―Ⅲ― 死狼の森

第9話 クシの救出

その洞窟は奈落のようにただひたすら深かった。


カイサが進むたびに両脇の松明が灯っていく。後ろの松明はちょうど三つほど灯った所で次々と消えていった。


洞窟は真っすぐではなく、しかし一本道で、横だけでなく上下にも伸びている。

そしてそれは地中深くに潜っていくことが分かった。


開けた場所、といっても洞窟より少し広いだけで、入ったことはないが恐らく教会の聖堂ほどの大きさもあるだろうかという空間へと行きつく。


目に留まるようなものはとくになく中心に水が溜まっているだけだった。地底湖というものだろうかとカイサは首をひねる。


地底湖は地下水が溜まって出来た湖でその深さは深いもので数十メートルにも及ぶと言われているが、カイサの時代ではまだまだ地底湖は未開の場所だった。

まだ洞窟探検そのものがそこまで盛んではなかったとも言える。


次々と後ろの松明が消えていき、カイサは次の松明を探してその空間を隅々まで眺めたが、そこにはごつごつとした小ぶりな岩が転がっているだけ――。


これで終わり?


カイサは明らかに落胆した。

まるで自分が探検家にでもなりこの世の未知と遭遇しようとしているかもしれないという期待は儚くも崩れ去ってしまったわけだ。

そうしているうちに松明が全て消えた。カイサは慌てて立ち上がり記憶を頼りに松明の元へと向かう。


ガラッ。


嫌な音。足がもつれ体幹が傾きカイサの体が宙を舞う。

鈍く重い水が弾ける音とともにそのまま水の中へと引きずり込まれる。カイサは地底湖に落ちたのだ。


カイサは初め何が起こったのか分からなかった。

分かったのは大量の水が肺に入って来たときだった。

カイサはろくに泳げなかった。いままで泳ぎを教えてくれる人がいなかったのだ。


蟻地獄に落ちた虫のように手足をバタつかせる。しかしその手は水面から出ずに、ただ重い水を掻き、カイサの体はどんどん沈んでいく。


「ゴボッ、ゲホッ、ゲホッ」


突然、カイサの口からむせ返ったような咳が出た。それはカイサが呼吸していることを意味していた。

カイサが喉をひくつかせ、喘息のように尾切れトンボな呼吸と咳を繰り返す。


カイサは依然として水中にいたが顔の周りには水がなかった。

大きな気泡がカイサの顔を包み込んでいる。どういうわけか自分は水中で大きな空気の塊に守られて溺れずに済んでいる。


何か光が見えた。赤い光。カイサが腕を広げても両端まで到底届かないほど広い縦穴に赤い鉱石、クリスタルが生えていた。

それは爪のような大きさのものからカイサの胴体ほどのものまで様々。死狼の目、血を垂らしたように赤い目を彷彿とさせる発光体。


カイサは不思議と冷静だった。


この洞窟で超常的な何かが起こることは入ったときから既に分かっていたからだ。それでもカイサはただ重力に身を任せ沈んでいくしかない。

そこはやはり深かったが、暗闇ではないのはせめてもの救いだ。クリスタルが淡く光っている。


「綺麗」


死にかけたのに呑気なものだ。

しかしカイサの目は魔法にかかったようにその光に魅了され、その光が反射し輝く彼女の目もまたひときわ美しかった。


赤い光がカイサを包み込み始めてから五分ほど経っただろうか。急に足元の水がなくなりカイサはそのまま落下した。


着地が尻もちだったのは高さが彼女の身長ほどしかなかったからだ。

上を見るとさっき落ちてきた場所に水が張っていた。水面が宙に浮いて波打っていて、見たところそれは完全に物理法則を無視していた。


ここはやはりただの洞窟ではない。


上にはその空間を圧し潰すように上から平らな大岩が迫っている。

しかし身を屈めるほど狭くはなく地面にはやはり大小様々な赤いクリスタルがあった。


前方の大岩と地面の切れ目から光が見える。カイサはその光に若干目をつむりながら進み大岩の裂け目を潜った。


思わず感嘆の声が漏れる。それはその光景に対してあまりに控えめな感動だった。

カイサらしい反応と言えばそれまでだが、しかしそれは控えめ過ぎた。




――――――楽園。




ミチの言っていた言葉を思い出す。


そこには雄大な大地が広がっていた。


湧き立つように瑞々しい草が生い茂り、町一番の時計台よりも太く絡み合う木の根が抽象彫刻のように天から地へと伸び、天高くから段を成した滝(地下水)がその木の根を伝うように流れ、幾つもの光の筋がその空間を装飾していた。


