第6話

 それはもはや反射的な行動だった。



 チユキは敵の姿を見るや手の中にナイフを作り出し、一切躊躇することなくその無防備な背中めがけてナイフを投げつけた。



 ナイフは空気を切り裂きながら猛スピードで空中を突き進み、見事怪物の背中のど真ん中に突き刺さった。



「ギィイ!!?」



 ウッドを殺そうとしていた怪物は不意に生じた激痛に持っていた石を取り落とし、うつ伏せにひっくり返ってのたうち回った。



 チユキは決断的に怪物に歩み寄り、蹴り飛ばして体勢を仰向けにし、踏みつけて固定するとその胸にナイフを突き立てた。



「ギャッ!!」



 ナイフを突き立てた拍子に返り血がチユキの頬にかかったが、チユキは払う労力も惜しいと言うかのように執拗にぐりぐりと刃先を押し込んだ。



 怪物はびくりと痙攣したかと思うと、ぐったりとなり完全に息の根を止めた。



 今まで生きてきて狩りに行くことも多かったから、今更命を奪う事に躊躇いはしない



 しかし魔物を見るのは初めてだった上、戦うのも初めてだったから、チユキは自分が思っている以上に緊張していたことに気が付いた。



 チユキは荒い息を吐きながらナイフを引き抜いて血を払うと、傷ついたウッドの方へ歩み寄った。



「くそ、おいウッド平気か?」

「チユキ後ろだ!」

「ッ!」



 ウッドの警告にチユキは咄嗟に横に跳んだ。その直後に彼のいた場所を怪物の拳が通過した。



「んの野郎!」



 体勢を立て為したチユキはさっと振り向き、ナイフを握りしめながらに向き直った。



 緑色の肌、道具を使うくらいの知能、本に書いてあったものと今目の前にいる者の特徴が概ね一致した。ゴブリンと呼ばれる魔物だ。それが3体。



 恐らくこいつらが2人を襲ったのだろう、とチユキはルドロフの亡骸をちらりと見ながらそう推測した。正面から対峙して、さすがに大人二人がゴブリンに殺されるわけが無いと踏んでの考えだった。



