愛と呼べない夜を越えたい

神帰 十一

愛と呼べない夜を越えたい

 香川康裕かがわやすひろ32歳。大手企業の子会社に勤めるサラリーマンだ。

 中間管理職。ただでさえ上司と部下に板ばさみにされ、しかもコンプライアンスなどがうるさい昨今、親会社の顔色も窺いながら上手く立ち回らなくてはいけない立場にある。


(会社を辞めよう…)

 

 ぼんやりとだが、香川がそんな事を考え始めたのは課長に昇進した時だった。


(釣り合いがあわない)


 課長に昇進したのが、嬉しくなかった訳ではないが、組織の中で昇進することに意義が見出せなくなっていた。

 32歳の若さで課長を拝命したのは、香川の会社では珍しい。香川がそれだけ優秀だったと言うことだが、香川自身は何を評価されたのかよく分かっていなかった。ただ単に横通しを良くし、親会社の社員に顔を覚えてもらい、知り合いになっただけだ。


 香川は社交的な性格だった。好奇心もそれなりに旺盛で、分からないことがあると、すぐに人に訊ねた。

 香川は花粉を運ぶミツバチのように、会社の各部署に顔を出して質問をした。それは親会社に用事があって行った時も同じだった。

 

 やがて香川は親会社に顔が利くようになり、香川を介して団結力の高まった子会社は、親会社に対して意見が言えるようになった。香川の運んだ花粉のおかげで花が咲き、みごと実がなったのだ。

 会社はその功績を評価しての香川の昇進だった。かと言って、それで香川の下り始めたモチベーションが持ち直すことはなかった。


(会社を辞めてどうするのか?)


 何も考えてはいなかった。香川は独身で、身が軽かった。


(その点は幸いだったな。)


 会社を辞めようと思い始めた頃の香川は、家庭を持っていないことに感謝した。

 だが、その感謝はある種、自虐的な作用をもって自分を戒めていることに香川は気がついていた。


(痛みは確実に麻痺してきている)


 肩で大きく息を吸い、香川は溜息をついて、吊り革をつかんだ自分の手の甲に額をつけた。

 21:00過ぎ。帰りの電車に揺られながらカオリのことを思い出す。


 カオリとは結婚を考えるくらいの関係であった。

 香川の4歳下で、香川がそろそろ身を固める自信がついた当時は26歳だった。

 カオリはその若さで他界した。


 カオリがいなくなった翌朝、カオリのいない世界が、いつもと同じように在るのが香川には信じられなかった。

 しかし香川も2、3日後には、いつもと同じようにネクタイを締めて会社に出勤していた。

 香川はそんな自分が、自分だとは信じたくなかった。


 カオリのいない別の世界にいる、偽物の自分。


 そう自己定義して、香川は、普段の日常に戻った自分に折り合いをつけた。

 

 つけてはいけない、折り合いだったらしい。


 それは身の回りで起きた事も、どこか現実とは乖離していて、他所事のように感じてしまう感覚を伴わせた。

 

 解離性障害。


 病院にでも行けば、そのように診断されるのかもしれない。


(いや、されないか…、以前の…いつもの自分と同じじゃないか。)


 香川は車窓に映った自分の姿の、その いつもと変わらぬネクタイの結ばれ具合を見て、忌々しげに そう思った。


 他人から見れば、以前となんら変わりがないだろう。

 自分が笑ったり、困ったり、表情豊かに接して 他人に違和感を感じさせないのは、そう言う設定になっているからだ。

 

 このシーンでは、この笑顔のマスクを被れば良い。このシーンでは、この困ったマスクを被れば良い。そのようにプログラムされており、自分はプログラムされた通りに動いているだけなのだ。


(俺は元から、こう言う人間だったかな?

