所はこの彰義隊以外ありません」

「だが彰義隊が出来たといっても、別に戦をすると決まった訳ではないぞ。上様を苦境からお救い申し上げるために皆が集まったのだ。ところで、他の幕臣たちの様子はどうだった?」

「ご承知の通り、勝安房あわ(海舟)が幕軍の蜂起を抑えてますからね。江戸へ向かっている西軍(新政府軍)に対して組織立って抵抗する動きはありません。ただ一部の歩兵は脱走したようですし、すでに会津や庄内へ向かった連中もいます。それに新選組の近藤が甲府へ出陣するという話もあるようです」

「今、戦いを避けるのは当然だ。まずは上様のえんそそぎ、上様の一命をお救い申し上げる事が一番重要なのだ。それで上様も、好戦的な幕臣たちに対して『むやみに戦おうとする者は、予の身にやいばを当てるのも同じである』とお達しして暴挙を戒めておられる」


「だからその身に刃を当ててでも戦いてえんだよ」

 などと不敬なことを寅之助は言うつもりもないし、いくら慶喜が江戸の幕臣全体から不人気であるといっても「上様」にそこまで不敬なことを言う幕臣がいるはずがない。が、将兵を置き去りにして逃げ帰り、そのうえ何の抵抗もしようとしないこの「上様」に対し、心の奥底ではそんな風に考える幕臣が少しぐらいいても、おかしくはなかったろう。


「ところで、パリの篤太夫さんから何か便りはありましたか?」

「いや。今のところ特にこれといった便りは無い。なんせ往復で四、五ヶ月もかかる便りだからな。まだ向こうは鳥羽伏見のことも知らないはずだ。近々また向こうへ便りを送るつもりだが、返事が来るのは四、五ヶ月先のことだ。そのころ上様や江戸、それに我々は、果たしてどうなっていることやら……」

「こうして成一郎さんや尾高の新五郎さんと一緒にいると、昔、横浜焼き討ちを計画していた頃のことを思い出しますね。今から思えば、あれはまったく無謀な計画だったけど、あれに比べれば今回の西軍との戦のほうがまだ勝てる見込みが十分ある。ただ、篤太夫さんがここにいないのは実に残念だ」

「それは言うな。言ってもせん無いことだ。それこそ篤太夫の盟友である君が代わりとなって、あいつの分も働きたまえよ」

 そこで平九郎が話に割って入ってきた。

「いや、養父ちちの代わりとなって働くのは私の役目ですよ」

「彼は?」

 と、寅之助が成一郎に聞いた。

「新五郎さんの弟で、篤太夫がパリへ行く前に見立て養子にした平九郎だ」

「初めまして」

「いや、初めてではないですよ。私はあなたのことを存じております、吉田寅之助さん。昔、真田範之助さんたちと道場破りに来られた時、一度お会いしております」

 さすがに寅之助はその時のことを覚えていなかった。しかし、この容姿端麗な青年が「あの不器量な篤太夫さん」の養子なのかと思うと、少し滑稽な感じもした。二人の歳も十歳と離れておらず、親子というよりも兄弟といったところだろう。



