第5話

 学園の中の景色は一変していた。

「クソ、全然視えねェ……!」

 校舎へと続く歩道の両脇には校庭があり花壇やベンチが並んだ、洒落た公園風になっていたはずだが、全て真っ白な霧に覆われている。歩道の両脇に並んでいた電灯も、桜の木も白い霧に覆い隠されていて、どこに何があるのかもわからない。

「こんな深い霧、初めてだぜ……」

 浅城町はよく霧が出ているが、こんな、自分のジャケットの袖口も見えないほど濃い霧の中を歩いたことはない。

 警戒しながらそろそろと霧の中を進んでいた一真だったが、数分で限界を迎えた。

「あ~~! クソ、面倒くせェ! 吹き飛ばしてやるっっっっ!!」

 右手の甲で霊紋が碧に輝いた。周囲で風が応え、霧が渦巻く。

 左拳を握りしめた。

“風よ!我が意に……”

「待ってっっ!!」

 鋭い制止に言霊を中断する。霧の中から伸びた手が左手首を掴み、赤い光を放った。集まった碧の風が霧散していく。

「先輩? 先、行ったんじゃなかったのか?」

「それより、風を収めて……! できるだけ静かに……」

「? お、おう……」

 集めた風をゆっくりと解放していく。

 緩やかになる霧の流れに望は安堵した顔で手を離した。

「その調子で……、静かな海をイメージしてください……」

 霊風が白い霧に紛れたのを見届けて、望はふうっと息を吐いた。

「追いかけて入ってくるかもとは思ったけど、入ってくるなり霊風を使おうとするとは思わなかったな……」

「だって、こんな視界悪いとこで変な奴が襲ってきたら危ないじゃん……」

「気持ちはわかりますけど、風は暫く我慢してください」

 もう一度、望は霧を注意深く見渡した。

「今、霊風を使うのは危険です。たぶん、ここは霊域への入り口……」

「……霊域?」

 望はいつになく真剣な表情で霧を睨んだ。

「現の世界と時空を僅かにずらして存在する異空間『玉響たまゆら』。その中に存在する結界で囲まれた領域……、術式が水の気を帯びているということは……」

 すらすらと師匠の口から飛び出した、テキストを圧縮したような言葉に冷や汗が伝った。

「……すんません……、専門的過ぎて全然わからねェっス……」

「……玉響は僕達が住んでいる世界の裏側にある海みたいなもので、霊域は、そこに浮かんでいる島みたいな感じです。その島への出入り口が現に開いた時、こんな風に霊気の霧で覆われていることが多いんです」

「じゃあ、オレ達、霊域に向かってるってことか?」

「たぶん……」

 望は軽く手を開いた。

 白い気が黒い手袋に纏わりついては前方へと流れていく。一真が集めた霊風とは関係なく空気がどこかへ向かって流れているようだ。

「霊域を閉ざす霧は水とは限らないんですけど、この霧は水の気だけで編まれています。霊域を作った術者か、閉ざした誰かが水属性だったんでしょうね……」

「そういえば、ちょっと光ってんな……」

 手の平をすり抜けていく霧は仄かに発光している。軽く霊気を手に込めると、反応して蒼く瞬いた。水の属性を帯びている証拠だ。

「……この霊気、ほとんど波動を失っちまってる……」

 霊気は波動を持っていて、人によって異なっていて、霊気の扱いに慣れてくると霊気の波動から相手を判別できるようになってくる。だが、ここまで波動が弱まってしまっていると、何も読み取れない。

「それだけ永い時間、この領域を守っているんですよ。ここまで波動が消えてしまったら、術者が誰なのか特定するのは難しいですね……。ただ、とてつもなく強い力の持ち主だっていうことは間違いありません」

