苺の魔法

@kashiwa_sosaku

苺の魔法

 ぽつり、と雨粒が窓を優しく叩いた。


 もそりと布団の中で身じろいだ叶(かなう)はそっと目を開く。味気ない部屋。引っ越ししたばかりの我が家は何処か他人行儀だった。

 高校入学を機に独り暮らしを始めた。何も実家暮らしに嫌気が差したとか、母親と不仲だったとか、陰鬱な気持ちから独り暮らしを始めたいだの口にしたわけではないのだが、母は「好きにしなね」とそっと背中を押してくれた。その顔が寂しそうで、ごめんなさいの一言を残して長年暮らした家を去った。

 窓を叩く雨音にハッとするようにベッドから跳ね起き、ドタバタと足音を立てながらベランダに向かう。

「あう、やっちゃったなあ……」

 ぐっしょりと水を吸って重くなった洗濯物に手遅れだと悟る。渋々取り込んだ衣服は籠に突っ込み洗濯機に突っ込んだ。ごうんごうんと物凄い音を立て脱水してる間に部屋を往来する。部屋干し、部屋干し、口ずさみながら端末を操作して検索をかける。幾つも出てくる項目を目で追いながら、比較的分かりやすそうなものをタップした。


 何もかも自分でやらなくてはいけない、それは大変だと知りながらも独り暮らしの誘惑は甘美な響きだった。

 自立しなきゃと思ったのは何時だったか覚えていないけれど、今も己の限界が何処にあるのか知りたくて藻掻いている。出来ないことは目の前に大きく聳えて壁となって立ちはだかる。その根元をだるま落としみたいにハンマーで叩いてどうにか小さく出来やしないかと模索する日々は、途方もない旅路で、立ち止まることも、振り返ることもある。けれど、心の奥底は何時だって新しい出会いにわくわくしているんだ。


「でも、朝から雨かあ。ちょっとゆーうつになりそう」

 思わずうへえと声に出た。休日の朝だというのにしとしとと降る雨に嫌気が差す。予定はないけれど、これから出来る筈だった、多分。そうだ、今日はカフェでケーキを食べる予定だった。今決めた。

 空白のスケジュールと暫し睨めっこして、そこに思いついたように書き込んだ。うんと甘い苺が乗ったふわふわの生クリームたっぷりのショートケーキ、それとほっとする味のココアがあれば最高。ふふと微笑み、服を着替えたら鏡と対峙する。

「寝ぐせ、今日も酷い……」

 櫛で梳いてもぴょこんと自我を持って頑なに跳ね続ける髪に溜め息をつくと帽子を深く被った。うん、ばっちり。鏡の前でにっこり笑うと今日も一日頑張れる気がした。ブーツに足を通し、傘を持つと「いってきます」と我が家に声をかけて扉を潜った。




 冬の街は色めいて見える。それはイルミネーションだったり、人の往来だったり。マフラーに顔を埋めるようにして行き慣れた道を闊歩する。

 カランとベルの心地よい音を聞きながらカフェの扉を開く。モダンなテイストの店内は落ち着いた雰囲気を醸し、蓄音機のレトロな音が耳を擽る。珈琲の芳しい香りが店内を満たしていた。

「いらっしゃい」

 初夏の瑞々しい若草を彷彿とさせる爽やかな声に、沈んだ気分が上向きになるのを感じた。

「今日も来ちゃった。ショートケーキとココア!」

「いつもそれだよね」

 ホール担当の翠(すい)くんは、オーダーを取るとにっこりと笑ってカウンターへと向かう。その背中をほうっと見つめた。


 翠くんは今年で大学二回生だって話してくれた。

 カフェでバイトを始めたのが一年前だと朗らかに教えてくれた彼と出会ったのは、半年前の梅雨の半ばだった。

 その日もしとしとと雨が降っていた。たまたま見つけた隠れ家のようなカフェ、夢の窓。友達付き合いの悪い叶は1人帰路を辿る途中で見つけた。恐る恐る扉を押す。カランと入口の上部で静かに佇んでいたベルの音が心地よく耳に入ってくる。

「いらっしゃい」

 フランクなその声が、柔和に微笑む顔が、叶の心を鷲掴みにした。

 初恋泥棒は年上のアルバイターでした。なんて、チープな雑誌のタイトルを考える程度には混乱していて。ああ、そっかこれが初恋なんだ。胸を甘く締め付ける違和に名前がついたことに酷く安堵した。それと同時にこの気持ちを伝えることは来ないのだろうと悟った。

 元来叶は他人付き合いが良い方ではない。寧ろ一人を好んでいた節がある。お付き合いする関係に憧れはあれど、自分がそうなりたいかと聞かれれば首を傾げる。

 一目惚れ、そう、これは一目惚れなのだ。びびっと電波を受信して、それが恋に違いないと脳が難しい方程式を解いて出した答えだっただけ。人柄を知ることもなく、横切った瞬間ふわりと香る柔軟剤の匂いが思わず振り向かせるような、ずっとその匂いを覚えているような、不思議な心地。

