第35話 パリの渋沢篤太夫、遥かなる祖国を想う

 寅之助は「神戸事件」で紛糾している神戸を発って江戸へ向かった。


 愛弟子の松吉は鳥羽で薩摩軍と戦って戦死し、親友の健次郎は薩摩藩によって謀殺された。

 その一方で、寅之助の知友である薩摩藩の寺島は、寅之助を神戸のイギリス公使館に留め置いて「賊軍」に加わるのを阻止しようとした。

 が、寅之助はそれを振り切って神戸を去った。


 薩長新政府軍による江戸への進軍は、幸いにもまだ開始されていなかった。

 寅之助は神戸から東へ向かい、間道を通って東海道へ出た。

 いきなり始まった「幕府の倒壊と新政府の樹立」という過渡期の状況で、道路の検問は混乱の極みにあり、寅之助はそういった混乱の最中にある町々を通ってただひたすら江戸を目指した。


 寅之助が歩きながら考えていたことは、ただ一つだった。

(松吉と健次郎を殺した奴らに一矢も報わずに死んだんじゃ、地下であいつらに会わす顔がない)


 とにかく江戸へ帰れば、薩長に抵抗していくさを起こそうとしている奴が必ずいるはずだ。俺はそれに参加して薩長と戦わねばならぬ。

 幕府や上様(慶喜)のために戦うんじゃない。松吉と健次郎の敵を討つために戦うのだ。


 そのことだけを考えて、寅之助はひたすら江戸へ向かって歩きつづけた。





 鳥羽伏見の戦いは江戸時代に終止符を打った戦いだった、と言っていい。

 ゆえに、当時の日本人でこの戦いの影響を受けなかった人間は一人もいない。

 それはヨーロッパにいた数少ない日本人にとっても、等しく言えることだった。


 この頃、渋沢篤太夫を含む徳川昭武あきたけ一行はヨーロッパでどういう状況にあったのか?

 それを確認するために、ここでひとまず物語の舞台をパリへ移す。そしてさらに、時計の針をいったん前年の秋まで戻す。


 昭武使節の実務的な代表である向山むこうやまがフランスとの関係をこじらせ、そのため日本から急きょ親仏派の栗本こんがパリに派遣された、という話までは以前、第三十話で書いた。

 栗本がパリへやって来たことによって向山は日本へ帰国することになるのだが、まだしばらくは栗本と一緒にヨーロッパで仕事を続けることになった。


 栗本が南仏のマルセイユに到着したのは八月十一日(西暦では9月8日)のことである。

 しかし昭武一行はその五日前に、すでにパリを出発してスイスへ向かっていた。これには篤太夫も随行していた。以後、昭武はスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを歴訪することになる。そこで栗本はスイスのベルンで昭武一行と合流した。


 この昭武の各国歴訪についてはパリを発つ前、昭武の傳役ふやく(後見役)の山高やまたかが昭武に随行する人員を減らそうとした。特に水戸藩士のお供、これが七名全員ついてくると困るのでやめさせようとした。そして山高は水戸藩士に次のように伝えた。

「外国の風習では万事簡便を旨とする。しかも民部様はご幼年であるのに、大髷おおまげを結んで長刀を差した異形の侍が大勢付き従うのは体裁が悪い。それゆえあなたたちはパリにとどまってフランス語の勉強でもなされよ」

 これに対し水戸藩士は

「これは奇怪千万である。我々は夷狄いてきの言葉を学んだり夷狄の真似事をするために仏国へ来たわけではない。民部様が行かれるところならどこまでもお供をするのが我々の役目である。左様な話では、民部様を一歩たりとも外へお出しすることはできぬ」

 と反論して大もめとなった。


 そこで山高が篤太夫に相談したところ、篤太夫が水戸藩士たちと談判して「お供は三人の交代制にして、国別で割り当てる」というかたちで調停した、という武勇伝が残っている。余談だが、篤太夫が談判した水戸藩士の中に“井坂泉太郎”という人物がいる。昔の大河ドラマ『獅子の時代』では村井国夫が演じた“伊河泉太郎”という水戸藩士が出ていたが、間違いなくそのモデルとなった人物であろう。