 このあと成一郎は江戸城に登城して隊の結成を届け出た。そして三月十日、彰義隊は旧幕府公認の部隊となった。

 彰義隊は当初、基本的に幕臣がほとんどだったので旧幕府としても、これを江戸市中の治安管理に使おうとしたのである。

 なにしろこの当時、江戸市中の治安は乱れに乱れていた。


 再度、塚原の『明治元年』から以下に引用する。

「ただしこの際の江戸市中は商売もなく、交通もなく、闇夜の如くであったろうとおぼそうが、それがそうでない。依然、繁盛は繁盛の都会であったから、むしろおかしい。なるほど一時は騒ぎましたな。それは官軍が江戸に入ろうという二月の末から三月へかけての事で、今に市中は丸焼けになる、早く逃げろというので、私の知人の家でも大分逃げました。もちろんその逃げるのは足弱の家族だけで、当主はさすがに家にいた。(中略)知行地のある人は知行地へ、ない者は近い所で練馬近在、遠い所で相州の厚木、武州の川越、八王子、下総しもうさ行徳ぎょうとく、市川辺りでありました。ところがおかしいのは熊谷辺りへ逃げた者は中山道から来る官軍に追われて逃げ帰る。市川辺りへ逃げた者は脱走兵の戦争で死にそうな目にあったという(中略)私どもでは母も祖母も、黒焦げになっても自宅で死ぬといって市ヶ谷の家を出ませんでしたが、それも一つは貧乏からで(中略)つまり三月、四月、うるう四月、五月の頃までは、まず無政府といったようなもので、泥棒の豊年というべき年だから、質屋や両替屋など金銭を多く扱う店というのは、夜はたいてい商売を休んだようでした」


 先の大戦の終戦直後もそうであったろうが、政府が一夜にして無くなったのだから都会の治安はこのような有り様となった。

 特に夜は危ない。それで、彰義隊は江戸市中の夜回りをした。その際「彰」または「義」と朱文字で書かれた丸提灯をぶら下げて町を巡回した。治安の悪化に不安を抱いていた江戸市民は、この彰義隊の活動に感謝した。




 彰義隊が上野の山へ移るのはもう少しあとのことである。

 この頃はまだ慶喜が上野寛永寺の大慈院に謹慎中で、高橋伊勢守いせのかみ泥舟でいしゅう)が精鋭隊や遊撃隊を率いて慶喜の警護にあたっていた。

 高橋がここに登場するのは五年前の「清河八郎、浪士組」の話以来のことだが、その前に「上野寛永寺」のことを少々解説しておきたい。


 現在、上野寛永寺というと国立博物館の少し北西にある寺院のことを指すが、維新前は、国立博物館の地域は無論のこと、この上野の山全体が寛永寺の寺域だった。三代将軍家光の頃に、天台宗の天海てんかい僧正によって創建された寺である。

 京都の鬼門きもん東北うしとら。危険な方角のこと)には比叡山ひえいざん延暦寺があり、それと同じ思想で江戸城の鬼門に「東叡山とうえいざん寛永寺」として建てられた。以後、芝の増上寺と並んで徳川家の菩提寺ぼだいじとなり、歴代将軍の廟所びょうしょとなった。


 徳川家の菩提寺なのだから慶喜が謹慎の場として寛永寺を選ぶのは当然だが、慶喜がここを選んだ理由は他にもある。

 この寛永寺の門跡もんぜきが「輪王寺宮りんのうじのみや」なので、慶喜はここに謹慎しているのである。いやむしろ、徳川家の菩提寺であるという理由よりも、こちらのほうが慶喜にとっては重要だったであろう。


 輪王寺宮とは、寛永寺の門跡をつとめ、さらに天台座主ざす(天台宗の長)と徳川家の聖地日光の山主も兼ねている。これだけでも相当な権威の持ち主だが、輪王寺「宮」と付いていることからも分かるように、後水尾ごみずのお天皇の第三皇子である守澄しゅちょう法親王ほっしんのうが寛永寺に入って輪王寺宮を号して以降、皇族がこの門跡をずっと継承してきたのである。


 要するに、京都だけではなくて、江戸にも皇族、すなわち朝廷とつながりのある人物がいたのである。


 この当時の輪王寺宮は、一年前に就任したばかりの公現こうげん法親王で、それ以前は能久よしひさ親王と呼ばれていた人物である。が、ここでは略して通称の「輪王寺宮」で通すことにする。御年、二十二歳。ちなみにこの人物は後年、北白川宮きたしらかわのみやと呼ばれ明治二十八年の台湾出征の際に現地で病没することになるのだが、その数奇な運命は吉村昭氏の小説『彰義隊』の主人公として描かれているので、ここでは割愛する。


