迫り来る危機

 その後、伊井は淡々とエコー検査をこなしていった。


「22番の番号札をお持ちの方、お入りください」


 伊井が読み上げると、1組の親子が立ち上がる。まだ6ヶ月の子は、母に抱っこされ、ぐっすり眠っていた。エコーとは文字通り「超音波」を機械から出してその跳ね返りをみて心臓などの内部の形を読み取る検査である。そのため、赤ちゃんが泣いてしまうと、声も音波の一種なので、その繊細な音波に大量の雑音が入り、画面は大嵐になって見えなくなってしまう。そのため、赤ちゃんには特殊な眠るシロップ薬を飲んでもらい、眠ってから検査をするのだった。


「ではこちらを頭にして、ごろんとしてください」


 母親はうなずくと、子どもを起こさないようゆっくりとベッドに横たえた。いくつかの心電図センサーを取り付けると、伊井が部屋の電気を消した。エコーの検査は画面が暗いため、それを見やすくするために部屋を真っ暗にするのが普通である。

 また超音波は空気が苦手だ。そのため、少しでも機械と患者の体との間に空気が入らぬよう、医療用のゼリーをたっぷりつけてから検査を始める。

 伊井が赤ちゃんを起こさないよう、丹念にエコーのプローべと呼ばれるPHSより一回り小さいサイズの機械を赤ちゃんの胸に当てていった。一通りの検査が終わると伊井は、


「終わりましたよ、ゼリーをこのタオルで拭いて、服を着させてください」


 と説明した。

 一通りの作業が終わり、親子はありがとうございました、といって部屋を出た。そこにセクハラやその他、裁判沙汰になりそうな事柄が入りこむ余地は全く見受けなかった。


(なんだよあいつら、ビビらせやがって。そもそもセクハラになりそうな人自体がいないじゃねえか)


 そんなことを考えながら、エコー室の机を見ると、クリアファイルがたくさん溜まっていることに気づいた。検査待ちの人がたくさんいるということだった。


(やばい、あまり待たせると千賀先生に怒鳴られる。ちょっと急ぐか)


 そんな思いで伊井は次の患者を呼び入れるべく立ち上がった。


「25番の番号札をお持ちの方」


 伊井が声を上げ、待合を見渡すが、誰も立ち上がらない。もう一度、25番、25番の番号札をお持ちの方、と言っても誰も立たなかった。


(おかしいな、安田 輝来留きらり、10歳の女の子なんだけど)


 すると正面に座る女の子がゆっくりと立ち上がった。

 すっとしたシルエットに小顔。長い黒髪が背中までストレートに落ちていた。Tシャツにジーンズの短パン姿でこっちを伺うように見つめ返してきた。


「君、安田 輝来留きらりちゃん?」


 伊井が問いかけると、小さくこくりと頷いた。


「お母さんは?」


 輝来留きらりはゆっくりと後ろを指さした。その方向にはトイレがあった。


「トイレか、もう帰ってくる?」


 その問いかけに輝来留きらりはゆっくり首をかしげた。


(どうすっかな、患者さん待たせてるし)


 悩んでいると、先程の言葉を思い出した。


……絶対1対1になっちゃダメだよ、お母さん入れない時アタシ呼んでね……


 ふと外来を見ると、篠原が忙しそうに患者さんの対応をしていた。


(あいつにお願いするのもなんかしゃくだしな、まあ10歳だしいいだろう)


 そう思って、伊井は輝来留きらりに問いかけた。

「先に検査始めてていい?」

 輝来留きらりは小さく頷いた。


 エコー室に彼女を招き入れると、伊井と輝来留きらりは1対1になった。それから電気を消すと部屋は真っ暗になった。


「じゃあそのベッドに寝てもらって、服を上げてもらっていいかな?」


 そう言ってから、伊井は機械の準備をした。しばらくして機械の準備が終わり、ベッドを見ると伊井は異変に気づいた。輝来留きらりが服を途中まで、へそが少し見えるくらいまでしか捲り上げていなかったのだ。


「あー、ごめん、エコーってここ、心臓のところに機械当てるから、もうちょっとしっかり服を上まで上げないといけないんだ」


 ちょっといい? と言ってから伊井がさらに服を捲り上げた。すると、そこには思っても見ない光景が目に入った。


(なんだこれ)


 輝来留きらりはジュニアブラをしていた。ゴムバンドに近い素材のブラで、胸が膨らみ始めた頃に装着するものである。それを初めて見た伊井は少し戸惑った。これでは検査ができない。


「ごめんね、ちょっとこの下着、上げるよ。検査でゼリーとか使うから、下着がべちゃべちゃになっちゃうから。いいかな?」


 暗闇の中、ベッドに横たわる輝来留きらり。その首が少しだけこくりと頷いた。それから伊井がジュニアブラを上にずらすと、さらに予想だにしない光景が目に入った。

 10歳ということで、特に胸の膨らみなどないと勝手に思い込んでいた伊井は、輝来留きらりの胸がしっかりとふくらんでいることに驚いた。今まで見てきた小児の胸というのはただの平らな体幹に左右対称に乳首がついているだけだったが、今そこにある胸は腹から、とある下半分の弧を境に、まるでそびえたつ丘のように膨らみ始め、左右対称の立派な山を作っていた。その真ん中に位置する乳首とそれを合わせると、そこにあるのは解剖学的な体というより、異性、つまり女性としての胸がそこにあった。


(こんな若いのに胸でかいな、そういえば10歳の子の胸なんて見たことないからな。みんなこれくらいあるのかな)


 ゼリーが服やブラにつかないよう、ブラと体の間にタオルを押し込んでから伊井が言った。


「じゃあ、検査始めるよ」


 こうして暗闇の中、伊井と輝来留きらり、1対1の検査が始まった。


 数分経っただろうか、検査も後もう少しで終わるというところで、エコー室をトントン、と叩く音がした。


「失礼しまーす、あれ、センセ。輝来留きらりちゃん、検査してる?」

「してますけど、何か?」


 お母さん、してるって。

 篠原にそう言われてから、輝来留きらりの母が入ってきた。


輝来留きらりちゃんのお母さん、帰ってきたら輝来留きらりちゃんがいなくてびっくりしたみたい」

「あ、すみません、先に検査始めてしまいました。どうぞお入りください」


 輝来留きらりの母が、すいません、と頭を何度も下げながら、暗いエコー室に入ってきた。そして輝来留きらりの横についた。


「もうすぐ終わりますからね」


 伊井の声かけに、はい、と母は笑顔で答えた。

 こうして検査は一通り終わり、ゼリーを拭くためのタオルを渡した。


「ゼリーを拭いて、服を着たらまた診察室に呼ばれますから、待合でお待ちください」


 はーい、と母は答えた。輝来留きらりは去り際に伊井をちらっとみて、わずかに首をこくりと下げてから、エコー室の扉を閉めた。

 その後しばらく、伊井の頭からは輝来留きらりのその膨らんだ胸が、なかなか離れないでいた。

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