 昭武はスイスで大統領に謁見した。また時計工場や武器貯蔵庫を見学し、観兵式にも参列した。

 そして八月後半には十日ほどオランダに滞在した。なにしろこの当時のオランダは日本の友好国である。ここでも国王ウィレム三世と謁見し、そのあとこの使節の通訳を務めてきたシーボルトがライデンにある父の別荘に昭武たちを案内して「大シーボルト」が日本で集めたシーボルト・コレクションを披露したりした。


 このあと一行はベルギーに入って、ここでも十数日ほど滞在した。そしてもちろん国王レオポルド二世とも謁見したのだが、その際、昭武は国王から

「鉄は非常に重要な産物で、鉄をたくさん作る国は栄えて強国となる。我が国は鉄をたくさん作っているので、よろしければ貴国も我が国の鉄をお使いなさい」

 と言われたという。

 これを聞いて篤太夫は

「我々は武士が金のことを言うのは卑しいことと教えられていたので皇帝自らが商売の話をされるというのは如何なものか?」

 と奇異に感じた、という有名なエピソードがある。

 なぜこのエピソードが有名なのかと言うと、後年、渋沢栄一が昭和天皇との御陪食の際にこのレオポルド二世の話をして「このように皇帝が商売の話をするのが良いのかどうか、いまだによく分かりません」と申し上げたところ「御上おかみはどちらともおっしゃらず、御笑い遊ばしていらせられたよ」と語った、というエピソードがあり、それと話がつながっているからである。


 そして九月下旬から十月初旬にかけてはイタリアへ、さらに十一月にはイギリスを訪問した。もちろんイタリア国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ二世、そしてイギリスのヴィクトリア女王とも謁見した。

 この二ヶ国を訪問した際の具体的な旅行内容はここでは割愛するとして、このイギリス訪問では向山がイギリスのスタンレー外相と重要な折衝をおこなった。

 それは将軍の称号問題について、である。


 この年の三月に大坂城で、将軍慶喜が英仏蘭米の四ヶ国代表と謁見式をおこなったことがあった。そのことは第三十一話で書いた。そしてその時は触れなかったが、この謁見式の場面でイギリスのパークス公使が将軍慶喜に対して「Highness<ハイネス>(殿下でんか)」と述べ、天皇のことを「Majesty<マジェスティ>(陛下へいか)」と述べて、このことが問題となったのである。


 最上級の称号は「Majesty<マジェスティ>(陛下)」である。

 イギリスのヴィクトリア女王にもこれが用いられる。「Highness<ハイネス>(殿下)」は、それに次ぐ地位の場合に用いられる称号なのである。

 要するにハイネスはマジェスティよりも地位が低く、この場合、将軍は天皇よりも地位が低い、とみなされた訳である。それで幕府がイギリスに抗議したのだ。


 一応、従来の形式であれば将軍がマジェスティだった。

 条約にもそのように書いてあるし、仏蘭米はこの謁見式でも従来通り将軍にマジェスティを用いた。

 しかしイギリスは薩長や朝廷との関係を重視しており、しかも「天皇のほうが将軍より地位が高いことは間違いない」と、仏蘭米と違って日本の内情を詳しく知っていた。それでイギリスは、いち早く天皇に対してマジェスティを用いることにしたのである。


 実際これまで見てきた通り、この幕末期、特に井伊直弼が死んで以降は、ずっと天皇のほうが将軍よりも優位にあった。将軍が天皇に条約勅許を出してもらっていたという事実一つを取ってみても、どちらが上位にあるか一目瞭然である。

 そのため向山としてもスタンレー外相と談判する際には、とにかく「条約では将軍をマジェスティと呼ぶと決まっているのだから」という理由を前面に押し立ててイギリス側に抗議するしかなかった。一応この抗議を受けてスタンレー外相は「この問題については継続して検討する」と向山に約束した。


