第7話 餌たちの追憶(中)

洞窟を少し進んでカイサは振り返った。


歩いてきた道に点々と松明が灯っている。

そしてその先、降り積もった白雪のような光の垂れ幕がここと外の世界を遮断している。

何一つ未練を残さない、感じない、向こう側の世界。


しかし一つだけそんなカイサを引き止めるように、それはまるでキャンバスに滲んだ水彩絵具のように、茫漠と彼女の心に、名残惜しむように、その言葉が広がっていく。





――声が聞こえる。誰かが私を呼ぶ声がする。


『ねえカイサ。私達が誰のために生きているかって考えたことある?』





「カイサ。こっち」

仲間の死狼餌に手を引かれる。それは寮にいる死狼餌達が完全に寝静まった真夜中のこと。


とっくにカイサ達は寝部屋に戻って就寝していなければいけない時間だった。

カイサは寝返りを打つだけで腕を打ち付けてしまうほどに狭い備え付けのベッドに横になっているときに声を掛けられた。


彼女はミチという名前だった。顔見知りだ。しかしミチはこの死狼餌食肉加工工場に隣接した寮に来てまだ日の浅い言わば新顔。

そのためカイサは彼女とは一度も会話をしたことがなかった。


「何?」

「いいから」


カイサはミチのすぐ後ろにぴったりと張り付き後を追う。

鉄格子のはまった窓から冴え冴えしくも蒼白い月の明かりが漏れている。

カイサは眠気に漏れたあくびを噛み殺し、半分まどろみながらも、無関心とばかりに目に冷えた光を宿らせる。


ミチは寝部屋を出て通路の先、看守の休憩室の前で止まり、そしてどこでくすねてきたのかその部屋の合鍵を取り出した。


「ちょっと何やってるの?」


突然の暴挙で首と視線を周囲に忙しなく動かすカイサに反して、ミチはおどけながら軽く舌を出し、愛らしく笑う。

「看守に体売って一週間だけ借りたの。大丈夫」

本当なのか冗談なのか分からない言葉を明朗に口にすると扉を開けカイサを部屋へと招き入れた。


カイサは足元を確かめるように中へと足を踏み入れるが、中は誰もおらずただ闇しかない。

部屋の隅の小さな窓から差し込んだ月の光が床を四角く切り取ったように照らすだけだ。


カイサのすぐ後ろで明かりが灯った。ミチが蝋燭に火を点けたのだ。


狭い部屋。四人掛けの机と椅子だけが真ん中に寂し気に置かれ、その殺風景な部屋をミチがキャンドルスタンドの蝋燭の光とともに進行していく。


その部屋の奥――天井まで届く壁の棚にお酒がずらりと並んでいた。ウイスキーやワイン、ラム酒、ビール。酒屋を連想させるほどの品揃えだ。


看守達が週に一度、仕事終わりにここで一晩飲み明かすことは前から知ってはいたが、これほどまでに多くの酒があることを流石のカイサも把握していなかった。


「ようこそ楽園へ!」

「何が?」


活き活きとした抑揚で発せられたミチの言葉を聞き、カイサは不快そうに鼻白む。

こんな夜更けに危険を承知で自分をここに呼び出した理由を目の威圧だけで問い詰める。

ミチがそんなカイサの鋭い目をじっと覗き込んだ。


「カイサはお酒飲んだことある?」

「さあ」


興ざめした声で受け流すがミチは過ぎるほどに場の空気を読まず、そのまま鼻歌交じりに棚に近づくと並んだ酒を手に取った。

「こう見えて私、結構お酒強いんだ」

「で、何?」


ミチは酒瓶をカイサに押し付けるように突き出すと眩しいほどに破顔する。

「ちょっとだけ付き合って?」

「何で?」

「一人で飲んでも美味しくないし。ねえ、いいでしょ?」

「嫌だ」

「えーせっかく苦労して鍵、手に入れたのに」


ミチは大げさに落胆した。しかし依然として目尻を下げている。一度もしゃべったことがないのに馴れ馴れしいことこの上ない。


なんだこいつ。


カイサはくるりと反転して部屋を後にしようとする、が肩を掴まれた。左肩を鷲掴みにされて物凄い力で引き止めてくる。

「離してよ」

カイサは手を振り払いミチをねめつけたが、そこにはさっきと打って変わって表情の重いミチがいた。


「ごめんなさい。実は大事な話があって、それでここに呼んだの。出来れば二人きりのときに話したい」

すがるような声。瞳が揺れている。何かわけありの様子だ。


「分かった。手短に済ませて」

素っ気ない返しだったが、それでもミチの顔には安堵の色が広がった。また無神経の極まった厚かましい笑みを浮かべる。


「実は私ね、あなたを日頃から見てて、それで言わなきゃって思ってたんだけど……」

「早く」


その言葉でミチは意を決したように大股で移動して、部屋の隅まで歩いて行くと何かを引っ掴んでこちらに戻って来た。

そして彼女がロケットペンダントを差し出す。


「これ」

その手に握られたロケットには白黒の写真がはめ込まれていた。

吸い込まれたカイサの目線の先に綺麗な女性が写っている。ミチは得意気に鼻を鳴らした。

「この写真、この人、あなたのお母さんよ」





ミチは二週間ほど前にここに来た。

死狼餌は他の死狼餌と人間関係を築くことを禁じられている。そのせいで頻繁に場所を移される。

ミチは死狼餌としてここに移送される直前にカイサの母親に会いこのロケットを受け取ったと事の成り行きを語った。


そしてミチはカイサの母親は自分のことを娼婦だと言っていたとも話した。

カイサは客との間に出来た子供で養う金もなく孤児院へと捨てるしかなかったのだと。


そしてその後、たった半年で孤児院は経営難で潰れてカイサはここに連れて来られたというわけだ。その話は聞けば聞くほど真実味があった。


カイサは飲みなれていないラム酒の瓶を口に持っていき控えめに傾けた。そして急いで飲み込み軽くせき込む。


「カイサやっぱりお酒初めてなんだ」

さも、面白そうにこちらを窺う。カイサはこくりと頷く。

「何がおいしいのかさっぱり」

カイサは遠ざけるようにラム酒の瓶を机に置いた。


「あそこのお酒は多分カイサも気に入ると思うよ」

ミチは鍵の掛かった棚を指さす。

「〝恍惚酒〟?」

「実は私、あそこの鍵も持ってるんだ」

いやいい。と呟く。恍惚酒を飲むと流石にやばい。朝まで動けなくなってしまう。


「で、私のお母さん……」

そう言ってカイサは頬を赤らめた。

「その女なんて言っていたの?」

ミチはカイサが言い直したのが可笑しかったのか忍び笑いをして見せる。


「凄く綺麗な人だったよ、カイサのお母さんって。ここに来てカイサの顔を初めて見たとき思わず納得しちゃったもん」

噛み合わない話にカイサはイラつく。わざとやっているのか?


