第二章:専門外来研修 伊井、医師免許剥奪の危機

伊井医師、超音波検査担当の日

「へえ、裕ちゃんが新聞とは、珍しい」


 医局のソファで、裕太は今日の新聞を食い入るように見つめていた。それを茶化すような声かけにも全く反応がない裕太を見て、伊井は少し内容が気になり始めた。


「何をそんなに……ってあれか。あの事件、まじでやばかったな」


 裕太が見ていたのはとある裁判の判決だった。

 手術が終わった後の女性患者。4人の患者が入れる大部屋と呼ばれる部屋の一区画。そこで横たわる30歳の女性を診察をする際、医師がセクハラをしたと女性が訴えたものだった。その内容はちょっと触ったくらいの軽いものではなく、ここに書くことさえはばかられれるほどの行為だった。女性側は徹底抗戦の構えを呈し「あの医者を辞めさせるまで私は戦う」と叫び、一方医師は事実無根を訴える。カーテン一枚で仕切られただけの部屋に、他の患者もいる上、さらにカーテンのすぐ外には患者の母親までいた。そんな中で、訴えのように女性の体を舐め回したり、といった行為があれば気づかないはずがない、と反論した。その裁判の判決だった。


「いやー、これ怖いよな。やったかやらなかったかはもう誰にも分からないけどさ、もしこれでやってないのに負けたらそれだけで免許剥奪だろ? シャレになんないよな」

「伊井、お前気をつけろよ。一番危なそうだ」

「俺? 冗談よせよ、裕ちゃん。そこんとこはうまくやるからさ」


 裕太がじろり、と伊井を睨んだ。


「な、なんだよ」

「だってお前……いや、何でもない」


 おいおい、待てって、そう言って伊井が裕太につかみかかっていると、後ろから声がかかった。先輩医師の八反田だった。


「あれ、伊井先生。今日超音波検査エコーの担当じゃなかったの? 千賀先生、もう行ってたよ」


 伊井は時計を見た。


「あ、やっべ。急がなきゃ」


 そういって伊井は急いで外来にある超音波検査エコーの部屋へ向かった。



 超音波検査エコーの機械は外来のすぐ横にある一室にあった。

 そこは以前隔離室といって、他の人にうつしてはいけない水ぼうそうやインフルエンザが疑われる患者が待つスペースだった。今は隔離室は場所が変わり、そこは超音波検査をするためだけの部屋となった。広さはちょうど6畳くらいだった。


「まずは患者さんの IDをバーコードリーダーで読み込んで……」


 都立副都心総合病院の小児科では、3年目の医師に技術習得目的で、定期的に超音波検査をする当番が回ってきていた。以前、裕太がやったことがあったので、それを本日当番の伊井に引き継ぎをしていたのだ。


「……で、入って来た子どもは、こっちを頭にして寝かせる」

「このゼリー、無くなったらどうすんの?」

「早めに篠原さんに言っとく。今日の分はもう言っといた」


 部屋のドアが開き、篠原が入ってきた。


「伊井センセ、これ?」


 伊井は篠原が持ってきたタオルを見た。


「あ、これちっちゃいよ。もっとおっきいやつにして」

「でもこれよりおっきいとバスタオルになっちゃうよ」

「あーもう、それでも良いから探してきて。急いでね」


 篠原は、はいはい、といって部屋を出た。


「おい、篠原さん外来看護師今日一人なんだぜ。いつも以上に忙しいんだから、伊井が自分で行ってこいよ。それになんでそんなに上から目線なんだよ」

「は? なんで医者が看護師のために動かなきゃなんねーんだよ。そもそもあの元ヤンみたいな看護師、俺嫌いなんだよね」

「そう? めっちゃ頼りになるけど」

「あれ、絶対昔遊んでたわ。だって頬に傷あるだろ、あれがまさに遊んでた証拠。自分のことマネジメントできないやつに、ろくなやつはいない」

「いやいや、遊んでたとは限らないだろ、普通に怪我かもしれないし」

「とにかく、こっちはお医者様だぜ? ここまでくるのにどれだけ苦労したと思ってんだよ。それに比べりゃ、看護師なんてなるの簡単だろ? 看護師は医者のために働けばそれでいいの! こっちが気い使う必要なんてねーんだから」


 ふーん、と裕太は口をへの字に曲げた。


「はーい、センセ。これでいい?」


 伊井は篠原が持ってきたタオルを見て


「これしかないの?」

「うん」


 あー、じゃあもうこれでいいわ。といってそのタオルを乱暴に受け取った。


「そうそう、城光寺センセ。伊井センセーにあのことだけはちゃんと引き継いておいてね」


 裕太は一瞬、ん? という表情をしてから、あー、と声をあげた。


「そうそう、伊井先生。女性の患者さんを部屋に入れる時、絶対に1対1にならないでね」

「どゆこと?」

「ここ、密室だろ? しかも検査するとき暗くするし、何をされているか分からないだろ。しかも心臓のエコーってブラジャーしたままじゃできないから、ブラをあげないといけない。すると胸が完全にはだけるから、無防備になる。だから女性の患者さんを検査するときはお母さんについてもらうか、お母さんが入れない時は必ず女性の看護師さんを入れろってこと」


 伊井は一瞬顔を凍らせた。


「お前、俺を疑ってんの?」


 突如部屋の外から別の声が入ってきた。和気だった。


「伊井先生、違うよ。これは全員に言ってる。暗い密室で二人になって、仮に君が何もしてなくても、後からこれやられました、されました、って言われたら誰も反論できない。ましてや裁判にでもなったら大変なことになる。君たちはやるはずないのはわかってるけど、少しでもリスクは減らすべきだ」


 そう言って、そのまま和気は去って行った。


「だろ? 俺も面倒くさかったけど、どれだけ忙しくても1対1になってしまう時はお母さんが帰ってくるか、篠原さんが空くまで待ってたから」


 裕太がそう言い終えるくらいのところで、ピコーン、という千賀が患者を呼び入れるアナウンスが響いた。それを聞いて、篠原の眉間に皺が寄った。


「おっと始まっちゃった。じゃ、伊井センセ、もしお母さんが入れない時はアタシ呼んでね」


 と言って軽くウインクしてから篠原は去っていった。

 めんどくせえな、とひとりごちてから伊井は再度超音波検査の機械の操作方法を確認していた。


 その一部始終を、待合の遠くからじっと見つめる瞳があったことにまだ誰も気づいていなかった。

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