 が、それからしばらくして日本から「大政奉還」のしらせが届き、この問題は必然的に消滅した。

 将軍が天皇に政権を返上し、名実ともに天皇がマジェスティとなったからである。

 そして偶然のタイミングではあるが、この大政奉還のしらせが届くのと前後して、向山がヨーロッパを去って日本へ帰国した。




 これまで何度か指摘したように、日欧間を行き来するには片道約二ヶ月の航海を要するので日欧間で手紙をやり取りすると二ヶ月のタイムラグが生じる。

 ただしこの頃になると世界的な電信インフラが少しずつ整いつつあり、新聞社によってはいち早く遠方の情報を入手して発表することもあった。


 十月十四日の大政奉還からおよそ二ヶ月後の十二月十七日(西暦1868年1月11日)『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』紙が

「上海からの情報によると、日本では革命が起きて大君(将軍慶喜)が辞職したようだ」

 との第一報をヨーロッパで報じた。

 そしてそれから半月後の慶応四年一月二日、日本では鳥羽伏見の戦いが始まる前日にあたるが、江戸の幕府からパリの昭武たちへ大政奉還をしらせる正式な書状が届いた。


 最初、新聞などで大政奉還が報じられていた際には半信半疑だった彼らも、これで信じざるを得なくなった。

 ちなみに篤太夫は後年

「周りの幕臣たちは大政奉還を信じなかったが、自分一人は以前から幕府の将来を危ぶんでいたので、すぐにそれが真実だと分かり、彼らと論争した」

 と述べている。

 ただし彼らをスパイしていたシーボルトの報告によると、彼らはそれほど大政奉還を悲観的に受け止めておらず

「これを機会に上様(慶喜)は本気で権力奪取に乗り出すだろう。ひょっとすると上様が武力クーデターを起こすかもしれない。勝負はこれからだ」

 といった感じで、強気に考えていた者が多かったようである。


 ところが二月十三日になると、前年の十二月九日に王政復古のクーデターが行われて京都に新政権が発足した、という書状が幕府から届いた。

 さらに二月二十七日、フランスの新聞に「大君慶喜が大坂での戦いに敗れ、江戸へ向かった」という第一報が載った。

 そして三月一日、同じくフランスの新聞に「幕府軍が鳥羽伏見で敗れ、大君は江戸城に逃げ戻った」という続報が載り、その後も次々と幕府崩壊のしらせが届くようになった。


 さすがにこれは、パリの篤太夫たちにとって青天の霹靂へきれきであり、驚天動地の出来事だった。


 大坂城にいた寅之助ですら「大坂城があり、巨大な兵力と優秀な海軍を持っている幕府が、そう簡単に負けるわけがない」と思っていたのだから、パリにいた篤太夫たちがこの敗報に接して「そんなことが本当にあり得るのか?」と仰天したのも無理はなかろう。慶喜が将兵をだまして自分だけ大坂城から遁走とんそうする、などとは想像だにできなかったであろう。ちなみにシーボルトはこの頃、幕府の末路を見切ったかのようにそそくさと使節から去っていった。




 昭武は各国歴訪を終えたあと、パリで留学生活に入っていた。

 しかしこの幕府崩壊のしらせが届いたことによって「民部様(昭武)は帰国なさるべきか?パリに残留なさるべきか?」が問題となった。

 ただし、これはすぐに「残留」ということで結論が出た。

 元より三月中旬に幕府から届いた書状にも「そのまま滞在を続けるように」との指示があったし、今、混乱の最中にある日本へ急いで帰る理由もなく、留学を続けて何かしらの技能を身に付けたほうが良い。帰るのはそれからでも遅くない、という結論に落ち着いたのである。


 問題は留学資金だった。そしてこれは篤太夫が受け持つべき問題だった。


 実は篤太夫はこれまでの間、使節の費用をなるべく切りつめて、幕府から毎月送金されていた資金の中から少しづつ積み立てて二万両の予備金を作っていたのだった。

 ちなみに篤太夫はその予備金でフランスの国債と鉄道の公債を買っていた。フランス人に相談したところ「金が余っているのなら公債を買っておくに限る。年四分か五分の利息はつく。売りたい時はいつでも売れる」と教えてもらって、そのようにしたのだった。その結果、帰国する頃には、国債はプラマイゼロだったが、鉄道の公債は相場が上がって五、六百両の儲けになったという。後年渋沢は「なるほど公債というものは経済上便利なものである、との感想を強くしました」と述べている。