「ああ、ごめん。カイサを孤児院に捨てたこと本当に反省してるって」

カイサはなるほどと頷いて話を促した。

「他には?」

ミチはきょとんとする。

「え?それを伝えてって言われたんだけど……」

「それだけ?」

カイサはしばし呆気にとられ、それから思い直して再び質問する。


「私の父のことは何か聞いた?」

その瞬間、ミチの目が憎悪に染まる。

「クソ野郎、だってさ。凄く嫌な客だったって、そう言ってたよ」

ミチはなぜか怒気を孕んだ声で冷たく吐き捨てた。そしてごめんと気づいたように付け加える。


「男に娘を引き取らせるのは嫌だって、その男に自分が会うのも嫌だって、なんだか言いわけがましいけど、でも……」

ミチが引きつったように口角を上げ、それから埋め合わせするように言う。

「でも、カイサのお母さん凄く謝ってたよ。後悔してるって……」



「後悔してるのはこっちだよ」



それは小さい声だった。カイサは口もほとんど動かしていなかった。

「え?」

ミチはその言葉の意味が分からないのか素で聞き返す。


「ずっと生まれたことを後悔してきた。なぜ生まれてきたのか考えていた。いままでずっと考えていた。生まれてきたことに意味はあったのかって」


カイサは泣いていた。


「ま、待って!」

ミチは頭を抱え思い出したようにロケットを差し出した。


「このロケット渡してって、カイサに受け取って欲しいって、だってほら、ここ見てよ?多分だけどお母さんはカイサのこと……」


「もういいよ!」


カイサはその場から逃げ去ろうとする。それでもミチはカイサの腕を捉まえた。


「ごめんなさい。私まだここに来て日は浅いけど、あなた餌達の中でいつも一人だった。孤立していた。だから、私……こんな話、言わない方が良かった」


カイサはその手を強引に振り放すとミチを残し無言でその場を離れた。



『カイサはお客さんとの間に生まれた子供なんだって』

『カイサを孤児院に捨てたこと本当に反省してるって』

『クソ野郎だって。凄く嫌な客だったって言ってたよ』

『お母さん凄く謝ってたよ。後悔してるって言ってた』


聞けなかった。その人が〝そうだと〟言っていたのか聞けなかった。一番聞きたかった言葉。確かめられなかった。


でも、もし仮にそうじゃないとしたら、私が生まれてきた意味がなくなってしまう。生きる意味がなくなってしまう。

怖い、何もかも。生きるのも、死ぬのも、怖い。





次の日、カイサは食堂へと向かっていた。

食堂の入り口で二人の看守が立ち話をしている。


「隣の町の加工工場が襲撃されたらしい」

「被害は?」

「その場にいた者は皆殺し。家畜死狼の魂胞を根こそぎ奪われたそうだ」

「今年で何件目だ?」


二人とも気が気ではない様子だった。次に襲撃が起こるのはこの工場かもしれない。そう言いたげだった。


死狼の不思議な力は魂胞と呼ばれる器官から生み出される。

魂胞は魂と肉体を分離、消化、吸収、生命力へと変換、蓄積、最終的に自らの魂へと〝昇華〟する。

この工程を一手に担うのがこの魂胞だ。


『人の生命力』の抽出は蒸気機関を動力とした遠心分離機(遠心力で目的物を分離する機械)が用いられた。


抽出された『人の生命力』は一応液体だが、それは既に死狼の魂胞で消化され、原形を留めておらず『人の生命力』の正体自体は偉い学者達も頭を捻るばかりだ。


しかしそれは意志の力とも呼ばれていてどうやら人間の心が関係しているのだという。

また魂胞から様々な物が作られた。


万能治療薬、延命剤、栄養剤、ドーピング、強い恍惚感を煽るお酒(恍惚酒)、覚せい剤、さらには特殊武器、噂によると人間兵器まで作られているらしい。


どれも蒸気機関が主流の今の時代ではとても作り出せない代物だった。

そして延命剤と栄養剤と恍惚酒があれば永遠の幸せが手に入るとまで言われ、これらは普通、世間一般の庶民の手には広く行き渡らない。