 それにしても、とゴブリンに視線を戻し、隙を窺いながらチユキは思う。



 こいつらは何だってこんな辺鄙な森何かに住み着きやがったんだ?おかげでいい迷惑だぜ。



 チユキが眉を顰めるのと、3匹のゴブリンが飛び掛かってきたのは全く同時だった。



 チユキは舌打ちすると身を引く代わりに前に駆け出した。ウッドは血迷ったのか、とぎょっとしてチユキを見たが、もちろんチユキは血迷ってなどいない。



 チユキはぎりぎりで前転してゴブリンたちの下を潜り抜けると、すぐさま振り返り真ん中のゴブリンにナイフを投げつけた。



「ギャッ!」



 真ん中のゴブリンが倒れ、左右にいたゴブリンが動揺して二の足を踏んでいるところにチユキは突っ込み、一体を蹴り飛ばし、もう一体の喉笛をかき切った。



 蹴り飛ばしたゴブリンが起き上がってチユキを睨むころには、チユキはすでにナイフを投げ終えたところだった。



「ギャッ!」



 最後のゴブリンが倒れ伏し、完全に動かなくなったのを確認すると、チユキはようやく一息ついて改めてウッドの方へ歩み寄った。



「すまねぇチユキ、俺を庇ってルドロフが殺されちまった」

「お前が謝ることは無いさ。むしろこいつらがいるってわかってのにお前ら置いてった俺らが悪い」



 まるでタイミングを計っていたかのように、事態が終わってから父たちは到着した。



 まず父たちはルドロフの死体を見て驚き、次いでゴブリンの死体を見てさらに驚いていた。



「チユキ!」

「遅いんだよ、いったい何やってやがったんだ?こっちはもう終わっちまったぞ」



 心配して駆け寄ってきた父に、チユキは辛辣に言い放った。



「う!すまない…」

「おいチユキ、こいつはお前がやったのか?」



 村人の一人がゴブリンの死体を鍬でつつきながら、振り返ってチユキに聞いてきた。



「それ以外に何があるってんだよ」

「おっかねぇ、これが5歳児の手際かよ…」

「んだんだ、おかねぇおっかねぇ」

「……殺すぞ」



 チユキは頷きあう村人たちに舌打ちすると、ウッドに応急処置とここから連れ出すように村人たちに指示した。



「あぁ分かった」

「気をつけろ、少なくともゴブリンは猿くらいの知能がある、小さいからって油断してるとこいつらの二の舞になるぞ」



 チユキは怪我をしているウッドとルドロフの死体に目を向けた。



「分かってる、俺たちだって死にたくないからな」

「2班分の人数で行け、それくらいいれば怪我人こそ出るが死人は出ねぇだろ」

「りょーかい」



 チユキの言う通り2班分の人数でウッドとルドロフの亡骸を護衛しながら森からの脱出を図る村人たちを見届けると、彼は残った村人らの方へ向き直った。



「と、いう訳で残った方は巣にカチコミだな。半分くらい死ぬと思うので、まぁそのつもりで」

「「え゛!?」」



 驚愕して見つめてくる村人たちにチユキは肩を竦めて見せると、巣があると思しき方へ進み始めた。



ギャァアアアア



 が、微かに何かが聞こえた気がしたのでいったん立ち止まり、耳を澄ませた。



「どうしたチユキ?」

「なんか聞こえる……」



ギャァアアアア!



 今度のは他の者の耳にも届いた。



「今のは……悲鳴か?」

「悲鳴?そんなもん誰が上げるってんだよ」



 ギャアアアアアア!!!



 次に上がった悲鳴はこの場の全員に聞こえるほど大きかった。



「近いぞ、今の悲鳴!」

「おいなんか足音が聞こえるぞ!」



 村人の警告と同時に1匹のゴブリンが飛び出してきた。



 全員が身構えたが、ゴブリンは彼らを素通りし、一切構うことなく脇目も振らずに走り去った。



 それに続いて何十匹ものゴブリンが飛び出してきたが、やはり同様に彼らに構うことなく走り去っていった。



 まるで何かから逃れるかのようなその姿に、チユキたちは尋常ではない何かを感じ取った。



 チユキは茫然と走り去ってゆくゴブリンを目で追っていたが、その直後にとてつもない悪寒が背筋を走った。



「これは…!」



 チユキは背後を振り返り、たった今ゴブリンたちが飛び出してきた方に顔を向けた。



 そちらの方から何かが近づいてくる気配があった。遠くで木々がゆさゆさと揺れ、どしんどしんという何かが地面を踏みしめる音がどんどん大きくなってゆく。



「全員構えろ!何か来るぞ!」



 チユキの怒号に全員がびくりと震えた。チユキがこうして怒鳴る時はいつも一大事だったから、村人たちは慌てて持っている鍬や鋤を構え、これか姿を現すであろう存在に備えた。



 そしてそれは木々をなぎ倒しながら彼らの前に姿を現した。



「と、トロルだとぉ~!!?」



 チユキは驚愕に目を見開いた。



 4メートルを超える巨体、錆色の肌は気味が悪く、体は腹の突き出た肥満体形で、どうしてそれで立ってられるのかチユキには不思議で堪らなかった。手足は太く、あれで殴られたら一撃でバラバラになるだろう。