 が、ここで一つだけ余談を付け加えると、この五年後、明治の世になってから岩倉使節団が訪欧した際「利回りの高い銀行があるので余ってる金は全てそこに預けたほうが良い」と南貞助ていすけ(高杉晋作の従弟いとこ)から勧められて、多くの使節団員が所持していた大金をその銀行、すなわちアメリカン・ジョイント・ナショナル・エージェンシーというところに預けた。が、すぐにその銀行は破綻した。破綻寸前だった銀行が日本人をカモにしたようなものだった。使節団の被害総額は十二万円(両)にものぼったという。「条約は 結びそこない 金は捨て 世間へ対し(大使)何と岩倉」と、これは当時世間で流行った狂歌とも、実際に金を取られた木戸孝允自身の作とも言われる。

 なんにせよ、篤太夫に公債を勧めたフランス人が良心的な人物で何よりだった、と言うべきだろう。


 昭武の残留が決まった一方で、急ぎ帰国する人々の面子も決まった。

 実務者のトップとして向山の後任となっていた栗本も帰国することが決まった。それに合わせて四月に、先発組として十名ほど栗本と一緒に帰国した。

 とにかく昭武の留学を継続させることが一番の目的なので、費用の節約のためにも昭武の世話をする若干名を除いてほとんどを帰国させることにしたのである。


 ただし篤太夫は、実務や資金管理の面で昭武にとって不可欠な人材だったので引き続きパリに残ることになった。

 篤太夫の考えでは

(ここまで人員を減らせば二年はもつ。さらに最低限まで人員を減らして経費も切りつめれば四、五年は民部様の留学は維持できるだろう)

 と見込んでいた。


 この当時、フランス、イギリス、オランダ、ロシアに幕府の留学生が数名ずついた。それらの留学生は、昭武と違って帰国させることになった。

 以前パリ万博の場面で少しだけ紹介したが、イギリス留学生の中に川路太郎という青年がいた。有名な幕臣、川路聖謨としあきらの孫である。


 その川路聖謨は、孫の太郎が日本へ帰ってくる前に、ピストルで喉を撃って自決した。

 新政府軍による江戸総攻撃の予定日である三月十五日のことで、江戸麹町こうじまち表六番町(現在の千代田区五番町。市ヶ谷駅の近く)の自宅での出来事だった。享年六十八。


 滅びゆく幕府と共に殉死したのである。

 聖謨が最後に書き残した書状によると

「武士は武士らしくあれば、其の余はいらぬなり」

「我に元来遺言なし。遺言と申せば、忠の一字なり」

 と述べており、貧しい下級官吏の家に生まれながら努力と才能によって勘定奉行まで出世した聖謨としては、徳川家に対する報恩の気持ちが強く、幕府と死を共にしたのである。

 聖謨は二年前に卒中で倒れた際、左半身が不自由となり家人の世話を受けるようになっていた。確かにそれも自決の原因の一つではあったろうが(江戸が戦場となった際の足手まといになるのを避けるため、ということでもあったろうが)武士の作法通り、事前に陰腹を切ってから自決した。

 聖謨はロンドンの太郎へ日記風の手紙を度々送っており、その内容は『東洋金鴻』(平凡社・東洋文庫、校注・川田貞夫)にまとめられている。そのうち、自決の八日前に書かれた三月七日の分が、聖謨が書いた一番最後の日記にあたる。その中で彼は次のように書いている。

「年若のもの、いか様にも生長らえて、日本・徳川の御為に力をつくすべし。太郎帰りまで覚束おぼつかなし」

 このあと、辞世と思われる和歌と漢詩が書かれているが、紙幅の関係上、それらは割愛する。



 話をヨーロッパの太郎たちへと戻す。

 留学生の取締役についていた川路太郎は、この時ひどく動揺していた。

 留学生たちが帰国するための船賃がなかったのだ。そして幕府からの送金も途絶えており、このままでは自分を含めた十四名のイギリス留学生が異国で餓死するかもしれない、と動揺していたのである。

