凍結戦線

長靴を嗅いだ猫

凍結戦線

 雪が舞う。真っ白な、ほんの少しの粘り気も感じられない完璧なパウダースノー。


 視界はほとんどない。一面の白。


 雪の隙間から見える雲さえも白い。高密度の雪と雲の中はほのかに明るかった。太陽の光が、雪と雲の中で乱反射し、全てを真白に染め上げている。


 粉のような雪が次から次へと風防にぶち当たり、片端から消えていく。その音はまるでラジオから漏れ出るホワイトノイズのように無機質だった。


 ヘルメットの内側に組み込まれたレシーバーからも同じようなノイズが聞こえてくる。まるで、電波までもが雪に支配されているようだ。


 ヘルメットのバイザーごしに見えるコックピットは灰色だった。鈍い鉄色に染め上げられた計器類。くるくると回る高度計の白い針。


 この世界では白くないものは何一つとしてない。まるで異次元に放り出されたようだ。


 ふと、そんな心細さを感じて、中田中尉は風防の内側に張りつけた写真に目を向けた。


 分子単位で焼き付けられたフルカラーの写真にはありとあらゆる色が詰まっている。炎を思わせる赤。萌えたつような緑。華やかな原色に彩られた熱帯魚がプリントされたTシャツ。そして、愛する恋人。


 大丈夫だ。これがあるかぎり、俺は戦っていられる。零気には負けない。

 極彩色の写真に勇気づけられて、中田中尉はフライ・バイ・ワイヤ方式のスティックを握り締める。


 別れを告げるように写真から目を逸らし、高度計に視線を移す。高度計の針がゆっくりと回転している。高度計の中央やや下に緑色のデジタル――高度8,350メートル。


 発進直後にセットしたタイマーが小さな電子音を鳴らした。目標の空域が近い。


「現在位置は?」


 スティックを握りながら、中田中尉は後席のナビゲーターに訊いた。


「現在、目標の南西200km。もうすぐ、スイスに入る――懐かしいな」


 レシーバーからしわがれた男の声が流れ出してきた。

 中田中尉の専属ナビゲーター、ヴァルター・ハフナー少尉。


 一緒に飛ぶようになってもう十年になる。

 親子ほども年齢の離れた老少尉を中田中尉は敬愛していた。


「感傷に浸っている暇はありませんよ」

「分かっている」


 即座に返ってきた返事はかすれていた。

 そう、感傷に浸っている暇はない。

 中田中尉は自分に言い聞かせるように、もう一度、繰り返す。


「目標上空まで、あと五分」

「了解。サテライトナビシステム目標ロック」


 ハフナー少尉の声はすでにいつものしわがれた、たくましい声に戻っていた。


「了解。オートアタックセィフティオフ」


 中田中尉の指が計器のスイッチを次々に弾いていく。


 攻撃は完全に自動化されていた。最終設定さえ済ませれば、黙っていても特殊爆撃機SA-5の攻撃管制コンピュータが自動的に戦術支援衛星から情報を受け取り、搭載された熱弾頭を発射してくれる。


「セイフティオフ。オートバランサオン」

「了解。目標上空まで、あと一分」

「発射準備完了」


 機体の爆弾倉がゆっくりと開き、自律誘導型熱弾頭が黒い顔を覗かせる。中田中尉は真っ白な空を睨み付けた。


「目標上空到達――全弾発射」


 中田中尉の指が発射レリーズを押し込む。鈍い振動と共にSA-5が熱弾頭を吐き出していく。

 レーダーには全部で百二十四個の点が映っていた。小型だが、強力な熱弾頭は簡単な滑空システムをサテライトナビシステムと連動させ、まっしぐらに目標へと落下していく。


「現在、目標温度氷点下189度」


 ハフナー少尉の声に促されるように、中田中尉は赤外線レーダーに目をやった。赤黒い映像の中に数箇所の黒いしみが映し出されている。故障やレーダーの不調ではない。そこだけ異様に温度が低いのだ。

 突然、黒いしみの一つが白く輝いた。続けて、白い光が次々と黒いしみを飲み込んでゆく。


「着弾確認――どうだ?」


 雪の白さではなく、強い熱の白さに頼もしさを覚えながら、中田中尉はハフナー少尉に訊ねた。


「目標温度現在3万5千度。周辺温度上昇中」


 赤外線レーダーが見る見る白く染まっていく。表示限界を越えたと判断した戦術コンピュータは自動的に表示を切り替える。緑の中に青白い点が表示される。


「いいぞ、まるで草原が戻ってきたみたいだ」


 静かに興奮しながら中田中尉がつぶやいた。しかし、レシーバーから流れるハフナー少尉の声が中田中尉の興奮に水を差す。


「草原か。草原なものか。今ごろ、下は灼熱地獄だ。おそらく、地形も相当変わってるだろう。そして、すぐに凍りつく。これならまだ、元のまま凍らせておいた方がましだったかもしれん」