 ならば、壊れてしまえば良いのに。)


 いつも決まって通る、右から2番目の自動改札に、いつものようにICカードを当てながら、

香川は、自分を見つめ直している自分は誰なのかを考えた。


(元の自分は…カオリがいた頃の自分は死んだはずだ…

 カオリがいないのに、こんなに普段通りに生きているなんて…)


◇ ◇ ◇ 


「生きて」


 死ぬ人間は、あまりに無責任に残された人間の事を想いやる。


 死の間際にカオリが残したその言葉は、確かに香川を生かす祈りの言葉となったが、同時に呪いの言葉にもなった。


(俺は生きていて良いのだろうか?幸せになって良いのだろうか?)


 そう思いながらも、しばらくの間、香川はカオリを忘れるためにも違う女性と付き合ってみた。

 一緒にいる時は楽しく過ごせる。しかし一人になると、思い出すのはカオリのことだった。

 

 他の女性と過ごしてみても、

 ''カオリを忘れるため''

 夜毎そんな罪悪感が香川を襲った。


(彼女たちとの間に、愛と呼べる夜があっただろうか?

 生きたいのは俺自身なんじゃないか?

 カオリの願いに応える振りをして、カオリの言葉に甘えているだけなんじゃないか?)


 死ぬべきだった。

 それが香川の出した結論だった。


 カオリへの想いを 愛と呼びたいのなら、自分はあの時死ぬべきだった。

 香川にとって、カオリがいない世界で生きている日々は、カオリへの愛を汚す日々の累々だった。

 

(もう、これ以上は耐えられない)

 香川が一線を越えようとすると、


「生きて」

 壊れそうになる直前に、香川の耳にはカオリの声が聞こえてくる。


「生きて」

 それは明らかにカオリの望みであり、自分の望みではない。


(カオリがそう言うのなら、俺は望みを叶えてやりたい。)


 もう、誰を愛することもないだろう。

 誰を愛してもカオリの面影を見ようとするだろう。

 忘れそうになるほどに、幸せになるほどに、罪の意識の濃度は増して行くのだ。


 その痛みを抱え、その痛みが薄れていくのを恐れ、狂う直前に正気に戻されながら、苦しみを背負って生きていこう。


◇ ◇ ◇ 


 パシュッ

 香川は、虚ろな何も映していない瞳で発泡酒のプルトップを開けた。


 帰宅して、コンビニで買った弁当を食べ、

 シャワーを浴びて、寝る前に一缶だけ空けるのが香川の習慣だ。


 その後、定められたようにPCを立ち上げる。

 特に調べ物があるとか、仕事をする訳ではない。

 

 公開するつもりはなかったが、カオリが亡くなってから、香川は 溜め切れなくなった自分の感情を、投稿サイトへ吐き出すように書き込んでいた。


 その作業を今夜も行おうと思ったのだ。


 しかし、エラーが起きた。

 発泡酒の缶をPCの上に落としてしまったのだ。


 運良く、発泡酒はPCに それほどかからなかったが、慌てて拭いたキーボードは、でたらめに押されて、いつの間にか自主企画として、他のユーザーの作品を応募する画面に飛んでしまった。


 画面を見ると、

「『愛と呼べない夜を越えたい』

 この題名で、書かれた小説を応募します。」

 そのような主旨の応募があった。


 特に興味があった訳ではないが、香川は何となく「詳細」の文字にカーソルを合わせクリックした。


 画面が開くと、そこには既に同題で書かれた小説が何作品もUPされている。

 

 スルスルとスクロールして行く。

題名と作者と紹介文、それとキャッチコピー。

これらの情報が画面の下から上に流れる。


 マウスを操作している香川の指がいきなり止まった。


 キャッチコピーの中に、二人が付き合うキッカケとなった、カオリの言葉があったからだ。


 香川は信じられない思いで、しばらくその文字を見つめていた。


(まさか…)


 香川はカオリの死を直接 見ていない。

死んだと聞かされただけだ。


 作者の名前も、字は違うがカオリの文字が入っている。

 

 もしも、カオリが生きているなら…

 あの日から明けない夜を超えられる知れない。

 

 そう期待しながら、

香川は恐る恐る、その作品を開いた…




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