死狼の魂胞は人々にとってとても貴重なのだ。


食べ物を受け取り大人数が座れる縦長の大きなテーブルに着席する。

皿には穀物をペレット状にした主食(穀粉を小粒な棒状に圧縮し固めた物)と吐瀉物のようにドロドロのオートミールスープ(お粥のような物)に鶏肉の切れ端を入れたいかにもまずそうな食べ物が載せられていた。


「この裏切り者」

カイサのすぐ隣にいる少女がぼやく。

「カイサは一度、餌から離れた。裏切り者だ」

周りの少女達は席を離れ違うテーブルへと移った。


「このご飯、芋虫が入ってる。嫌だ嫌だ。」

室内に大声が響き渡る。カイサが振り返るとすぐ後ろで看守に無理やり食事を取らされている少女がいた。これもまた馴染みの光景だ。


カイサはペレットを一つまみだけ取るとコップの水の中に入れた。水が白く濁る。


「何してるの?」

目の前にはミチがいた。不思議そうにコップを覗き込んでいる。

カイサはぶすっとして言った。

「肥満薬を溶かしてる」

「どうして?」

「太れば太るほど肉を削ぎ落す時間と回数が増えるから」


カイサはコップからふやけたペレットを取り出し口に運ぶ。


「でも削ぎ落されている間、私達は特殊麻酔薬で意識がないでしょ?」

「副作用で幻覚が見えるようになる麻酔をそんなに沢山注射されたいならどうぞ」


カイサはスープを飲みながら親指を立てて後ろを指した。

さっき芋虫が入っていると騒いでいた少女は看守に押さえつけられたようだ。彼女がスープをすする音がする。


「あの人いつも騒いでるもんね」

ミチが苦笑する。特殊麻酔薬には幻覚が伴う鎮静作用も含まれていることを知っていたようだ。

ミチに構わずカイサはオートミールから鶏肉の欠片だけ捨てると、黙々とスープを口に運ぶ。そんなカイサに対面してミチが腰を下ろした。


「ねえ、この話知ってる?」

ミチが不敵な笑みをもらす。


「最近、とある町で民衆が暴動を起こしたの。理由は死狼の長寿の力を貴族が独占していたから、だったかな」


カイサはその話を知っていた。はっきり言って嫌いな話だ。しかしミチはそんなカイサにお構いなしで続けた。


「対応を迫られた政府は各地から美しい容姿の死狼餌の少女達を集めた。その少女達を民衆の慰み者にすることで暴動の鎮静化を図るためにね。そして民衆が捌けた次の朝の町には、死狼餌の力でも復元できない程に激しく体を損傷した少女達の遺体が数体だけあった、とかいう話」


カイサは適当に相槌を打った。


「でね、私聞いたの。ここに、この町にその美貌から真っ先に慰安従事者に選ばれ、しかし再生能力が高いことから餌としての有用性を認められ慰安には携わらなかった死狼餌がいるって」


ミチは周りの死狼餌の少女達を見回してからカイサに向き直った。


「それ、あなたでしょ?」


カイサは答えない。

「やっぱり図星だ」

意地悪ににやつきながらミチは言う。

「もう一つあなたの噂を知ってる」

食事を切り上げカイサは席を立った。


「あなた、死狼餌になってからの二年間の内、約半分は金持ちに容姿を気に入られ養子になっていたって聞いた。なぜあなたが今ここに居るのかは知らないけど、それは本当?」


カイサは立ち止まった。


「ええ」


「私も生まれてすぐ餌として売られた。ずっとここみたいな、ここよりはましだけど、孤児院よりも劣悪な施設で十五歳になるまで育てられた。教育もまともに受けていない。そして死狼餌になって四年間あちこちの加工工場を転々とした。外の世界を全く知らない」


ミチの目は潤んでいた。


「幸せだった?少しでも夢を見れた?」


「まあね」


素っ気ない返しを残してカイサは自分の部屋へと向かった。

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