「凍り付いた森に何の価値があります? 一度焼き尽くして、やり直すしかない。分かっているはずでしょう」


 何を判りきった事を。中田中尉はそう思いながらスロットル・レバーをニュートラルレンジにシフトダウン。SA-5は第一作戦命令を完了し、第二命令の偵察任務に移行した。

 ハフナー少尉の右手がレーダーのレンジ幅を切り替え、事前に入力されていたデーターをリアルタイムのデーターに重ねあわせる。

 冷徹に任務を遂行していく身体とは裏腹にハフナー少尉の心中は苦い。意味のないことを、俺達は一体何ををやっているんだろう。

 思いが結晶して、言葉となって口から溢れ出す。


「その通りだ。だが、いつになったらやり直せるんだ? 熱弾頭でゼロ・ラインを押し戻す。押し返される。また、押しもどす……まるでいたちごっこだ」

「それでも、やるしかない。これ以上、零気を進行させるわけにはいかない」


 零気。ゼロ・ライン。絶対零度の黒いしみ。


 軍司令部で一度だけ見ることを許可された映像は忘れられない。高々度衛星軌道上から赤外線で撮影された地球は、まるで霜にやられて黒く爛れたリンゴのようだった。

 あの映像を思い出すたびに、中田中尉は眠れなくなる。眠っている最中にも、どこかで零気が発生し、リンゴを醜く爛れさせる。


 ベッドから跳ね起きて、軍医に処方してもらった精神安定剤を飲み下す。


 薬剤の効果で恐怖心が溶けていく。そして、その下から苦い思い出が蘇る。

 涼子。最後の思い出は常夏の島でのわずかなひととき。

 忽然と北極に現れた絶対零度の氷の領域。二十年近くも前に現れた氷の世界が静かに広がりだしたとき、世界の大多数の人々と同じように中田中尉もそんなものにはまったく興味を抱かなかった。


 確かに年を経るごとに冬は寒く、長くなっていったが、ただそれだけの事だった。氷河期が到来しようとしている。地球は寒冷期へと移行しつつある。そんな学者達の言葉など、無節操にポストに放り込まれるダイレクトメールよりも無価値で意味の無い言葉だった。


 大零気が押し寄せてくるまでは。

 短い南の島でのバカンスが終ったとき、坂井涼子――十日後の中田涼子と中田中尉は小さな空港で別行動をとった。


 国際航空線のパイロットだった中田中尉は本社から直接、アメリカ経由の航空機を飛ばすように命じられた。担当のパイロットが空港でトラブルに巻き込まれ、仕事を果たすことが出来なくなったためだった。


 断ろうにも、短いバカンスのために無理を通していた中田中尉に選択権はなかった。


「すぐに、戻る。君は先に戻って、ドレスでも選んでいてくれ」


 そう言って、中田中尉と坂井涼子は空港でわかれ、それが最後の別れになった。

 中田中尉の故郷は北海道だった。寒い凍てついた土地だったが、中田中尉は故郷を愛していた。そして、凍てつく雪や氷も共に。


 異変は一瞬だったという。


 北極圏の外縁部ぎりぎりで止まっていた絶対零度の領域から突然、雪が溢れ出した。北極近辺を警戒していたレーダーはあまりの高密度の雪のためにほぼ全てがホワイトアウトし、そのために対応が遅れた。雪は音速に迫る速さで北半球の高緯度地域に殺到し、覆い尽くした。


