黒猫とモンシロチョウ

水玉猫

Black cat and Cabbage white butterfly

 気がつくと、モンシロチョウになっていた。でも、わたしの羽根は真っ白で、モンシロチョウ特有のあの黒い模様がない。だから、まだモンシロチョウではないのかもしれない。なんだか、さみしかった。

 階段のドアの前に、黒猫が座っている。どこかで、甘い花の香りがしていた。

 花の香りにひかれるように、わたしはヒラヒラとドアの前に飛んで行った。黒猫がひょいと、わたしの羽根に前足を伸ばした。おどろいて、飛び退いた。真っ白な羽根に、黒い模様もようが付いている。

 黒猫のおかげでモンシロチョウになったわたしは、もう、さみしくはなくなった。


 昨夜ゆうべ、そんな夢を見た。




***




 わたしの前を、黒猫が横切って行く。夢の中ではなくて現実の通学路を、だ。

 黒猫が前を横切るのは不吉だ。朝から、いやな気分になった。昨日もこの猫は通学路の同じ場所にいて、わたしの前を横切って行ったんだ。だから、あんな夢を見たのかもしれない。

 だけど、イギリスでは黒猫が前を横切ると、幸運の前触れなんだそうだ。昨日、久斗が教えてくれた。

 でも、ここはイギリスじゃない。日本だ。やっぱり、黒猫が前を横切るのは不吉だ。

 昨日だって彼の言葉に反して、全然ラッキーじゃなかった。アンラッキーそのものだった。

 わたしがため息をついた時、急に目の前が真っ暗になった。




***




 久斗とわたしは、同い年の幼なじみ。

 でも、小学校に上がる前に、両親の海外赴任でイギリスに行ってしまった。

 彼が旅立つ前の日に、幼稚園の庭で「お手紙書くね」って二人で指切りげんまんをした。だけど、幼い約束は一度も守られず、久斗とはそれっきりになった。


 それが先月、イギリスから帰国した彼は、わたしと同じ高校に転入してきた。それも、同じクラスにだ。

 久斗はすっかり変わってしまっていた。

 幼稚園の時はわたしよりずっと背が低かったのに、今では、頭一つ分大きくなっている。まんまるだったほっぺもシュッとなって、肩幅もきれいに広くなって、足も長くなっていた。今なら、追いかけっこをしても、すぐに捕まってしまうだろう。小さかった頃は、わたしに追いつけず、べそをかきながら必死で追いかけてきたのに。

 だから、すぐには久斗だとはわからなかった。彼の名前を聞いてさえ、気が付かなかった。

 でも、彼はお昼休みにわたしの前に来て、いきなりわたしの髪のリボンに触れたんだ。

「幼稚園の時と、ちょうちょむすびは、ちっとも変わらないな」


 わたしはその「ちょうちょ結び」という言葉を聞いて、やっと、久斗のことを思い出した。

 だけど、高校生になった久斗にいきなり幼稚園の時と同じようにリボンを触られて、わたしはびっくりして飛び退いた。わたしの心臓は、口から飛び出しそうだった。

 久斗も、わたしの態度に驚いたようだった。

「あれっ? 結菜——」

 彼の声を背に、わたしはそのまま教室から走って逃げた。勢いあまって、誰もいない校舎の裏まで、わたしは逃げた。

 でも、いつまで待っても久斗は、幼稚園の時のように追いかけて来てはくれなかった。




***




 ちょうちょ結びは、幼稚園の時に久斗がわたしにつけたあだ名だ。わたしがいつも髪にリボンを結んでいたから。

「ちょうちょみたいだね、ゆいなちゃんのリボンは」

 まるで本物の蝶々のように息を詰めて、彼はわたしのリボンに触れた。


「そうだよ、ひさとちゃん。ちょうちょみたいな結び方だから、ちょうちょ結びって言うんだよ。なあーんだ、そんなことも知らなかったんだ」


 遅生まれのわたしのおねえさんぶった言い方に、早生まれの久斗はムカッとしたようだった。


「ふーん。だったら、今日から、ぼく、ゆいなちゃんのこと、ちょうちょ結びって呼ぶ」

「いやだ。やめてよ、あたしは、ゆいな!」

「ちがうよ、ちがう、ゆいなちゃんは今からちょうちょ結び!」

「ゆいな!」

「ちょうちょ結び!」


 彼は、意地になって繰り返した。それは、わたしも同じだった。

 言い合いのあげく、久斗はわたしのリボンを引っ張ってほどいてしまった。わたしは大声で泣き出し、幼稚園の先生が飛んできて幼いケンカの仲裁に入った。


 久斗は、その時以来、わたしを「ちょうちょ結び」と呼ぶようになった。

 いくら嫌がっても、そのあだ名で呼ぶのをやめようとはしなかった。しばらくすると、わたしの方があきらめてしまった。彼がわたしを「ちょうちょ結び」と呼んでも、別にそれでからかうわけでも、意地悪をしているわけでもなかったから。




