第6話

 頭上に夜空が広がった。

 満月が青白い光を地上に投げかけ、遠くから吹いてくる風が草の香りを運んでくる。歩いた距離から考えてみても、まだ学園の中にいるはずだが校舎のような建物はどこにもない。あるものといえば、どこまでも広がる草むらと真ん中に立つ一本の大きな桜の木だけだ。

「これが……、霊域?」

 現実にもありそうなあっさりとした景色にやや拍子抜けする。

「油断しないで。何が潜んでいるかわかりません……」

「お、おう……」

 頷き、感覚を澄ませる。

 草原の真ん中に巨大な桜の木が一本だけ。視たところ、邪の姿はどこにもなく、邪念の影すらない。

 だが、やけに静かで誰かがいるような気配がする。

 どちらともなく桜に向かって歩き出した。

 近づくほどに幹は太く、樹齢数百年は経ているだろうことが窺えた。

「なあ、先輩……」

 違和感に、少し前を歩く背に声をかけた。

「今って、あんなに桜咲いてたっけか……?」

「……僕も、ちょうど同じことを思っていたところです……」

 槻宮学園の桜はまだ三分咲き程度だ。

 だが、目の前の桜は満開の花を咲かせている。

 花も見慣れたものとは異なっていて、花弁の数が多く花の色も白、桃とまちまちで一色ではない。

 辺りは静まり返り、さわさわと風が花を揺らす音だけが草原を滑っていく。

 木の下に立ち、二人は無言で桜を見上げた。

 手が届く高さにある枝も見事な花をつけている。

「なんか……、満開すぎて怖いよな……。バラみてーに花びらいっぱいあるし……」

「……八重桜の類だと思いますけど……、霊力を帯びてるなあ……」

 花びらに触れ、望は呟いた。

 黒い布が覆っていない指先に触れた白が仄かに色づいた。

「色変わったよな、今……」

「……僕の霊気に反応してるんですよ……。これ、もしかして……」

 琥珀の瞳が大きな桜の木を映した。

霊染ちぞめ桜……?」

「血染め!? 根元の死体から血ィ吸ってるとかか!?」

 思わず後ろに跳び、桜の根元を凝視する。

「殺人事件ってヤツか!? 誠次おじさん……、光咲の親父さんに電話したほうがいいよな!?」

 光咲の父は刑事だ。

 通報すれば、何とかしてくれるだろう。

「あ、でもここって、一般人は来れねェじゃねェか……! 霊域で殺人する奴なんて、普通に人間じゃねェし……! オレ達で犯人捕まえなきゃいけねェとかか!?」

「そういう場合は、ちゃんと手順があるけど……。今回はそっち系じゃありませんよ。そんなに離れなくても大丈夫ですから、戻ってきてください」

 望は笑いながら手招きをした。

「血じゃなくて霊紋のほうのですよ。邪気や妖気を吸収して成長して、霊力に換えて放出する特殊な桜です」

「……なんだ、そっちか……」

 望がさりげなく言った「手順」が気になったが、ややこしそうなので聞かなかったことにした。

「霊染め桜は、現には存在していなくて普通は目にする機会はありません。京のほうの霊山……、特に鞍馬に群生してるって聞いたことがありますけど……」

 天狗が住まうという霊山。天狗の中でも戦闘を生業とする宵闇の総本山が京都の鞍馬だ。大天狗が座す最大規模の山で、たとえ宵闇でも他の霊山所属の者は簡単に入れないという。

「じゃあ、これを植えた奴は、鞍馬の天狗ってことか……?」

「……現に存在しない木を植栽するとなると、高度な術式と膨大な霊気が必要なはずです。宵闇でも厳しいかもしれませんね……」

「宵闇で厳しかったら、無理じゃねェの? 天狗の中で一番強い奴らなんだろ?」

「鞍馬には宵闇以上の存在がいるんですよ」

 望は記憶を呼び起こすように桜を眺めた。

「僕もよく知りませんけど……。大天狗様直属の精鋭部隊・御山颪みやまおろし

「みやま……おろし……?」

 魂の奥で軋んだ音が聞こえた気がした。

 初めて聞いたはずの音がやけに懐かしい――。

「現衆や里に残る伝承に登場するだけで、隊員の名前も霊筋も霊山のトップシークレットです。一人一人が小さな霊山程度なら宵闇ごと吹き飛ばせるほどの力を秘めていて、彼らが動く時は天変地異が起こるとまで言われているらしいですよ……」

 幹の反対側で気配が動いた。

 得物を手に、身構えたのは同時だった。

(女……?)