 朝敵とされた慶喜がこの皇族である輪王寺宮にすがったのは当然の事と言えよう。


 慶喜は輪王寺宮および宮の側近である覚王院かくおういん義観ぎかんに必死でお願いし、朝廷への赦免しゃめん嘆願たんがんのために宮みずから上洛してくれるよう再三要請した。

 輪王寺宮も義観も、当初は江戸を離れることに否定的だった。しかし慶喜から再三要請され、さらに旧幕府の要路からも再三要請があってとうとう上洛を引き受けることになり、二月二十一日、義観も含めた宮の一行は江戸を出発した。ただし、結局、宮の一行は京都までたどり着けず、駿府すんぷで新政府軍の東征大総督である有栖川宮ありすがわのみや熾仁たるひと親王と面会することになるのである。


 ちなみにこういった新政府側への赦免嘆願は輪王寺宮以外にも様々な経路でなされており、静寛院宮せいかんいんのみや和宮かずのみや)や天璋院(篤姫)なども使者に嘆願書を持たせ、東海道を西上させていた。


 そしてその極めつけとなるのが山岡鉄太郎である。

 義兄の高橋と同じく、山岡がここに登場するのも五年ぶりの事となる。


 山岡は慶喜に呼び出されて寛永寺の大慈院へ出頭した。

 謹慎の間に入るとかたわらに義兄の高橋が座っていた。高橋に促されて山岡は慶喜の御前へ進み出たが、慶喜の容貌はやつれ果てて見るに忍びない様子だった。

 慶喜は山岡に、駿府へ行って新政府軍に赦免嘆願してくるよう命じた。元々は高橋を使者として派遣する予定だったのだが、側近の高橋がいなくなると不安なので高橋が推薦した山岡を派遣することにしたのである。


 上様直々の命である。しかもこのやつれ果てた上様からの命である。山岡が意気に感じないわけがない。

 が、山岡はわざと慶喜に質問した。

「今日のような形勢で御恭順とは、一体どのようなお考えがあってのことでございましょうか?」

「予は朝廷にいささかも二心を抱かず、赤心をもって恭順謹慎しているが、いったん東征の朝命が下った以上、もはや予の命はあるまい。ああ、このように人々から憎まれ、ついに予の赤心が朝廷に届かぬとすれば、返す返すも嘆かわしいことだ」

 と慶喜は涙ながらに述べた。

 これに対して山岡がズケリと言った。

「何をつまらないことを仰せられますか。それでは真の御謹慎ではございますまい。いつわってそのように仰せか、それとも他に何かお考えがあってのことでございましょう」

 これを聞いて、脇で控えていた高橋が真っ青になった。

 慶喜はこれまで何度も周囲の人間をだまし、裏切ってきた。ゆえに人々から「二心殿」と呼ばれた。その二心殿から「二心を抱かず」と言われても山岡は、にわかに信用できなかった。

 慶喜は、この鋭い突っ込みにめげず、毅然として山岡に答えた。

「断じて二心はない。どんなことでも朝命には背かない決意である」

 こうして慶喜から念入りの決意を引き出した以上は、山岡も身命を賭して働く決意をした。

「真に誠心誠意の御謹慎とあらば、不肖ふしょう山岡鉄太郎、朝廷への嘆願を貫徹し、朝廷の御疑念を解いてみせましょう。拙者の目の黒いうちは決してご心配は無用でございます」


 このあと山岡は勝海舟のところへ行き、勝が書いた西郷宛ての書状を受け取った。さらに薩摩藩邸焼き討ちの際に捕虜となって勝が預かっていた薩摩藩士益満ますみつ休之助きゅうのすけを同行人として付けてもらった。益満は亡くなった清河の知友であり、ゆえに山岡の知友でもあった。

 三月六日、山岡と益満は江戸を出発し、東海道を西上した。この頃、新政府軍の先鋒隊は江戸へ近づいてきており、山岡たちが川崎を過ぎる頃にはその先鋒隊と行き会ったのだが、山岡は