 チユキは背筋にぞくぞくと悪寒を感じながら、同時になぜあんなにゴブリンが切羽詰まった様子で逃げ出したのかも悟った。



 こいつだ!ゴブリン共はこいつから逃げてきたんだ!そしてこいつはゴブリン共を追っかけてきたんだ。



「と、トロル?トロルってなんだよ!?」

「ゴブリンが共食いの果てに変異したものだ!こいつにとって同族のゴブリンは餌にすぎん!」

「なるほどそりゃ逃げるわな!」

「感心してる場合か馬鹿!集中しろ!こいつは手練れのハンターが狩るような魔物なんだぞ!」



 チユキはトロルから目を逸らす事無く父に怒鳴った。トロルは今のチユキの怒鳴り声に反応し、その豆粒めいた目をチユキに定めた。



 チユキはドキリとし、緊張で息がつまりそうになりながらも決して目を逸らさないように努めた。というより、蛇に睨まれた蛙の様に目を逸らせないと言った方が合っていた。



 しばし二者は互いを見つめあったが、その均衡を破ったのは恐慌に陥った村人だった。



「う、うわあああああああ!!!」



 初めて見る魔物に恐怖に耐えきれなくなった村人の一人が、超自然の炎の弾丸をトロルに向かって撃ちだした。



 炎弾はトロルの腹に吸い込まれるように着弾し、小爆発を起こした。



「やった当たった!」

「馬鹿野郎!何やってやがる!」



 村人は束の間喜んだが、煙が晴れ、着弾箇所が若干焼け焦げただけなのを見て、恐れ慄いたように大口を開けて後退った。



 魔物に限らず人にも言えることだが、魔力が高ければ高いほど物理攻撃にも魔力攻撃にも高い耐性ができ、一定以下の魔力攻撃を軽減、もしくは無効化してしまうのだ。



 今の一撃でダメージは無いが、トロルが沸騰するには十分だった。



「グォオオオオオオオ!!!」



 トロルは怒りの雄たけびを発した。信じられない音量に、チユキたちはたまらず耳を抑えた。トロルを恐れた鳥獣たちがバサバサと住処を捨て、その場から逃げ去った。



 賢明な判断だな、と逃げ去る鳥獣たちを見てチユキは羨ましそうに思った。



 もしできるならそうしたかったが、どこかのバカがトロルくそデブを怒らせてしまったせいで、その選択肢も消えてしまった。



 選択肢は生きるか死ぬかデッド オア アライブのみ、か。全く素晴らしい人生だ!



 チユキは腹を括り、恐怖で闇雲に魔法を撃ちまくり、完全に戦闘どころでは無い状態の村人の間を縫って、トロルに向かって若干自暴自棄になりながら突っ込んでいった。



 村人たちの集中砲火を受けても身じろぎ一つしないどころか悠然と前へ突き進むトロルの注意を引くため、チユキは持ち前のスピードと子供故小回りの利く体を存分に使い、トロルの側面に回るとナイフを3本ほど投げつけた。



 ナイフは村人たちの魔法と異なり、浅いが確かにトロルの体に突き刺さり、血を流させた。



「ガァ?」



 トロルにとって蚊の刺すくらいの痛み程度であろうが、それでも突如生じた痛みに驚いて立ち止った。チユキはその隙にもう数本ナイフを生み出しては投げつけた。



「グギャアアアアア!!!」



 トロルは痛みの原因がチユキにあることに遅まきながら気づいたようで、雄たけびを上げながらチユキを追いかけ始めた。



 しかしその巨体故小回りの利かないトロルは足が遅い事も相まって、チユキを捕まえることが出来なかった。



 そうこうしている間にも絶えずナイフは突き刺さり続け、トロルは苛立ちを募らせていた。



 あと少し、あと少しで必殺技の準備が完了する!…しかし魔力をこんなに使ったのは初めてだ。魔力が無くなりかけるとこんなに疲れるのか…!



 チユキは荒い息を吐きながら、最後の工程に入るため疲れを誤魔化し、気を引き締め直した。



 しかし魔力不足による疲れはチユキが思う以上に深刻な物だった。



 チユキはナイフを生み出した瞬間、一瞬意識を失いかけた。



 再び意識を取り戻した時には、トロルの大木のような太い足が目の前にあった。



「ッッッ!!!!」



 チユキは咄嗟にバックラーを生み出してそれを前に掲げた。瞬間、一度目の人生を終わらせたトラックの何倍もの衝撃が走った。



 そのあまりの衝撃に当然チユキは受け止めきれずに吹き飛ばされ、背中から木に勢い良く叩きつけられた。



「カッハ……!!?」



 チユキは木を背に力なく崩れ落ちた。



 トロルは勝ち誇ったように一声鳴くと、止めを刺すべく悠々とチユキに歩み寄った。



 チユキが吹っ飛ばされることで我に返った村人たちは、そうはさせまいとこぞってトロルの顔面に魔法を集中させた。



 さすがのトロルも顔面への攻撃を嫌がり、チユキへの追撃を諦めて村人へ向き直った。



 トロルが向かってくることに恐怖した村人たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。奇しくもその姿は先ほどのゴブリン達と奇妙なほど同じだった。