恋愛に興味はないと散々口にしていた自分を、過去の自分は強く詰るだろうか。けれど、恋をした途端世界は色彩豊かに輝いた。

 だから、今がいっとう幸せ。そう胸を張って人生の大通りを自信ありげに歩く。



「はい。ショートケーキとココア」

 思い出に浸っていると、目の前にことりとプレートとマグカップが置かれる。プレートの上には大きな苺が乗ったショートケーキがあって、マグカップの中でココアが湯気を立てていた。

「ありがとう!いっただきまーす!」

 フォークがふわふわのスポンジの上で跳ねる。

 ケーキってこんなに美味しかったっけ、初めて此処で食べた時ガツンと頭を横殴りにされたような衝撃があった。有名パティスリーに足を運ぶことがなかったのもあるだろうけれど、それでも此処のケーキはお世辞を抜いても美味しかった。どんな人が作っているんだろうか、気にはなったがそれはこのケーキの前では些事だった。

 ゆったりとした空気が流れる。ホットココアの優しい甘みがじんわりと心に染み入る。この時間が生きている中で1番生きている心地がする。

「ごちそうさまでした!」

 ああ、食べ終わっちゃった。夢の時間は唐突に終わりを告げる。名残惜しいが、食べ終われば長居は無用、帰らなければ。

「お粗末さまでした」

 翠くんは空いた皿を持ち上げてあたしに笑いかける。客の1人だとは分かっているのに、ドキリとした。その顔を隠すように、そそくさとお会計をする。

「そうだ、叶ちゃん」

「なーに?」

 翠くんから声をかけることは珍しいことではないが、名前を呼ばれる度に心臓がうるさく音を立てる。

「このカフェのケーキ、ショートケーキだけと思ってない?」

「へ?」

 突然掛けられた言葉に脳が追いつかない。

 ケーキ…?

 何故ケーキの話題を振られたのだろうか。疑問に思っているとそれが顔に出ていたのか翠くんは笑いながらレジ横のショーケースを指差す。

「他にもいっぱいあるのに、ショートケーキばかりだからさ。他のケーキも美味しいのにって」

 そう思ってさ。

 照れくさそうに翠くんの頬が赤らむ。その稀有な表情を思わず目に焼き付けた。

「えっとぉ、苺が好きだから……」

 甘酸っぱい苺が昔から大好きだった。ショートケーキは母がよく買ってきてくれたケーキだから、食べ慣れてるのもあって好んで食べた。そこまで話すのも恥ずかしくて、ちらりと翠くんを見るとレジカウンターに肘をついてにっこりと笑っていた。

「苺、俺も好き」

 決してその言葉が自分に向けられたものではない。ちゃんと頭では分かっているのだが、どうしてもその2文字が頭の大部分を占める。

 好き。好き、かぁ。

 女子ならば言われてみたい言葉ナンバーワンに違いない。特に好きな人からの言葉なら尚更のこと。

「翠くんのオススメってどれ……?」

「俺のオススメは、苺のタルトかな。土台のクッキーがサクサクで美味しいんだよね。あと、苺がこれでもかって乗ってるから好き」

 タルト、確かにある。ショーケースの上段の真ん中くらいに。いつもショートケーキばかり頼むから他のケーキをよく見ていなかったことに気づいた。他に、ガトーショコラ、スフレチーズケーキ、ミルフィーユ、レアチーズタルト。どれもこれも美味しそうだった。けれど、あたしの視線は苺のタルトに釘付けだった。

 翠くんの好きなもの。

 それだけで特別に見えた。

「じゃあ、次は苺のタルト頼むね」

「ありがと」

 翠くんは嬉しそうにはにかんだ。また新たに加わった好きな人の違う1面。知る度、どんどん深みに嵌っていく。好きだと叫んでしまいたい、そんな興奮を抑えながら「ばいばい」と手を振ってカフェを後にする。雨はいつの間にか止んでいた。





 あの日から1週間が経った。居ても立ってもいられなくて、飛び出すように家を出た。今日も雨。寒くなってきたというのに、雪に変わることの無いそれが傘に当たって跳ねる。苺のタルト。授業中に過ぎる度、カフェに行くのが楽しみになった。翠くんは毎週土曜日の午後1時には必ず彼処に居る。それ以外の曜日はてんでバラバラなので、彼なりのこだわりなのかもしれない。浮き足立つ気持ちを無理やり押さえ込み、それでも足元はとても軽やかだった。


 店先に翠くんの姿を見つけ、思わず駆け出したその足は、その横に影を見つけて急ブレーキをかける。

 誰かは分からない。伸ばされた黒髪は艶を帯び、目鼻立ちの整った顔は誰が見ても綺麗だと答えるだろう。翠くんと並んで見劣りするどころか、寧ろお似合いでさえいる。

その光景はあたしの柔いところに無遠慮に土足で踏み入り、ざくざくと切り刻んでいった。喉が無性に乾いてひりひりと痛んだ。

 あたしの足は縫い付けられたみたいに動かなくて。目を逸らしたい光景に釘付けで、翠くんが彼女に笑いかける度にずきりと胸が痛む。やめてよとヒステリックに叫ぶ程あたしと翠くんの間にはあっけない程に何もない。口元が歪んでいく。目頭が熱い。鼻の奥がつんと痛くて、ぐっと拳を体の横で握り締めた。


「叶ちゃん……?」


 翠くんがあたしを真っすぐに見ていた。考えるよりも先に足は回れ右をして、来た道を引き返した。不思議そうな顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 彼女がいたこと、どうして隠していたの……?