 そこでイギリス政府に陳情して船賃を借り、後日横浜に着き次第、日本政府から、すなわち新政府から返済するということで帰国の船を手配してもらった。

 ただしこの手配には、太郎たちイギリス留学生と折り合いの悪かったイギリス人の世話人ロイドという人物が関わっており、留学生の話ではロイドはたびたび金をピンハネして留学生を食いものにしていたようで、この帰国便も喜望峰回りの安上がりなものだった。ただしロイドが上前をはねて安い船にしたのかどうかは定かではない。


 ところがこの話を聞いて篤太夫が怒った。

 そしてロンドンに乗り込んでロイドと談判し、ロイドが手配した船便を一方的にキャンセルした。


 篤太夫が見たところ、やはりロイドのやり方に不信感を抱いたようである。喜望峰回りの安上がりな船で帰すとは何事か、と。また、反幕府的だったイギリスに助けてもらうのもしゃくだったし、何よりも「新政府に返済してもらう」すなわち「幕府を倒した新政府の世話になる」というのが許せなかったのだ。

 そして結局、太郎たちの船賃は昭武の二万両の予備金の中から出されることになったのである。


 渋沢栄一の孫の市河晴子が書いた『市河晴子筆記』によると、このとき篤太夫は次のような形で彼らを帰国させたようである。以下、渋沢の談話を意訳して記す。

「イギリスではロイドって人が世話を焼いて、船賃先払いで喜望峰回りの荷船に乗せて帰そうって事になった。それで横浜に着いても金を払わねば渡さないというので、あまりに人間を荷物扱いにした話で、捨てておいては御国の恥だと思ってね。民部様のお金を三、四千円も割いて、皆で一万円近くは独断で使いました。そうして皆フランスへ集めて、マルセイユから出発させようと船の出発を待つ間、民部様の旅宿の広間を片づけさせて泊らせたんですが、彼らが『フロアに寝かせるなんて豚あつかいだ』ってブツブツ言っているのを聞いたからムッとしてね、刀をさげて怒鳴り込んでいったのですよ。そう、林ただすさんが年長で、菊池大麓だいろくさんが十四、五であったか(中略)彼らをつかまえて『一体あなた方は今の母国での大事を何だと思っておるか。留学資金が途絶え、喜望峰回りで帰されるのを不憫ふびんと思って取り計らってやったのだ。あなた方を甘やかすためにやったと自惚うぬぼれてなさるなら大きな間違いだ。荷物扱いで送り帰されたとあっては御国の恥だと思ったからこうしたのだ。(中略)ここが嫌ならすぐさま出て行ってもらいましょう。母国大乱のこの時、よしんば柔らかいベッドで寝られたとしても心には臥薪がしん嘗胆しょうたんがあるべきだ。わずかの間ヨーロッパにいたからといって、もうベッドがないと寝られないとは、それでも日本人か』ってね、心底腹が立ったからガミガミとたたみかけるように叱りとばしたが、道理は道理だから皆一言もなく謝ったがね。林董さんが後々もこの話をしては『激しい小言だった』って笑ってましたよ。なに、ぐずぐず言ったら張り倒してやろうと思っていたのだが、まあ謝ったから事が大きくならなかったよ」


 ただし、この渋沢による一方的な船便のキャンセルに、ロイドは激怒し、またイギリス政府も困惑したようである。太郎たちの陳情に応えてわざわざ世話を焼いてやったにもかかわらず、逆に船便のキャンセル料という損害までかぶらされていたのだから無理もない。そしてこれらの損害賠償は後日、新政府に請求されることになったのである。まあ篤太夫からすれば「いい気味だ」と思ったかもしれないが。



 さらに余談として、ここに出ている林ただす(この当時の名前は林董三郎とうざぶろう)は松本良順りょうじゅんの実弟で、のちに外務大臣となって日英同盟を調印する男だが、彼はこの留学の打ち切りを非常に悔しく思っていた。そこで