 しかしチユキから目を離したことが、トロルの最終的な死因になった。



 トロルの後頭部に、今までとは比べ物にならない程の衝撃と激痛が走った。



「ギャァアアアアア!!?」



 トロルは後頭部を抑え、苦痛の雄たけびを上げた。



 村人たちは驚いてチユキの方を見た。



 チユキは全身から血を流し、満身創痍の状態だった。もう立つ力も無いのか、立ち膝姿勢の状態で作り出したボウガンを構え、真っすぐトロルを睨みつけていた。



 荒い息を吐きながら、チユキは立ち膝姿勢で構えていたボウガンを下ろし、血の混じった咳をした。



 ガードしたにも拘らず、全身が粉々になりそうな衝撃だった。もしまともに受けてたら本当にそうなっていただろう。武器の強度を鍛えることに専念していて良かったと、チユキは過去の自分を褒めてやりたくなった。



 幸い骨は折れていなかった。内臓も無事だった。チユキはふらつく体に鞭打って何とか立ち上がると、最後の力を振り絞って必殺技のトリガーとなるワードを唱えた。



2



 チユキは拳を突き出し、ぐっと握りしめた。



「爆連花!!!」



 その瞬間トロルに突き刺さっていたナイフが光を放ち、それぞれが2度爆発した。たちまち爆炎がトロルの全身を包み込んだ。



 全身に刺さっていた数十本のナイフが一斉に爆発したとあっては、さすがのトロルもお終いだった。爆炎が晴れると、トロルの体は見るも無残な状態になり果てた。



 とりわけ頭部の損壊は酷かった。ボウガンで射出されたナイフは脳の半ばまで達しており、それが爆発して頭のほとんどを吹き飛ばしたのだ。



 トロルだった肉塊はびくびくと痙攣すると、ゆっくりと後ろに傾き、地響きを立てて倒れ伏した。



 しばし村人たちは目を白黒させていたが、やがて事態を把握できるようになると声を枯らさんばかりに勝利の雄たけびを上げた。



 チユキは勝利に酔いしれる村人たちを一瞥すると目を閉じた。痛みと肉体的な疲労を堪えるのも限界に近かった。その上最後の攻撃で魔力もすっからかんだった。とろける程に眠い。



 まったく、5歳のやる様な事じゃないぜ。



 チユキは眠りに落ちる際に心の中で締めくくるようにそうぼやくと、意識を完全に手放した。




 *




 チユキが目を覚ましたのは捜索日から丸1日経ってからだった。



 丸1日寝てたからか起き上がるのが酷く億劫だったが、疲労感も痛みもすっかり無くなっていた。大方誰かが回復魔法でもかけてくれたのだろう。



 チユキの姿を見るや家族は声を上げて彼に駆け寄ってきた。チユキは家族にもみくちゃにされながらどうにかそれを振り切って家を飛び出し、称賛の声をかけてくる村人に目もくれず、ウッドに会うために村中を駆け巡った。



 しかしどこを探しても見つからない。どこにいるか、と誰に聞いても、返ってきた答えは、そういえば今日はあいつの姿を見てないなだけだった。



 嫌な予感がしたチユキはウッドの家に向かった。



 ウッドの家の前に着いたチユキはドアを何度か鳴らしたが、何も返事が無かった。ドアに手をかけると、鍵は開いていた。



 チユキは家の中を探し回り、そしてアーノルドの自室と思わしき部屋でようやくウッドを「見つけた」。



 ウッドの部屋は1人っ子にしては大きく、あちこちに物が散乱していた。読みかけの本、積み木、脱ぎ散らかしたシャツやズボン。



 そしてその部屋の中心で、まるでそれらに包まれるかの様に、ロープで吊られたウッドの体が力なく揺れていた。



 首吊り死体は一様に苦悶の表情を浮かべているというが、彼の顔はこの世の全ての苦痛から解放されたとでも言う様に、以外にも穏やかだった。



 チユキはウッドの亡骸を見上げて呆然と後退り、それから悲鳴を上げた。



 チユキの悲鳴に駆け付けた村人たちは、吊られているウッドを見てチユキ同様絶句し、それから慌ててウッドの亡骸を数人がかりで下した。



 下ろされたウッドの亡骸は丁寧に拭かれ、次の日の葬儀にアーノルドと一緒に埋葬された。



 アーノルドはチユキの思った通り、トロルの腹の中から見つかった。食われてから半日ほど経っていたから、殆ど原型が無かったという。



 ウッドの妻は何年も前に逸り病で亡くなっており、アーノルドは妻を感じられる最後の形見だった。それが無くなってしまって、生きる気力が完全に無くなってしまったのだろう。