天辺を仰ぎ光が差し込んだ場所を見るとそこにこれまた巨大な水が張っている。

どうやらここの上は湖か何かで地上と繋がっているらしい。光源は単純にその湖を突き抜けてきた太陽光だろう。


水底に差し込む光、拡散した大きな集光模様がオーロラのように大地で揺れている。そしてその光景を更に神秘的なものへと仕立て上げている存在があった。


建造物だ。壁面に埋め込まれた建造物がいくつも連なっている。

建造物は石で出来ていた。幾千もの小窓が開いている。カイサはここまで巨大な〝石〟で出来た建物は見たことがなかった。


「すごい」


またまたカイサは感動の声を上げた。

カイサは迫るように屹立する石の建物や巨大な木の根を見比べるように目を動かし進み始めた。


やはりここにも赤いクリスタルがあった。しかし大きさはさっきの物とは比べ物にならないほどに大きい。

何個もの赤く淡い光を放つ結晶。樽ほどの大きさもある結晶が弾けた瞬間の火花を模ったように隆々と生えている。クリスタルの森。


「いつ見てもこの命の輝きは神々しい。そう、思わんか?」

「そんなことに興味はない。それよりも取引だ。魂湖をよこせ」

「聞け、狂死よ」

「永死、取引だ」


声が聞こえる。カイサは辺りを見回す。

その空間の中心に大きな窪みがあった。そこに湖だろうか。水が張っている。赤い水の湖だった。


血だまりを思わせるように赤い。丁度、そうここにあるクリスタルのような赤さ。そしてその中心に醜い肉隗がいた。


肉隗が体を磯巾着のように震わせる。いやまんま磯巾着だ。木の幹のような肉の塊の上に触手が何本も伸びている。


そしてその磯巾着を取り囲むように狂死と悲死、楽死がいた。磯巾着は大きく、そのシルエットはまた大木にも見えた。


「取引だ、永死。人間の魂を持ってきた」

「まあ、待て狂死」

「取引だ」


磯巾着は永死と呼ばれていた。狂死と押し問答をしている。狂死は魂湖と呼ばれるものがどうしても欲しいようだ。


不意に悲死が鼻をひくつかせカイサの方を見た。カイサは尻尾を踏まれた猫のように飛び上がり赤いクリスタルの影へと隠れる。


クリスタルから顔を出し恐る恐る覗くと悲死はまるで関心がないように目を背けていた。


「人間の魂を持ってきた。十人分の魂器だ」

そう言うと狂死は赤いクリスタルを次々と口から吐き出した。それは十人分というだけあり十個あった。


大きさはカイサの両手でやっと包めるほど。この周りに生えている赤いクリスタルはどうやら魂器という名前のようだ。


「お前は人間の魂三人分につき魂湖の水一口と言った。だが端数が出る」

「で?なんだ」

「三口も魂湖の水を飲めば死狼は心すら得ることが出来る。元々悪くない取引だった。だが更にまけてもらう」

「出来ない。取引は取引、約束は約束だ」

「分かった。いいだろう。三口だ」


カイサの生存本能に何か直観のようなものが訴えかける。

逃げろ。

カイサは巨大な魂器をはしごして音もなく元来た道を戻る。と、唐突もなく楽死が言った。