 巫女のような恰好をした少女が大きな灰色の目でこちらを眺めていた。年は一真と同じ年くらいだろうか。少し乱れた髪と青白い頬と相まって、幽霊そのものだ。

「あ……」

 生気のない白い顔に喜色が浮かんだ。

かい様……!」

「え……?」

「かい……?」

 頭の上に「?」を浮かべる一真と望を気に留めることなく、少女は覚束ない足取りで近づいてきた。

「よかった……!」

 灰色の瞳に涙が溢れた。

「鞍馬から使いの方がいらっしゃって……、お二人とも亡くなったって聞いたから……! 私、信じられなくて……!!」

 泣きじゃくる少女にどう声をかけたものかわからず、一真は固まった。横を見ると、望も困り果てた様子で少女を眺めている。

(人違いだよな……。でも、なんでわからねェんだ……?)

 地面には月明かりに照らされた影が桜に向けて伸びている。

 月を背に立っているので少女からはちょうど逆光になり、一真達の顔は見えにくいのだろう。そうだとしても様子がおかしい。

 少女は望に笑いかけた。

「ねえ、戒様。桜、綺麗でしょう?」

 灰色の瞳が虚ろに桜を見上げた。

 愛らしい瞳は穴のように空虚だ。何も映していない。

「こんなに綺麗に咲くなんて……。きっと、兄様も喜んでくださっていますわ……」

 顔は望のほうを向いているが、瞳に望が映っていない。望に、というよりも彼女だけに視えている幻影に話しかけているのだろう。

「ところで、宮の姉様はどちらに? ご一緒なのでしょう? 桜が咲く頃に、お二人で来てくださるって約束してくださったもの。私、ずっと待って……、待ち続けて……、すっかり待ちくたびれてしまいました……」

 望は何かに気づいたように刀を収め、少女に近づいた。

 そっと細い肩に手を置き、幼子をあやすように語りかける。

「よく視てください……。僕達は貴女が言う人達じゃありませんよ?」

「え……?」

 少女は驚いたように目を丸くした。灰色の瞳は望を通り抜け、肩ごしの虚空を見つめた。

「嘘です……。だって、戒様と同じ……強い破邪の匂いがするもの……」

「……現実から目を逸らさないで……。目に封をして何も見ずに……、記憶に残る幻だけを追っても……、貴女が辛いだけです……」

 望は言い聞かせるようにゆっくりと一言一言に霊気を乗せた。

 灰色の瞳が微かに若草色に染まる。虚ろな瞳に望がうっすらと映った。

「ちが……う……?」

 白い手がそろそろと望の頬に触れた。

「あなたは……誰……? 戒様は……?」

「城田望。この浅城町で鎮守役を……」

「城田……?」

 少女は急に目を覚ましたように望を凝視した。

「貴方は城田紡しろた つむぎ殿の身内の方ですか?」

「えっと……、紡殿……ですか?」

 望は桜を見上げて唸った。知らない名なのだろう。

 一応、一真も記憶を辿ってみるが思い当たる人物はいない。

(城田っていうくらいだから、先輩の関係者なんだろうけど……。本人は知らねェみてーだし……。町内に他に城田って名前の奴、いたっけか……?)

 考え込んでいると、少女がこちらを見た。

 妙な既視感が襲う。

(……会ったこと……あったっけか……?)

 少女も同じだったのか、ジッとこちらを凝視した。

 若草色の瞳が脈打つように色を濃くしていく。

「貴方……は……」

 冷たい風が吹いた。

 地の底から沸き上がった薄いグレーの靄が風に乗って霊域を巡る。

(地面から邪気!?)

 木刀を構え、臨戦態勢に入る。

「先輩!」

「ええ……」

 望が鋭い表情で振り返った。手には既に抜身の刀を握っている。

 低い風の音が獣の唸りのように草原を駆け抜けていく。草原を囲むように邪気が舞い上がった。

「いけません……! お下がりください!」

 細い制止と共に背後で火の霊気が膨れ上がった。

「え!?」

「なにィ!?」

 振り返り、息を呑む。

 少女の瞳が若草色に燃え上っていた。長い亜麻色の髪を自らから放たれる赤い火の気に靡かせ、少女は印を切った。両の手の平に炎のような紋が真っ赤に燃える。

「お戻りください。ここは、貴方がたが来てはいけない場所……」

 赤い光が弾け網膜を突き刺した。

 咄嗟に手で目を庇ったが、僅かに間に合わず残像に目が眩む。

(ウソだろ!? この霊気……!)

 見えない力がグイッと引っ張った。巨大な透明な手に首根っこを掴まれたように靴の裏から地面の感触が消え、宙に投げ出される。

 僅かに開けた目に、遠ざかっていく桜の木と夜空が見えた。

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