 恨みがましい声が口の端から零れ落ちそうで、慌てて引き締めた。短い間だけれど通い詰めたあたしは気づいたら常連さんの仲間入りを果たしていた。その分翠くんと話す機会は誰よりも多いと自負していた。驕っていた。

「うっ、うぅあぁぁ……っ!わあぁぁぁぁぁん!!」

 外に居ることを忘れて大声を上げて泣いた。綺麗にメイクした顔は涙と交じりあってバケモノのような形相だったが、叶にそれを確認する術はない。住宅街の住人たちは泣き叫ぶ叶にぎょっとするも、関わりたくないのか遠巻きに見ていた。しゃくりあげながらも叶の足は勝手を知ったるや自宅への道を正確になぞる。気づけば足は自宅の扉の前で止まっていた。のそりと緩慢な動きで鍵を取り出し、差し込んで捻る。それだけの動作が今ばかりは煩わしかった。ガチャリと耳に届いた音、ドアノブを捻って開いた扉に体を滑り込ませた。がらんどうな我が家はひんやりと冷たくて、ただいまの言葉は口の中で噛み殺した。一目散に寝室の扉を力任せに開いた叶はその勢いのままにベッドに倒れ込む。傷心した叶の体を優しく抱き留め、穏やかな眠りの世界へと誘う。その誘惑に身を任せた。




 カフェにはあれ以来顔を出していない。それどころか、カフェの前を通らない道で帰るから却って遠回りだった。そうまでして徹底的に避けていた。

(だって、どんな顔して会えばいいのかわからないんだもん)

 大好きな人。今でもこの感情は忘れられずにいる。胸の深いところに根付き、光へと必死に手を伸ばしている若芽は、この恋が実ったならば大きな花を咲かせることだろう。ずきりと胸が痛む。胸を貫く強烈な痛みに蓋をして尚も歩き続ける。

「翠くんの彼女、綺麗な人だったなぁ……」

 ぽつりと零す。僻みも、妬みも、羨みも全てミキサーに詰め込んでジュースにして飲み干せたらいいのに。


「誰に彼女がいるって?」


 後ろから声をかけられて大袈裟に肩が跳ねる。

「す、翠くん!?」

「久しぶり?何で会いに来てくれなかったの。俺、ずっと待ってたのに」

 振り返れば会いたくて仕方がなかった人がそこに立っていた。どうして此処に居るのだろうか、疑問は泡のように浮かんでは弾けて消える。拗ねたように薄い唇をちょんと尖らせる姿が幼く見えて、不覚にも胸がときめいた。

「叶ちゃん?」

「ひゃいっ!」

 端正な顔が徐に距離を詰める。睫毛が長い、鼻筋が通っている、形の良い眉が不機嫌そうに下がっている、視覚からの情報が多量に脳に雪崩れ込んできた。反射で返事したものの噛んでしまい、羞恥で顔から火が出そうだった。

「なんだ。嫌われてるわけじゃなかったんだ」

「えっ??」

「叶ちゃんさ、俺のこと好きでしょ?」

 悪戯っ子のような笑みを浮かべて、翠くんはあたしの目をじっと見る。その栗色の瞳から目が逸らせなくて、数十秒、数分かもしれない、あたしたちは路端で見つめ合った。

「すき、って、そんな……」

「俺も好きって言ったら、叶ちゃんは付き合ってくれる?」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返した。ふわりと風が頬を撫でて行った。何処か照れ臭そうに頭を掻く翠くんの手を取ろうとして、はっとする。

「彼女!!」

 あたしの大声に驚いた様子の翠くんに詰め寄る。

「彼女いるじゃん!!」

「いないんだけど……。誰のこと言ってるの叶ちゃん」

「あの、この前綺麗な女の人と一緒にいるの見たんだけど!!」

 顎に手をやり考え込む翠くんの、伏せた瞼に乗る長い睫毛がふるりと揺れる。何か思い出したように頭を上げた翠くんは複雑そうに顔を歪めた。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「あれ、姉さんだよ。ついでに、店のケーキを作ってるのもあの人」

「はうあっ!そうだったんだ……」

 勘違いをしていた。再びじわじわと顔に熱が集まるのを感じ、いたたまれなくて顔を伏せる。

「それで、返事は?」

 追い打ちをかけるように、翠くんは春のような柔らかく温かい声であたしを急かした。ぎゅっと目を瞑る。目を開けたら夢じゃありませんように、必死に神様に祈った。目を開いてそおっと顔を上げると、出会った日と同じ柔和な笑顔であたしに笑いかける世界で一番大好きな人の姿があった。

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