「永死、良いものを持ってきた。〝餌〟だ」



「おい、黙っていろ。あれは俺達のものだ」

「しかし、狂死」

「なんだ?」

永死が不思議そうに語尾を上げる。

「なんでもない。気にするな」

しかし、それまで黙って聞いていた悲死が急に不満を爆発させた。

「話が違う。確かに〝餌〟はいくらでも肉を食べれるが魂は一つだ。狂死、取引しろ」



カイサは足を止める。

餌?もしかして――。



「頼む、狂死。取引してくれ。〝餌〟より沢山の人間の魂を含んだ魂湖の水の方がよっぽど美味い」

どうやら二匹とも日頃の鬱憤が溜まっているようだ。

「分かっている。だが少し相手の出方を窺う」


それは小声だったが明らかに永死に聞こえるように言っていた。永死は俄然興味をそそられた様子だ。


「なんだ?狂死言ってみろ」

永死の磯巾着から死狼の顔が浮かび上がる。体毛はなく生々しい皮膚をしていた。

「その前に聞く。お前はまだ永遠の命を欲しているか?」


カイサはナイフを抜くと先端に巻いていたスカートの切れ端を解き、さっきの魂器の場所まで足早に戻る。

ここが狂死達に近づけるギリギリの距離だった。


そのときカイサは取引をしている死狼とはまた別の死狼を発見した。

そいつもまた別の巨大な魂器の影に隠れている。カイサとは位置が離れ、二人は時計の文字盤で言う十二時と四時の関係にあった。


その死狼は用心深いようでカイサよりさらに狂死達から離れた位置にいて可哀想なほどに老いさらばえていた。


「永遠の命――。もちろんだ。そのため、俺は魂湖を独占し、魂器を集めている」

「ならば、死狼餌に興味があるはずだ」

永死は物珍しげに首をひねる。

「死狼餌……死狼餌は不死身の死狼の魂を〝魂砕〟して作られたと聞く。死狼餌はその生命力を受け継ぎ、それ故に(半分)不死身だと」


死狼餌については永死も知った風な口だったが、話の先が見えて来ず依然として探るような口ぶりだ。

狂死も話の核心にはまだ触れずに更に永死の好奇心をくすぐる。


「魂砕というのは魂を砕いて相手の生命力をそっくり丸ごと取り込むことだろ?そしてお前は魂を魂砕出来る数少ない死狼だ。不死身である死狼餌の魂は喉から手が出るほど欲しいはず」


狂死が言い終わるが先か、永死は目の色を変えた。

何かが確信に変わったような、期待していた以上の何かと不意に遭遇した。そんな驚愕が面に生々しく浮かぶ。


「死狼餌の魂を魂砕出来れば、その生命力は俺の寿命をより永遠へと近づける……が……まさか死狼餌の魂を持っているのか……?」


「魂だけじゃない」


狂死は得意気に鼻を鳴らすと楽死に合図する。楽死は口が裂けるほど笑ったかと思うとそのまま顎を外し何かを勢いよく吐き出した。


そこには見慣れた少女がいた。カイサはその少女を知っていた。なぜならその少女はカイサが生まれて初めて真の意味で心を開いた人間だったからだ。



クシ!やっぱりだ!やっぱり生きていた!