***




 教室に戻ると、久斗はみんなの輪の真ん中にいた。彼が不意にわたしの方を向いた。

 彼と目があった。

 澄んだ黒目がちな目だけは、10年前と変わらなかった。その瞳が、いたずらっぽく微笑ほほえんでいる。

 わたしは目をらし、席に着いた。なんか、泣きそうな気分だった。どうしてだか、わからないけれど。


「ねぇ、結菜ちゃん、黒田くんのこと、知ってるの?」

 二つ前の席の芳川さんが、わたしのところまでやって来た。


「知ってるって、幼稚園の時にだよ」

「それだけ?」

「うん、それだけ」

「だって、さっき、黒田くん、結菜ちゃんに、とっても親しげだったじゃない? もしかしたら、付き合ってるのかと思った」


 芳川さんの予想外の言葉に、わたしは顔が熱くなるのを感じた。

「ま、まさか」


「そっか、良かった! ねぇ、きょうこ、黒田くんと結菜ちゃん、付き合っているわけじゃないんだって」


 やめてよ、そんな大声で! 彼に聞こえたら、どうするの。

 芳川さんは聞きたいことだけ聞くと、真っ赤になったわたしのことなど気にも留めず、友人たちのところに戻っていった。

 わたしは熱くなったほおを両手で押さえ、ちらっと彼の方をうかがった。

 わたしの目の端に映る彼の横顔が笑っている。

 クラスのみんなと楽しげに談笑する彼の耳に、芳川さんの声は届かなかったようだ。

 窓からの風に彼の髪が乱れ、さっき、わたしのリボンに触れたと同じ指で、彼は髪をかきあげた。彼の仕草しぐさは、猫のようにしなやかだった。

 わたしは胸苦しくなって、その日は二度と彼の方には目を向けなかった。



***




 彼はすぐにクラスのみんなと打ち解け、またたく間に人気者になった。おきまりの帰国子女へのやっかみとか反発とかも最初はあったけれど、彼の瞳と同じ、幼稚園の時からの大らかで人懐っこい性格のせいで、すぐに先生たちからもクラスメートたちからも好かれるようになったんだ。


 そして、わたしは何人もの女子から、彼への想いの橋渡しを頼まれるようになった。

 同じクラスだけじゃない、隣のクラスの子たちにもだ。そのたびに久斗とは別段親しいわけじゃないと断ったけれど、気の弱いわたしは結局は渋々引き受けることになった。

 だけど、それは久斗に話しかける大義名分ができたわけで、堂々と彼のそばに行けて、わたしは少しだけ、本当に少しだけ、本当に本当に少しだけ、うれしかった。


「まあね。ちょうちょ結びの顔をつぶすわけにもいかないしさ」

 彼は肩をすくめ、伝言やラインのアドレスを受け取った。


 でも、わたしは、そのあとはどうなったのかは知らない。本当は知りたかったけれど、知るのが怖かったんだ。彼も、いちいち、わたしに報告はしなかったし。


 そのうちに、朝、バスを降りてからの通学路で、彼といっしょになることが多くなった。でも、別に話すこともなくて朝の挨拶だけして、後になり先になり黙って二人で学校まで歩いた。

  

 ある日、珍しく、彼とはいっしょにならない朝があった。

 それもそのはずだ。わたしのだいぶ前を、彼と芳川さんが並んで歩いていく。芳川さんは、何気なく腕を伸ばし、彼の手を握った。二人は、しばらく手をつないで歩いていた。

 ああ、二人は付き合いだしたんだ。わたしは、胸がチクンとしたけれど、なんだか、ホッとした。これで、ピリオドだ。彼への伝言を頼まれることも、彼と朝、通学路でいっしょに歩くことも。


