失敗しない医療の正体

 昼休み、裕太は注文したチキン南蛮弁当を食べていた。鶏肉のその深部まで染み込んだ秘蔵のタレと適度な噛みごたえ、そして一口噛むたびに溢れ出る肉汁が口に広がった。そこに甘酢醤油とタルタルソースを2:8でかけると、まろやかなタルタルソースの中に甘酢の酸味が心地よい刺激となり、口の中に一気に旨みが押し寄せた。


「あのさ」


 裕太が、伊井に話しかけた。伊井は、うな重弁当を力強く突っついていた。


「どうした、裕ちゃん」

「伊井先生は和気先生の外来、見たことある?」


 横には水野もいたが、特に反応は無かった。


「あるけど。どうした?」


 裕太は午前中のことをどう話していいか考えあぐねていた。


「いや、色々俺らが知らない危険なことってあるんだなって」


 伊井は答えなかった。水野もそれを聞いていたが、特に何も答えず、のり弁をほおばっていた。

 確かに和気の言っていることはわかる。ここは遊びじゃない、命に関わる現場だ。だから失敗は許されないし、慎重になる必要はある。しかし、なんだろう、このもやもやは。裕太の中で、形を作ることができないその流体は目の前に浮かんでは消えた。

 水野は箸を置くと、ぼそっとつぶやいた。


「……ちょっと、心配性だよね」

「そ! だよな!」


 裕太は言って欲しかった言葉が出てきて、喉に引っかかっていたその言葉を一気に吐き出した。


「伊井先生もそう思うよな?」


 伊井はうつむき、たっぷりタレのかかったうなぎを咀嚼しながら、答えた。


「実は、そう思うところはちょっとあった」


 裕太はそれを聞いて頷いた。それから待ってましたとばかりにスマホを取り出した。


「見せてやろうか、秘蔵の写真」


 裕太が悪戯な笑みを浮かべると、先ほど篠原から見せてもらった紙を撮った画像をスマホで見せた。それを食い入るように見る二人。


「裕ちゃん、なんだよこれ。まじか……」

「これ……すごいね」

「すごいだろ? これを親全員に書かせてから診察室に入れているらしい」


 その紙はチェックリストだった。

 一行に書かれた文の右に、その内容に了承を得られればチェックをしていく、という特に変哲のないものだった。しかし内容は驚くべきものだった。


・診察は確実ではありません、今はわからなくても後からわかる病気もあります、それでもよろしいですか?

・現在の医学ではわからないことがあります。また今は元気であっても、急変し数時間で死亡することもあります。よろしいですか?


 などから始まり、


・診察の際、聴診器が思わぬところに当たることがあります、それにより骨折その他命に関わる怪我を誘発することがあります。

・服を脱がせたときに服がちぎれることがあります

・診察室の椅子は万全を期していますが、万が一損傷していることがあります、その際は骨折など命に関わることがあります。

・待合の子ども同士、当院スタッフと接する際に、なんらかの感染症にかかることがあります。


 など多数の項目があった。


「おいおい、なんだよこれ『診察、治療することで、病状がさらに悪化する可能性はゼロではありません』って。これじゃ来ない方が良いじゃないかよ」

「これもすごいよぉ、『帰りの道中、交通事故に遭い、致命傷を負う可能性はゼロではありません、よろしいですか?』って。これ書いている時って、もう病院来てるんだよね?」