胸が上下している。意識こそ失っていたが、しっかりと呼吸していた。

「見ての通りこの死狼餌はまだ息がある」

「よこせ」

間髪入れずに永死が体を傾げ身を乗り出した。

「取引は取引、約束は約束、だな?」

「いいだろう魂湖の水の四分の一をやる。取引成立だ」


最早即決の取引だった。


永死の顔には逡巡の色は微塵もない。悲死と楽死が目配せして腹黒い笑みを浮かべる。狂死達の思惑は全てが思い通りに運んだと見えた。


突如として赤い湖の水面が音とともに割れた。それは切り取られたパイの切れ端のようだった。

これが狂死達に与えられた四分の一の魂湖なのだろう。切り口は深く、どうやらこの魂湖という湖の水深は相当深いようだ。


「きっかり四分の一だ。これはもうお前のものだ。俺の〝肉根〟もこの四分の一の魂湖には触れていない。これからは俺もこの水は飲めない」

永死は早口でほぼ一息に言い終える。狂死は一世一代の取引を終えたことにようやく胸を撫で下ろし、仕上げに自分の取り分を確認すると悲死と楽死に言った。


「永死は今からこの死狼餌を魂砕する。魂砕の〝黒光〟に触れないようにこの死狼餌から離れておけ」

悲死と楽死は断る道理もなくクシから離れる。狂死もまたクシから離れた。クシの周りには今誰もいなかった。


はす向かいにいる老いた死狼が身を乗り出す。

「なんということじゃ……」

そこでその死狼とカイサは目が合った。死狼が思わず声を上げる。こんなところに人間がいるとは思いもしなかったのだろう。


「誰だ?」

永死は魂砕しようと伸ばしていた肉根を退けた。

「悲死、楽死見てこい」

こんな些細なことで取引を中断させてなるものか、と狂死の声色に危機感が募った。悲死と楽死が即座に応じて老いた死狼の元へと向かう。


「あいつらに任せて俺達は取引の続きだ」

狂死は媚びへつらったようなゴマすり声だったが、永死はやはり声の出どころが気になるらしくなかなかクシに目を向けようとしない。

カイサはしきりにそれぞれの死狼達に目を配る。


悲死と楽死は完全に反対側。狂死もクシから離れている。その上永死もクシを見ていない。助けるなら今しかない。

でも途中で気づかれたら間違いなくクシの元へはたどり着けない。助けられるという保証はない。


カイサは弱々しく視線を落とした。


自分は狂死には勝てない。負けたら死ぬ。それだけじゃない。全てが無駄になる。この十七年間、餌として苦しい日々を送って、それでも生きることを諦めなかったこと。


仕方ないことだ。自分は非力だ。もし仮にクシが自分だとしたらクシも私を助けないだろう。これではただの犬死だ。全員の関心があの老いた死狼に向いている今、逆にこれが逃げる最後のチャンスだ。


カイサは歩き始めた。


私は何のために逃げるんだろう。生き残るため?幸せになるため?ならばなんで生きたいんだろう。逃げれば幸せは手に入るんだろうか?



カイサはクシのナイフを見た。そこにはカイサの顔が映っていた。その顔は全てを物語っていた。

カイサの目から光が消えている。何もかも諦めている目。戦うことをやめてしまった目。十七年間、餌としてあの場所にいたときにいつも自分や仲間達がしていた目だ。


カイサは手汗の滲んだスカートの切れ端をナイフを握った手にぐるぐる巻きにして固定する。


……違う。


助けられるか助けられないか、それは問題ではない。

もし今ここでクシを見捨てれば私は一生そのことを悔やむ。



永死はようやくクシに向き直り魂砕と呼ばれるものを始めようとしていた。一本の触手のような肉根がクシに触れる。肉根の先が黒い光を放った。



どうやって生き残るか。いかにして死なないか。それも違う。カイサは飛び出した。


これだけは言える――


『自分に失望し自分を信じられないまま生きる』


――そんな生き方私には耐えられない。




狂死がカイサに気づいた。悲死と楽死も気づいたが二匹はあまりに遠い。

狂死が物凄い形相で突進し腕を振り回す。カイサは避ける、が横腹を引き裂かれた。それでもなおカイサは突っ走る。クシに手を伸ばす。


その瞬間頭が真っ白になった。


体を強く揺さぶる衝撃。それは頭にある全てが吹っ飛ぶほどの衝撃だった。気づくとカイサは倒れていた。何が起こったのか分からない。近くに黒光を纏った肉根が跳ねるのを見てカイサは絶望した。



――私は、クシを助けられなかった。



カイサは魂砕の黒光を纏った肉根に飛ばされていた。

クシに触れた瞬間、木の幹ほどの太さもある肉根に弾き飛ばされたのだ。肉根から長いトゲが突き出しカイサの血と思われるものが付いていた。


カイサの目が赤く光り、引き裂かれた横腹と一緒に肉根のトゲに貫かれた傷が再生する。それを見て狂死が笑った。


「死狼餌だ」

「狂死、捕まえるぞ」

狂死、悲死、楽死が一斉に襲い掛かった。

しかしそこに滑り込むようにさっきの老死狼が割って入った。侶死だ。


「じじい!邪魔だ」

楽死が食ってかかる。


「ずっと見ておったがもうよいじゃろ。四分の一も魂湖の水があればこの森の心を持つ死狼達が人間の魂に飢えることはない。少なくとも千年近くはここら一帯の死狼達が人を襲うことはなくなる」