「朝敵、徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る!」

 と大声で叫んで、新政府軍の間を通り抜けたという。


 そして三月九日、山岡は駿府で西郷と面談し、西郷から「旧幕府の降伏条件」を提示された。

 その内容は慶喜の備前藩へのお預け、さらに江戸城の明け渡しや武器・軍艦の引き渡しといった七つの条件が示されたものだった。

 これに対し山岡は、慶喜の備前藩預けを水戸藩預けとするよう反論し、のち実際、慶喜は水戸藩預けとなる。ただし山岡にそれ以上の権限はなく、この条件を江戸へ持ち帰ったのち、有名な「西郷・勝会談」によって決着をつけることになるのである。

 とはいえ、新政府側から具体的な降伏条件が示されたのはこの時が初めてで、山岡の談判はまずまず上首尾だったと言っていい。


 その一方、先に出発していた輪王寺宮の一行は三月七日と十二日に駿府で大総督の有栖川宮と面会したものの、江戸攻め中止と慶喜赦免の嘆願は拒絶され、談判は不首尾に終わった。

 これにより、輪王寺宮に随行していた義観が憤激し、以後、義観は新政府への敵対心を強め、これがのちの上野戦争(彰義隊戦争)の要因となってしまうのである。




 さて、新政府軍の江戸総攻撃の予定日は三月十五日である。

 新政府軍は東海道、東山道とうさんどう(中山道)、北陸道の三ルートで江戸へ向かっていた。

 東海道軍の様子は上記で見た通り、この段階でかなり江戸へ近づいて来ていた。ただし北陸道軍は遠回りなため江戸総攻撃には間に合わず、三月十五日の段階でまだ越後の高田にいた。

 そして中山道を進んできた東山道軍は信州の諏訪で板垣退助が率いる一隊が甲州路へ向かい、三月六日に甲州勝沼(柏尾)で近藤勇(大久保つよしと変名)が率いる甲陽こうよう鎮撫隊ちんぶたいと戦った。また東山道軍の本隊は三月九日に下野国しもつけのくに梁田やなだ(現在の栃木県足利市)へ部隊を派遣して古屋佐久左衛門さくざえもんが率いる旧幕府軍と戦った。どちらも新政府軍の圧勝に終わった。

 東山道軍は三月八日には熊谷に入っており、先に塚原が述べた「熊谷辺りへ逃げた者は中山道から来る官軍に追われて江戸へ逃げ帰った」というのは、この頃のことである。

 その後、東山道軍は十三日に板橋へ入り、東海道軍はすでに十二日に品川へ入っていた。これで江戸総攻撃の準備が整ったわけである。


 そして有名な「西郷・勝会談」は三月十三日と十四日、高輪と田町の薩摩藩邸で開かれた。

 周知の通り、この会談によって「三月十五日の江戸総攻撃」は回避された。


 この件については筆者の前作『伊藤とサトウ』の一番最後に(本編の一番最後に)詳しく書いたので、ここでそれをくり返すことはしない。

 要約して言えば、組織だった抵抗を見せない江戸の町を新政府軍が焼き払う意味などなく、また三月十五日に必ず攻めなければいけないという必然性もない。そして「新政府軍の攻撃を止めたのはほとんどパークス一人のおかげ」などといったような極端な話でもなければ、これが江戸開城の最終決着でもなく、単に「三月十五日の江戸総攻撃」が回避されただけの話で、むしろ江戸を巡る旧幕府と新政府の交渉はこれから本格的に始まるのである。

 ちなみに慶喜の死罪が免じられ、水戸での謹慎が命じられるのは四月四日のことである。


 江戸およびその周辺で旧幕臣たちが反乱を開始するのは、これからなのである。


 そして前回書いたように、この江戸総攻撃の予定日だった三月十五日、旧幕府の忠臣、川路聖謨が麹町の自宅においてピストルで喉を撃って自決した。

 幕府の死と共に、殉死したのである。

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