「アメリカへ行けば、ジョン万次郎やジョセフ・ヒコのような漂流者でさえ面倒をみてくれたのだから、きっと何とかなるだろう」

 と考え、何とかアメリカ行きの船賃を自前で調達しようとした。そして持っていた刀の大小を売れば五、六ポンド(約二十両)にはなるだろうと見込んで、日本の商品を扱っている店へ行って掛け合ってみた。

 その刀は先祖伝来の名刀で金具や彫刻が高級なので、董三郎としては高値で売れる自信があったのだが、店員は五シリング(約一両)なら買うと答えた。董三郎はあまりの安さに驚き、その刀の良さを詳しく説明し、せめて三ポンド(約十両)にはならないか?とお願いしたところ、その店員は

「我々イギリス人は日本刀が珍しいから買うのであって、品の良し悪しを見て買うわけではない」

 と答えて、買い取りを断った。

 董三郎は泣きたいぐらい絶望し、それで皆と一緒に帰国する決心をしたという。

 しかしこれほど帰国を嫌がっていた董三郎が帰国後、榎本艦隊に身を投じて箱館にたてこもるというのだから不思議なものである(一応、董三郎は榎本の親戚ではあるのだが)。


 彼ら留学生はうるう四月の末頃、パリを出発して帰国の途についた。



 しかしながら結局このあと、昭武も留学を打ち切って帰国することになるのである。


 日本で新しく樹立した新政府が、パリの昭武をそのまま放っておくはずがなかった。

 これからしばらく後、その新政府から正式に帰国命令が届くのである。

 さらに追い打ちをかけるように、昭武の兄(そして慶喜の兄でもある)水戸藩主慶篤よしあつが四月六日に病死したとの報告が届く。そのため昭武は清水家から水戸家へと戻り、水戸徳川家を継ぐことになるのである。水戸藩主となるのだから当然、日本へ帰らねばならない。


 そういった訳で結局昭武は帰国することになり、また同時に、篤太夫も一緒に帰国することになるのである。

 ただしパリを出発するのはまだまだ先のことで、秋頃のことになる。




 この頃、篤太夫は苦悶していた。

 確かに昭武の留学が打ち切られることは残念である。しかし今、篤太夫が苦悶しているのはそのことではない。


 日本のことである。

 遥かかなたにいる日本の人々のことである。

 それは主君慶喜のことであり、また渋沢・尾高一族のことであり、さらには寅之助たち幕臣のことである。彼らのことが心配で苦悶しているのである。


 なにしろこのフランスは日本から遠すぎる。

 片道二ヶ月、相手に返信を届けるには(書簡を往復させるには)四ヶ月もかかる場所なのである。何をするにも歯がゆい事この上ない。


 渋沢成一郎は三月八日に篤太夫宛の手紙を出している。これが篤太夫の手元に届いたのは二ヶ月後のことである。

「鳥羽伏見の戦いに敗れ、上様(慶喜)は朝敵の汚名を着せられたまま上野に蟄居させられている。徳川家の命運もここ数日に決まるだろう。まことに遺憾で血涙を禁じ得ない」


 これと同じ日付で渋沢平九郎へいくろうも篤太夫宛の手紙を出している。

 この平九郎は以前の尾高平九郎のことで、篤太夫が日本を発つ直前に、万一何かあった時のための「見立て養子」として篤太夫の養子になっていた。

「この十日の内に徳川家は滅亡するかもしれず、この手紙が届く頃に日本がどうなっているか想像もできません。ただただ血涙が流れるのみで概略を説明することもできません。実に現在の関八州は闇世と申すべき状況です。薩長の軍が上野に攻めて来れば、上様と共に滅亡する覚悟です」


 こんな手紙を、しかも二ヶ月遅れで見せられて、篤太夫はパリで苦悶せずにはいられなかった。

(上様はご無事でおられるのだろうか?成一郎や平九郎、それに寅之助や幕臣の皆も無事なのだろうか?このような地の果てにいては、皆の無事を祈ることしか出来ぬ……)

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