「侶死。お前には関係の無いことだ」

と言った悲死に至っては、目の前でまな板の鯉となったもう一人の〝取引の種〟に釘付けで侶死のことなど眼中にない。


「いや悲死。もう人殺しは必要ないと言っておる」


見かねた狂死が地響きを上げ侶死へと一歩前進、七面倒くさいとばかりに吐き捨てた。

「お前は分かってない。俺が魂湖の水をお前達に分け与えると思うか?五十年前の不死の取引もそうだ」


「なんじゃと?」

「その死狼餌は俺の配下の死狼を納得させるための手土産として使わせてもらう」


「死狼餌じゃと?」

愕然としてカイサを見る。


「どうだ侶死。なんならお前にその死狼餌をやってもいい。今ここで見たこと聞いたこと全て忘れるなら」


この侶死という死狼を手玉に取ろうとしていたようだが狂死の言動は逆効果だった。侶死はまるで狂死を汚物でも見るような侮蔑の目で見据えると永死にすがるように言う。


「狂死はこんなたわけたことを抜かしておる。これでよいのか?」

「取引は取引、約束は約束だ。取引はもう既に成立している」


顔色一つ変えない永死のその物言いに侶死は顔面蒼白となった。


「なんと……取引、初めからそのつもりだったんじゃな」

侶死は多勢に無勢を悟ったようでカイサを振り返り、服を口で引きずるように引っ張る。


「逃げるぞ死狼餌。こいつらはワシの手には負えん」


「私は逃げない」

侶死は唖然とした。カイサが立ち上がる。



「クシを返せ」



獲物を狩る獣のような目、死狼の赤い目をぎらつかせ凄んで見せる。


「そんなにこのクシという女を返してほしいか死狼餌よ」

永死の挑戦的な問いにカイサは答えない。ただ睨みつけている。そんなカイサから目を逸らすと永死は脱力したように口の端を緩める。


「いいだろう。ではお前にある〝遣い〟を頼もう」

永死の肉幹(胴体)の上に生えた無数の肉根の一本がドラゴンの首のように伸びカイサの前で止まった。そこから皮のない死狼の顔が現れる。


「お前、名前はなんという?」

「カイサ」


真っすぐ相手の目を見てカイサは毅然として告げた。物怖じ一つ見せない。永死もそれに淡々と返す。


「ではカイサ、不死という死狼に会え」

「それで?」

「不死をここに連れて来い。それだけでいい」


カイサは僅かに眉を寄せた。

永死が自分にそれをさせる意味と意図が分からなかった。侶死に目の動きだけで疑問を投げかけるが彼もまた首を捻るばかり。仕方なく永死に視線を戻す。


「それをすればクシを返してくれるの?」

「返すとも」

永死はゆるりと笑った。不思議と温和な顔つきだった。


悪い話ではないがそれ自体は全く要領を得ておらず、しかしそれでも本を正せばそれはカイサにとってどうでも良いこと。


「いいわ。どこにいるの?」

そう、変にこの死狼の機嫌を損ねることもない。事実自分はこの話を断れる立場にいない。なんせ見逃してもらえる上、永死はクシを返すと言っているのだから。


「その侶死という死狼について行け。二日だけ待ってやる。それまでに不死を連れてここに戻ってこい」


カイサは瞳に決意を宿らせながら強く頷いた。

「分かった。案内して。侶死」

そのまま逃げるようにその場を離れた侶死にカイサがついて行く。





「追うぞ悲死、楽死」

狂死は殺気立っている。

「待て。やつらは不死のところへ行く」

「だからなんだ⁉」

狂った咆哮を上げ、長い牙と鉤爪をチラつかせた。


「ちょっとした余興だ。楽しめ狂死よ」

永死は遠ざかって行く侶死とカイサの後姿を目を細めながら愉快そうに眺めていた。


「何だと⁉取引はどうなる?このクシという死狼餌を本当にカイサに渡すつもりか?」


狂死は自分が苦労して取引で手に入れた魂湖はおろか、死狼餌すらも手元に残らないことに強い苛立ちを覚えている、そんな様子だ。


「安心しろ。俺はただ不死の永遠の命が欲しいだけだ。死狼餌達はお前の好きにするがいい」

自分に大損させた挙句に意味不明の釈明。狂死の怒りが臨界に達した。


「不死の永遠の命だと⁉不死はトキ(不死身の雌死狼)と会わない限り生きることを諦めない。魂砕も出来ないはず――」

そこまで言った狂死の言葉を断ち切ったのは、永死の酷く冷えた氷刀のような声だった。



「トキは〝死狼餌〟として魂砕された」



狂死はその言葉の意味が分からなかったようで、しばらく対面する永死と自分の間合いに浮遊する虚空を眺めていた。

そして次の瞬間、さっきカイサという死狼餌と取引した時に永死が言っていた言葉を思い出しその意味に気付いた。


「まさか、あのカイサという死狼餌か?あいつの中にいたのか?」


「恐らく。肉根から放たれた魂砕の黒光がカイサの魂を砕いた刹那、俺はトキの魂に触れた」


「それは間違いないのか?」


永死はやや勿体ぶってほくそ笑むと、大仰に首を縦に振った。


「カイサに砕かれたトキの魂の欠片から記憶を辿ってみた。断片的だったが、五百年前の領地開拓時代に森の外れの里山で人間に捕まる時点の記憶を確認した。不死を探して長年広大な森を彷徨った記憶も」