 ウッドはアーノルドを溺愛していたから、手伝いをサボってもあまり叱らなかった。それが今回の悲劇の原因なのだから、お前が気に病むことは何一つない。



 葬儀が終わった際、彼の親友であった父がチユキにそう言ってくれたが、チユキには何の慰めにもならなかった。



 家に帰っても、チユキは上の空だった。



 皆が食事でリビングにいる際も、チユキはベッドの上で膝を抱えていた。



 今は誰にも会いたくなかった。ただ一人でいたかった。



 月明かりだけが光源の部屋の中で、チユキは物思いに沈んでいた。



 自分のせいではない。わかってはいるが、しかしもっと何かできたのではないかと、チユキは思わずにはいられなかった。



 俺が悪かったのか?アーノルドを連れ戻していればよかったのか?ふざけるな、そんなとこまで面倒見切れるか。だが、しかし……。



 罪悪感と、もう取り返しのつかないという後悔が、チユキの中を満たした。部屋は暗闇が支配しており、あたかも深い悲しみの中へと引きずり込もうと手ぐすね引いて待っているかのようだった。



 ウッドの様に闇の中に消えれば、この悲しみも消え去るのだろうか?



 恐ろしい考えが、脳裏をよぎる。普段の彼ならその考えを一蹴しただろうが、今の心理状態では皮肉の一つも浮かんでは来なかった。



 深い闇に心が支配される寸前にアがノックされ、物思いと静寂を打ち破った。



 チユキは顔を上げ、ドアを睨みつけた。



 ドアは返事も待たずに開けられ、父や母、愛犬含む家族全員がぞろぞろと入ってきた。



 チユキは何も言葉を発さず、ただ全員を睨みつけた。



 家族は目を見交わし、父は頷くと一歩前へ進み出て、チユキに向かって口を開いた。



「さっき気に病むなと俺は言ったな?」



 父の問いかけに、やはりチユキは答えなかった。父は構わず続けた。



「でもお前はきっと気に病むだろうと俺は思ってたよ。お前は口は悪いが、責任感の強い優しい子だからな」



 チユキは父を睨んだ。



「……抜かせ、気になど病んでいるものか。あれはあのバカの自業自得だということくらい分かってる。気に病むなど、気に病むなど……!」



 チユキは俯いてぎりっと歯軋りした。



「だったら」

「だったら何だ?他にどう思えと?」



 チユキは顔を上げて声を荒げた。



「俺はあの場に居たんだ!連れ戻すという選択肢があったんだ!しかし俺は選ばなかった!当り前だろ!こんなことになるなんて予想できるか!」



 チユキは頭を抱えた。



「畜生……」



 頭で分かっているが、しかし心の方はそうもいかなかった。どれだけ自分に言い聞かせても、罪悪感の鎖は心を雁字搦めにし、外そうと思えば思うほど絡みつき、一層心に食い込んでくる。



 その鎖を緩ませたのは、不意に生じた柔らかな温もりだった。



 チユキは顔を上げた。



 父が母が、兄が弟が妹が、愛犬までもが彼を包み込んでいた。あたかも抱擁によって、悲しみで冷たくなった彼の心を温めようとするかのように。



「お前は出来ることは全てやった、十分さ、本当に良くやったよ」

「他人のためにそうやって悩めることは素晴らしい事よ、あなたは私たちの誇りよ」

「元気出せよチユキ!アーノルドとおっちゃんの事は残念だけど…」

「兄ちゃん!」

「お兄ちゃんあったかい~?」

「ワン!」



 家族はチユキの行動を全て肯定した。それがチユキの心を救った。



 家族から与えられる優しい言葉の一つ一つが、まるで万病に効く薬の様に心身に染み渡り、罪悪感の鎖が緩んでいく様な気がした。



 冷え切った心身に、熱が戻り始めた。



 愛っていうやつは。



 暖かな抱擁の中で、チユキは静かに涙を流しながら思った。



 きっとこういう時のために存在するんだ。本当の愛は、こういう時だけ感じることが出来るんだ。



 月明かりが彼らを幻想的に照らし出す。チユキたちは何も語らず、ただ愛を確かめ合うかのように長いこと抱き合っていた。



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