 しばしの沈黙が流れた。3人とも何も口に出さなかったが、出さなかったというより、何と言っていいかわからなかったという方が正しいかもしれない。


「篠原さんに聞いたんだけど……」


 沈黙を破った裕太の声に二人は耳を傾けた。


「和気先生って、絶対子どもの服、自分で捲らないんだって」


 え、と水野が驚いた表情を見せた。


「でもお母さん片手で抱っこしてるから、肌着とかについてるボタン、片手で外すの大変じゃない? 僕、よく手伝ってボタンとるけど」

「ああ、俺もそうしていた、『お母さん、いいですよ、外しますから』って」


 裕太は頷いた。


「それが普通だと思う。だけど和気先生はその際に手が滑って子どもの顎をパンチしてしまうことを恐れているらしい。それで何かあったら裁判で負けるって」


 負けんの? それ、と伊井が言い捨てた。


「わからん。ただ、自分の身を守れることは確かだ」


 そういうと、裕太は両手を組んで、ソファに背中をもたれかけた。それから天井のさらに遠くをぼーっと見つめた。水野が辺りをきょろきょろしてから、独り言のように呟いた。


「失敗しない医療ってさぁ——」


 水野は眉間に皺を寄せた。


「——成功もしてないよね」


 あーあ、と伊井の声が漏れた。


「言っちゃったね、水野っち」

「え? まずかったかなぁ、ねえお願い! 誰にも言わないで……」


 いやー、水野っちがそこまで言う人とは思わなかったよー、という煽りに水野は全力で口封じをしていた。お願い! お願いだから……。


「おい、伊井。お前も言ってたから同罪だろ。でもそれって結局何がしたいんだろ。俺らのしていることって、確かに危険なことはちょっとはあるかもしれない、でもそれ以上に何か得られるものがあるからやってるんだよな。その小さな危険を完全に無くすなら、やらない方がいいんじゃないかなって。和気先生、なんで小児科医になったんかな……」


 水野が元にいた位置に座り直し、改めて息を整えたのを見て、伊井がやっとうなぎ弁当の続きを食べ始めた。


「そういえば、水野っちは何で小児科医になりたかったの?」

「僕? 子どもが好きだからかな。昔から弟とか、親戚の子とよく遊んでて、子どもと一緒にいると元気になるんだよね。医者にならなかったら保育士さん目指してたかも。伊井先生は?」


 伊井はニヒルな笑みを浮かべた。


「そりゃ決まってるだろ、出会いだよ」

「「出会い?」」


 二人同時に目が丸くなった。


「小児科はたくさんの出会いがあるだろ? 美しい女性の宝庫だ」


 ふふふふ、と笑う伊井は二人が少しずつ距離を置いていることに気づいていなかった。


「どうした、君たち」

「おい、伊井。お前そんなやつだったとは……」

「……伊井先生、今のは聞かなかったことにしておくよぉ。でもこれから君と付き合うことはないと思う」

「は? 何で?」

「何でってお前……ロリコンってことだろ? しかも小児科で診る子どもって0歳とか3歳とかだぜ。俺はお前が犯罪でつかまったとき、申し訳ないがテレビの取材ではこういうだろう『彼はいつかやると思っていました』って」


 伊井がうろたえだした。


「いやいや、ちょっと待て、お前たち。何か勘違いしているぞ?」

「……伊井せんせぇ、もう遅いよ」

「まあ聞け。君たち、医者の中で最も若い女性との出会いが多い科って知ってるか?」


 裕太が疑いの表情を作ったまた答えた。


「そりゃ、女性だから婦人科とか?」

「あとは……整形外科とか若い人と接する機会多いかな」


 伊井はゆっくりと首を横に振った。


「違うんだよ。実は小児科なんだ」

「若いって、若すぎるだろ」

「違う、子どもじゃない。お母さんだ」


 お母さん? またもや二人の声が重なった。


「君たちのお母さんは50代、60代かもしれない。でも小児科に来るお母さんは20代、30代の今もまだ麗しき女性たちだ。そんな美しい女性たちの不安を聞いて、それを解消して喜ぶ姿を見たい。俺の言う出会いはそういうことだ」

 

 まあ、もれなく子ども付きだがな、と付け加えた。

 へえ、と水野はまだ疑いの眼差しを取れずにいた。


「そういえば裕ちゃんは何で小児科医になったの?」


 水野ものり弁の最後のコロッケをほおばりながら聞いた。


「最初の自己紹介の時に、桐生先生が質問したやつだね」


 裕太の視線が凍りついた。


「……ろうそく」


 伊井と水野の二人は、え? と聞き返した。

 裕太の記憶の奥底から、ごぉー、という音を立ててドロドロした濁流が込み上げた。


——ぼくが、ぼくがいけないんだ。ぼくがろうそくを——


……ちゃん、裕ちゃん?


 その声に裕太は、はっとした。


「裕ちゃん大丈夫? 顔色悪いよ?」

「ん? ああ、何でもない。俺ちょっと用事あるから、行くわ」


 そう言って、まだ食べかけのチキン南蛮が一切れが入った弁当に蓋をし、そのままゴミ箱に投げ入れると、そそくさをその場を去った。

 取り残された二人は口をぽかんと開けて目を見合わせていた。

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