狂死はそれを聞き妙に納得したようだった。彼自身思い当たる節はあったからだ。

領地開拓ではその地に生息する死狼狩りも行われた。人間が他国との競争で領土を広げるには人食いの死狼は余りに目障りだったということだろう。


「そして五十年まえに起きた技術革新で人間は生命力の抽出と〝魂砕圧縮術〟の再現を死狼の魂胞を使って実現した。その技術革新によって死狼餌が創られたことも、生命力の宝庫である不死身の死狼の価値が跳ね上がった要因の一つ」


確かに、人間が希少な不死身の死狼を捕まえれば魂砕して利用するのは当然のこと。トキも例外ではないだろう。


「そして死狼餌は不死身の死狼を魂砕して作られる。一匹で何人もの死狼餌を作る生命力を持つ。トキの魂も今となっては砕かれ、無数の死狼餌の中に欠片として眠っているらしい。不死がカイサに会えば、やつもそのことに気付くだろう」


「ああー…なるほど、なるほど。不死はもうトキには会えない。永死、お前賢いな」

狂死の顔から完全に鬼の形相が消え去り、やや頭を捻って言った。


「五十年前の取引、まだ有効か?」

「もちろんだ。永遠を生きる意味を失い、魂砕可能となった不死と引き換えならば魂湖の水半分をやっても良いだろう」


「やったな狂死!」

「俺達はついに魂湖の水半分を手にしたぞ」

悲死と楽死は無骨な風采に相応しくない有頂天でその場を跳ねまわった。


「……らしくないな永死。カイサとの取引を守らないとは」


狂死は複雑な心境のようだ。その言葉はすぐに魂湖が手に入らないことへの当て付けとも取れた。


「取引は守るとも。もっとも不死のもとへ行って生きて帰ってこれるとは思えないが」


永死は首を傾げそうそうと付け加えた。

「カイサが不死を連れて来るのに失敗したときのためにお前も使いに出す。成功すれば魂湖のもう半分もやる」


それを聞いた悲死と楽死はうつけたように立ち尽くし、それから目をむいて、つっかえ棒が外れてしまったようにけたけたと狂い笑いした。


「ところで狂死――」


ドシュッ。


永死の根に貫かれ悲死と楽死が死んだ。根が黒く光り二匹は魂砕される。

「取引は取引、約束は約束、だな?」

狂死は目を細め口元を大きく綻ばせる。


「……ああ永死。この森の死狼全員の魂をお前にやる。取引成立だ」





カイサは後ろを振り返る。狂死達は追ってこない。それどころかこっちに目もくれず呑気に立ち話をしている。カイサは侶死と呼ばれていた死狼を見た。


こいつは信じて大丈夫だろうか。


話を聞いた感じ狂死達とこの侶死という死狼には何か因縁のようなものがあるように感じた。

だからといって自分の味方とは限らない。こいつも狂死や永死と同じ人食いの死狼だ。


この地下のクリスタルの森、その入り口である、さっき自分が落ちてきた水の張った穴まで来た。

侶死が「入るんじゃ」と頭上の大岩に張った水面を見上げる。カイサが水面に手を伸ばすと物凄い力で引っ張られた。水の中に引き込まれそうになりカイサは驚いて思わず手を引っ込める。


なるほど。これは上に上がるときにも使えるのか。


「ワシが今から人間の村まで送ってやる。ついて来い」

頭上の水面に飛び込もうとする侶死をカイサが引き止めた。釘を刺しておきたかったのだ。


「私は逃げない。クシを必ず助ける」

「助ける覚悟があるんじゃな?後悔しないか?」

後悔なんてあるはずがなかった。自分は決めたのだ。クシのために戦うと。


「ええ」


流石の侶死もカイサの向こう見ずさに根負けしたようで露骨にため息をついて見せる。

「よいじゃろう。助っ人を紹介しよう。やつは断るだろうが」

「それよりも不死という死狼に会わせて」

侶死はしたり顔で告げた。



「不死がその助っ人じゃよ」

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