第5話 心の中の小さな塊 〜 エピローグ

 N氏は僕を同情するように見つめていた。ここは何度目かに訪れる場末のバー。四十代の俳優のように大仰おおぎょうな仕草のバーテンと身体のラインを隠し切れないドレス姿の厚化粧のママ。


 カウンターの上にある砂時計は全ての砂を下に落とすと、自動的に逆さまになる仕掛けになっていて、また一から砂をさらさらと落とし始める。

 カウンターの向こうには、小さな液晶テレビに野球中継が映し出されている。


「当時警察に訴えてなくたって何とかなるかもですよ。盗まれた物の事だけど。国際弁護士の資格ある知り合いがいるので紹介しましょうか?」 


「外国で起きた事ですからね。 いや、いいんです、もう。そんな事で時間を無駄にしたくないっていうか……」と僕。


「そうですか……」

N氏は煙草を取り出し、くゆらせ始めた。


 そういうわけか、とこんな場末のバーを選んだ理由が分かった。馴染みになっているこの店では吸えるからか、と。


 もっと別な人の証言を探す事も出来たが、同じ事の繰り返しで徒労に終わりそうだった。結果としては、僕と彼女の間には「恋愛関係全くなし」とほぼ確定された。もしあったとしても小六と中一の頃におままごとみたいに付き合ってた可能性がある程度。



「あ、そう言えば、一つ面白いと言っちゃ失礼かな、ものを見つけたんです。せめてもの気休めになるかもしれません」


「何ですか?」


「例のニューヨークのアパートの大家のSNSです」


「……SNS?」


 N氏の見せたプロフィール画面には、僕の所にあるニューヨーク滞在中の写真の中の太った女性が写っていた。


「ね、面白いでしょう? その大家のつぶやきの中で彼女やあなたも――名前はもちろん伏せてますがね――出て来てるんですよ」



 僕は胸の鼓動が激しく鳴るのを感じた。記憶がほとんど無い今、誰かが自分の何かしらについて書き込んでいるという事実。その好奇心には何物にも変え難いものがあった。

 それは、記憶を失くして何度か味わった感覚。自分の愛読書だったという本を前に、何も思い出せない自分。ずっと前には胸をときめかせたであろう表紙に心当たりはないけど、その表紙をめくるときっとそこにいまだに自分の何かを変え、涙腺を緩めるまばゆい光があるんじゃないかという期待。



「どんな風に?」


「更新も不定期なんですけどね。月に何度かアパートの住人の事、つぶやいてます。特にこれ……。ここは彼女が流産した日を調べようとして見つけたんです。あなたと彼女が屋上でダンスしてたらしいです。ワルツを」


「見せて下さい」

 

「(英語)あの娘はまた古き良き音楽をかけてる。テネシーワルツ。あの娘はテネシーワルツとセブンイヤーズを交互にかける」


「(英語)今日は二階の日本人が妻とその友人が勝手に食べたピザの事謝りに来た。妻でないのは明らか。あの娘は魔女」


「大家のとこに届いたピザ食べるなんて、全くどーなってんだ。日本人、いやアジア人の恥晒はじさらしだよな」

 N氏はそう言いながら、目は液晶テレビを追いかけている。折しも日本シリーズの試合は大詰め。ここ二、三年ベンチを温めてばかりだった守りに定評の職人気質の選手がピンチヒッターを告げられ、場内がどよめいていた。


 この場末のバーを選んだもう一つの理由が分かった。おそらくこの野球中継だろう。


 そして僕も突如として主役に抜擢ばってきされた。




「(英語)真夜中というのに、二階の日本人とあの娘がテネシーワルツをかけて、屋上で踊ってる。お腹のベビー失くしたばかりだから今夜は大目に見よう。あの娘の眼には涙」


 その時の情景はなぜか脳裏にあった。ただ、夢の一部かと今の今まで思っていた。一緒に星空の下で踊っている僕達。僕の肩に頬を乗せている彼女。公園の池の氷は早くから凍っていたっけ。寒さの厳しい冬だった。空から舞い落ちる雪は、周囲の高い建物のネオンサインでピンク、レモンイエロー、オレンジ色と変化していた。まるで子ども時代に写真を撮った林の前の道の紅葉の葉みたいに。シチューを作って待っている人はいないけど。

 曲はテネシーワルツからセブンイヤーズへ。彼女の眼は涙でまるでダイヤモンドみたいに輝いていたっけ。

「曲の中の少女、七年……生きてるのね」



"生きてるのね"

――そうだ。そう言ったんだ――

「私のベビーは一日も生きられなかったの。あの子またいつか……」


「きっとね」と僕。



 テネシーワルツが出てくる三日前の記事を探すと

「(英語)あの娘が病院から泣いて戻ってきた。べビーは駄目だったみたい」とある。

この日、彼女の基盤を失くし、彼女をエネルギッシュに変えた光が消えたんだ。




「どうしたんですか? 他人なんですよ。同情なんかやめといた方がいいですよ。しかも相手は窃盗の加害者なんだし」


「他人じゃないし」


「いや、公式にはこういうの、他人って呼ぶんです」


 バーのママが会話に割り込んできた。カクテルグラスを持ち上げる腕は昔は細かったのだろうか。


「何? またその話題? 夕焼けの中で出会った彼女の」


「もう終わりですけどね、この話題も」とN氏。


「でもね」とママ。「夕焼けの中で出逢って、夜中にワルツを踊ったんなら、他人じゃないよ。公式にはどう呼ぼうが、恋か愛か、何らかには引っ掛かっているに決まってる」


「そうかな?」と僕はいた。


「そうゆうもんだよ」



 液晶テレビでは代打のベテラン選手の打ったタイムリーに話題が。このヒットも、もしかしたらしばらくしたら熱烈なファン以外からは忘れられるのだろうか。



 カウンターの砂時計が起き上がり、また砂をさらさらと落とし始める。




 僕はママの年の功に従う事にした。



だから……



つまり……



 僕の心の中には小さな塊がある。それが誰かと繋がっていて、公式に何かとは呼べないかもしれないけど、恋か愛か、何らかには引っ掛かっているようだ。それが若干これまでの人生を生きづらくしてきた、いやこれからを生きやすくしてくれる。




 ちょっと前まで空っぽだった部屋に一枚の絵が架かっている。星空の下、深い藍色の闇を滑るようにワルツを踊っている二人の。雪がまるで明るい色の木の葉のように二人を包んでいる、作者不詳の、でも決して手放さないと決めた一枚の絵。

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愛と呼べない夜を超えたい/ 東から来た魔女 秋色 @autumn-hue

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