 望は前後を確認し頷いた。

「とにかく進みましょう。霧が消えるようなことになれば玉響と現の狭間に取り残されてしまいます。そうなったら、霊山の助けを待つ以外、戻る方法がありません」

「げ……」

 望がわざわざ戻ってきて止めるはずだ。

 あのまま霧を消し飛ばしていたら、今頃は――。

「進むのはいいけどさ……」

 霧でほとんど霞んでいる背に声をかけた。

「霊域って何があるんだ?」

「……行ってみないとわかりません。小規模なものなら何か危険な存在を封じている可能性が高いですけど……」

 一度言葉を切り、望は周囲を見渡した。前後左右、どこまでも続く白い世界で果てが見えない。

「ここまで大規模だと、単体で何かを封印しているっていうよりも霊獣の隠れ里や霊山に続いている可能性が高いですけど……」

「霊山!? 町の中に入り口なんてあるのか!?」

 なんとなくだが、霊山の入り口は山奥深くの洞窟や滝の裏あたりにあると思っていた。

 望は顎に手をやって考え込んだ。

「それがずっと引っかかってるんですよね……。この武蔵国……、東京には霊山がなくて、一番近いのが信濃の霊山です。だからって、こんなところに入り口が出現する訳ありません。あるとすれば隠れ里だけど……」

「隠れ里?」

「霊獣が住んでいる里ですよ。この武蔵国は『刃守の里』っていう大きな霊狼の隠れ里があるんです。武蔵国に狼の霊筋が多いのは、その里の縁者が多いかららしいですよ」

「へえ……。そういや、この紋も狼だって言ってたっけな……」

 霊紋が僅かに光っている。この霧に反応しているのだろうか。

「昔……、浅城町に里の中心部があったって聞いたことがあるけど……」

「じゃあ、それなんじゃねェの? 古い霊域が残ってるとか……」

 「昔」というからには、現在は違う場所に移動しているのだろう。

(百年以上前に引っ越したとかだったら、ちょっと厳しいか……)

 浅城町に人が住みだしたから、里は移動したとかだろうか。そういう理由なら、江戸時代くらいまで遡るのだろうか。

 望は腕組みをして唸った。

「僕もそう思ったんですけど……、町の位置に隠れ里があったのって、千年くらい前なんですよね……。そんなに永い時間、入り口を放置するわけないし……」

「はあっっっ!? 千年っっ!?」

 予想をぶっちぎった「昔」に、思わず素っ頓狂な声が出た。

「江戸時代すっ飛ばしてるじゃねェか! 千年前っていったら……、戦国時代くらいか?」

「もうちょっと前……、平安時代じゃないかな……」

「平安時代いいいいいいいいいいいっ!?」

 一真の頭の中を少ない「平安時代」の知識が過った。

「麻呂が十二単着て和歌詠んでた時代だよな!?」

「えっと……」

 望のこめかみを一筋の汗が伝った。

「……一真君って……、日本史と古典、苦手……?」

「ふ、実は得意だぜ! 丸暗記すればいいだけじゃん! テスト終わったら忘れるけどな!」

 胸を張ると、望が乾いた笑みを浮かべた。

「丸暗記もいいですけど……。流れみたいなのと有名人は押さえておいたほうが……。特に、古代と中世あたり……。できたら江戸時代も……」

「え~~!? あんま、人生と関係ないじゃん……」

 暗記で得点を稼ぐ分野だと思っていた一真は顔をしかめた。

「一真君の人生の選択肢に関わってくるかどうかは、わからないけど……、鎮守役としては関わってきますね……」

「古典と日本史が~~??」

「あはは、すっごく嫌そうな顔してるなあ……」

 望は頬を掻いた。

「鎮守役は隠れ里の里長様や霊山の関係者と会わなくちゃいけませんから。ああいう人って何百年も生きてて、戦国時代とか鎌倉時代のことが普通に会話に入ってくるんですよ……。こっちも最低限は知っていないと、話についていけないっていうか……」

「マジ……?」

「そのうち、一真君も会うことになりますよ。武蔵国現衆を纏めているのは、さっき言った刃守の里なんです。そこの里長様に鎮守役として挨拶しに行かなくちゃ……」

 琥珀の瞳が赤く染まった。

 伸ばした右手の先に赤が灯る。

「霊域に入ります。一応、警戒してください」

 紅い光の向こう――、真っ白な霧の向こうに夜の闇が広がった。

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