桐生外来・仏

仏の外来

「お薬出しておきますね、熱が続く時はまた来てください」

「はい、わかりました。ほら康介、ありがとうは?」


 ありがと、ごじゃます、そう言って、3歳の男の子は桐生に向かって不器用に頭を下げた。


「はい、お大事に」


 そんな掛け声を背中に受け、親子は診察室を出た。

 ふと桐生が誰かの視線に気づいて振り返ると、そこに一人の医師が立っていた。


「あれ、城光寺先生、いつからそこにいたの?」


 裕太は目を輝かせてそこに立っていた。


「すみません、桐生先生の外来、ほんっとに良いなって思いました」


 裕太は目をうるうるさせて、その場に立ち尽くしていた。


「いやいや、そんなことないよ。私は普通の診察をしてるだけだよ」

「でも篠原さんから聞きましたよ、桐生先生がここ来てから外来患者さん増えたって。桐生先生ご指名もたくさんいるって。その気持ちわかります、なんか患者さんに寄り添ってるっていう感じがします」

「ははは、それは褒めすぎだよ。私は他の先生みたいに専門が無いし、出来が悪いから一生懸命やるしかないんだ」


 千賀先生は循環器、和気先生はアレルギー、みたいにね、と付け加えた。

 いや、それは違う、と裕太は思った。桐生は確かに専門はないかもしれないが、外来の腕は確かにあると感じていた。


 以前、裕太が桐生と同じ日に外来を担当した時のこと。


「桐生先生、さっきの子。お腹痛いって言う割には嘔吐も下痢もないんですよね。そういう腸炎もあるんですかね」

「そうね、腹痛っていう主訴が実は一番難しいんだよね。足は見た?」

「足、ですか?」

「そう。お腹が痛いという主訴だけど実はIgAアイジーエー血管炎けっかんえんだったりすることもあるからね」


 IgA血管炎というのは毛細血管が破ける病気で、足に紫斑と呼ばれる紫の斑点ができる。お腹から離れている部位だったため、裕太は考えていなかった。


「そうなんですね……なんか心配になってきた、ちょっとまだ会計待合で待っているかもしれないんで、見てきますね」


 そう言って裕太は走り出した。そこで会計で待つ男の子の足を見させてもらうと、なんとそこにはしっかり紫斑があった、診断はIgAアイジーエー血管炎だった。そこで慌てて、入院することになったのだ。そのことを思い出して、やはりこの人はすごい人だ、と裕太は思っていた。

 この信頼できる医師に、裕太は思い切って疑問を投げかけた。


「桐生先生、外来でレントゲン撮る人、何人くらいいますか?」


 和気はほとんどの患者にレントゲンを撮っており、撮らない人の方が少ないくらいだった。


「そうね、2、3人かな」

「たったそんだけですか?」


 桐生は、へ? という表情をした。


「すみません、とある先生から異物誤嚥いぶつごえんもあるからしっかりレントゲンは撮った方がいいと言われてたんで……」


 桐生は数回瞬きをすると、少し考え込むような表情を浮かべた。


「そうだね、それは確かに間違いじゃない。どちらも正解だと思うよ。医療に絶対は無いし、異物誤嚥で毎年50人程度の子どもが死んでいるからね。一方で、異物誤嚥って年に何人くらいいるか知ってる?」

「ちょっと……わからないです」

「とある報告によると、年間150人程度。日本全国で、だよ。ちなみにこの病院、1日だけで100人以上の患者さんがくる。すると、この誤嚥と出会う確率がどれだけ低いかわかるよね。それに全部レントゲン撮ってたら、不必要な検査を大量にすることになる」

「なるほど……でも出会う確率はゼロじゃない、ですよね」

「そう、だから我々は『絶対大丈夫です』なんて絶対言えないんだ。必ず最後に『状態が良くならない時はまたきてくださいね』と言うのはそういうことなんだ」


 そうだよな、と裕太は何となこ心の中にあったもやもやがゆっくり溶けていく心地よさを感じていた。


「でも、やっぱり怖いですよね。何かあったら」

「うん、医学への畏敬の念は忘れてはいけない。でも何かあったら責任を取る、その覚悟があるから医師は尊敬される職なんじゃないかな。逃げてばかりじゃ信頼される医師にはなれないよ」


 裕太は、すこーん、と頭を殴られたような気がした。

 そうだ、そうなんだよ、自分が聞きたかったのはこの言葉だよ……。この覚悟があるから、みんなこの先生を頼るんだよな——。

 裕太の目に涙があふれてきた。


「城光寺先生、どうしたの?」

「あ、いやちょっと、目に埃が……洗ってきます」


 そう言って、裕太は診察室から飛び出した。

 俺は絶対この先生について行こう! そう心に誓い、裕太は外来の廊下で目をこすっていた。

 やがて、視界がはっきりとしてくると、待合で待つ一組の親子が目についた。


「あれ、相原?」


 親子の母親が裕太を見て、あっ、と声をあげた。


じょう君! 久しぶり。お医者さんになったって聞いたけど、ここで働いてたんだ」


 相原は裕太の高校の同級生で、3年間同じクラスだったので、お互いよく知っている。裕太は一緒にいる子を見た。


「相原のお子さん? そっか、相原ももうお母さんか」

「そうよ、これでも2歳児の親なんだから。名前は与古田になって、最後になっちゃったけどね」

「相原っていっつも出席番号一番だったもんな」


 相原はぺろっとちっちゃく舌を出した。


「お子さんどうしたの? 熱?」

「そう、保育園で変な風邪流行ってるみたいで心配になっちゃって」

「そっか、相原も桐生先生頼み? あの先生、めっちゃすごいんだぜ。医者としても人間としても……」


 と言いかけて裕太は相原の表情に影が差していることに気づいた。


「ん? どうした?」

「城君、実はね、私あまりあの先生得意じゃないの」

「桐生先生が? なんで?」

「確かに良い先生だとは思う。でも……嘘つきだから」


 桐生先生が嘘つき。誰かの間違いじゃないか、裕太はその場違いな表現を理解出来ないでいた。

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