 わたしは次の日から、バスを一本早くした。

 早いバスにすると、通学路には生徒たちの数も少なくなって、代わりにあの黒猫をしばしば見かけるようになったんだ。

 黒猫は、いつも同じ家の玄関の階段に座っていた。はじめはその家の飼い猫かとも思ったけれど、どうやら、そこは長い間空き家で誰も住んでいないようだった。




***




 それが昨日、どんな気まぐれか黒猫がすっと立ち上がり、わたしの前を横切って行った。


「今日は、ラッキーだ」

 振り返ると、久斗が歩いてくる。

「おはよう、ちょうちょ結び」


「おはよう。黒猫が前を横切ると不吉なんだよ」

「日本ではそうだろうけど、イギリスだと幸運の前触れなんだ。だから、今日はラッキー」

「でも、ここは日本だよ」

「確かに。ちょうちょ結びがいるもんな」


 彼は、笑った。それから、スクールバッグの中から、何か取り出そうとした。うつむいた彼の顔には、幼い頃の面影おもかげが残っていた。

 なんだか、幼稚園の時に戻った気分になって、わたしは久斗に笑われたことがちょっとしゃくさわった。


「久斗くん、一人なんだね」

「えっ、一人って?」


 彼は手を止めて、わたしを見た。


「だって、この間——」

「一人じゃないよ。二人だよ。ちょうちょ結びといっしょだから」


「黒田くーん」

 甘えた声が追いかけて来る。あの声は、芳川さんだ。


 彼はスクールバッグから出しかけたものを引っ込めた。


「どうして、わたしに黙って違う時間に登校しちゃうのよぉ」


 わたしは、彼と芳川さんから逃げるように足を早めた。早足というより、駆け足だ。


「あっ、おい、ちょうちょ結び!」

 慌てて呼び止める声は聞こえたけれど、やっぱり彼は幼稚園の時のようには、わたしを追いかけてはこなかった。


 席に着いてしばらくすると、久斗と芳川さんがいっしょに教室に入って来た。


 黒猫が前を横切ると、ラッキーだなんて、大嘘だ。ここは日本だ。イギリスじゃない。アンラッキーもいいところだ。

 わたしは何もかもを、あの黒猫が前を横切ったせいにした。

 それで、昨日は一日中、黒猫に腹を立てていた。そのせいで、夜、黒猫とモンシロチョウの変な夢まで見たんだ。




***




 寝覚めの悪かったわたしは朝ごはんを食べる気にもなれず、家を出た。だから、さらに一本早いバスに乗れた。ちょうどいいや。久斗にも芳川さんとも顔を合わせずにすむ。

 バスを降りてのろのろ歩いていると、朝練の陸上部が追い抜いて行った。そのあと通学路には、だれもいなくなった。

 昨日と同じ場所まで来ると、黒猫がまた前を横切って行く。今日もまたアンラッキーな一日になりそうでいやな気分になった。

 溜め息をついた途端、目の前が真っ暗になった。だれかが後ろから両手で、わたしに目隠しをしたんだ。


「だーれだ」

 目隠しをした誰かが言った。


 わたしは、必死でもがいた。その暖かい手をどうにか振り払うと、久斗がなかあきなかば困った顔で立っていた。


「ちょうちょ結びは、リアクション激しすぎ。おれだって、わかってるだろ」


 そう言われたって、困る。わかるはずはないじゃないか。心臓がバクバクだ。

 その時、黒猫が戻ってきて、今度はわたしたち二人の前を悠々ゆうゆうと歩いて行った。


 彼は黒猫を見ると小さな声で「うん、ラッキー」と昨日のようにつぶやいて、ポケットから素早く封筒を出した。

 日に焼けてしわくちゃな封筒の表面には、幼い文字で「ちょうちょむすびさま」とだけ書いてあった。


「おれ、針千本のむの、いやだからさ」

「えっ」

「約束したじゃないか。手紙書くって」

「あっ」

「これ書いたの、指切りげんまんした日の夜。大事なことを書いたんだから、おれ、その夜から、ずっと直接、手渡したかったんだ。ちょうちょ結びに、また会って。でも、せっかく会えたのに、なかなか、渡しづらくてさ。昨日、やっとラッキーチャンス到来と思ったのに、ジャマが入って渡しそびれた。けど、今日は受け取ってくれるよな」


 見上げた彼の黒い瞳には、夢で見た黒猫がいた。そして、その黒猫にはモンシロチョウが止まっている。彼の瞳に映っているわたしの髪の白いリボンだ。


「あっ、えっ」

「おい、ちょうちょ結び、なんで『あっ』とか『えっ』ばっかりで、受け取らないんだよ。そんなにおれに針千本、のませたいのか」


「あっ、ううん。針千本、のまなきゃいけないのは、わたし。わたしも手紙出さなかったし」

「うん。そうだよな。ちょうちょ結びも、針千本のみたくなかったら、受け取って返事書いてよ」彼はいったん言葉を止めた。そして、少し小さな声になって続けた。「どんな返事でも、いいからさ」


「うん。わかった」

 わたしは、彼から手紙を受け取った。


「ありがとう、ちょうちょ結び。あっ、髪のリボン、曲がっているよ」

 彼はわたしの髪のリボンを直そうとして腕を伸ばしかけて、ハッとして手を引っ込めた。彼のほおが、わたしのほおと同じようにみるみる赤く染まっていく。

 

 二人の恋が始まる五分前。

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黒猫とモンシロチョウ 水玉猫 @mizutamaneko

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