 工業用のバーナーでさえ溶かすことの出来ない極低温の雪に覆われた街は一瞬にして凍り付いた。

 その変化は液体窒素をぶちまけるよりも劇的だったと、今では分析されている。当時は何も判らなかった。


 そして、中田中尉は恋人と故郷と親と兄弟と全てを失い、その後発足した対零気特殊部隊に身を投じたのだった。


 あれから、もう十年になる。ハフナー少尉も中田中尉と同じように大零気で全てを失った一人だった。

 以来、零気もしくはゼロ・ラインと呼ばれる絶対零度の領域は静かに領域を広げつつある。


 中田中尉とハフナー少尉の所属する、対ゼロ・ライン空軍師団の任務はゼロ・ラインから吹き出す、バーナーですら溶かすのは困難な極低温の雪を熱弾頭で処理することだった。

 どういう理論かは不明だったが、ゼロ・ラインは自らが生み出す雪を媒体にしてしか成長出来ないらしかった。


 その雪――普通の雪と区別するために零子と名付けられた――が一定量を超えると、その地域はゼロ・ライン領域へと変貌する。

 零子は多量の熱で処理できたが、ゼロ・ラインだけはいかなる攻撃をもってしても消滅させることも弱めることも出来なかった。


 いかなる攻撃、というやつがどれほどの攻撃なのか中田中尉は知らない。ただ、核を投入したが無駄だったという噂は聞いていた。

 他にも様々な噂が軍団の中を飛び交っていた。軍団上層部はゼロ・ラインを消滅させるための究極のシステムを開発した。ゼロ・ラインの正体は凍結した時間で、だからいかなる攻撃も無力である、など。


 確かなのは、零子を確実に処理しゼロ・ラインを食い止めることが出来なければ、未来は無いということだけだった。

 今日も、多くの零子処理部隊が世界中に向けて出撃している。そして、そのうちの数機はゼロ・ラインから吹き出す冷気にやられ、還らない。


 ミサイルか無人機を投入するというアイデアはごく初期の段階で放棄されていた。生き物のように蠢く零子の群れを確実に処理するには、どうしても人間の力が必要だった。


「中尉、降下軌道をとることを要請する――予想以上に雪の密度が高い。この高度からでは地表の様子が読み取れない」


 ハフナー少尉の声が中田中尉の意識を引き戻した。


「了解。高度を下げる」


 SA-5が機首を下げる。地表に近づくにつれて真っ白だった対地レーダーが機能を取り戻す。外気温度は現在、氷点下63度。

 それでも、ゼロ・ライン周辺に比べれば100度近く暖かい。

 高度2,000メートルまで降下して、SA-5は水平飛行に移った。


「どうだ?」

「OK。レーダーが復帰した――異常はないようだ。二日前の温度とさほど変わっていない。温度変化も許容範囲内だ」

「了解。偵察を続けながら帰投する」

「了解……」

「どうしました?」


 ハフナー少尉の声には明らかに戸惑いが含まれていた。今日のハフナー少尉は様子がおかしい。いつもとは違う。


「少尉。今日のあなたは様子がおかしい。今のあなたはゼロ・ハンターにふさわしくない……」

「ゼロ・ハンターか。確かにそうかもしれん」


 いつにない弱気な言葉だった。


「どうしたんです? 何があったんですか?」

「何も無い。何も。そのせいだろう」


 その言葉で中田中尉はハフナー少尉がこの空域の近くの出身だということを思い出した。ハフナー少尉がナーバスになっているのは、この雲の下にハフナー少尉の全てが眠っているからに違いなかった。

 言い過ぎた。そう感じた中田中尉は少尉に謝罪した。


「いいさ、気にすることはない。ただ、やはりつらいことには変わりない……中尉、頼みがある。聞いてくれないか?」

「なんです?」

「ここから300キロばかり北東に行くと、私の住んでいた村がある……ゼロ・ラインの内部だ」

「まさか、そこに行けというのではないでしょうね? 自殺行為だ」

「村へ行ってくれとは言わない……ただ、近くを飛んで欲しい。村へ帰れないのは分かっている。せめて、少しでも近くへと行きたいんだ……」


 帰投ルートの無断変更は明らかに命令違反だった。しかし、中田中尉にはハフナー少尉の懇願を無視することは出来なかった。


「わかりました。ルート算出をお願いします」


 中田中尉の声を聞いたハフナー少尉の声が喜びに輝いた。


「ありがとう。すぐにリセットする」


 わずか十秒ほどで新しい航路がナビゲーションシステムに表示された。ゼロ・ラインの南50kmをかすめるように通過、その後もとの航路に復航する。


 しばしの沈黙。ハフナー少尉は近づきつつある故郷を想っているのだろう。

 突如、SA-5のレーダーが警告音を発した。中田中尉はナビゲーション・システムに表示された警告文を読み取り、目を疑った。


 ――救難信号確認TH最優先命令LA調査せよCE――


「少尉。聞こえるか? 少尉?」

「聞こえている。こちらでも確認した――生存者がいるらしい。奇跡だ」

「落ち着いてください、少尉。こんなにゼロ・ラインに近い場所に生存者がいるなんて信じられない……スノーノイズか何かをコンピュータが誤認したのかもしれない」


 微弱な信号だった。ここまで接近しなければ信号をキャッチ出来なかっただろう。

だが、逆に言えばSA-5の発した電波が高密度の雪に乱反射して、たまたまそのような電波形態となって返ってきたとい可能性もあった。


「考えられない」


 中田中尉の疑惑をハフナー少尉はきっぱりと否定した。


「信号は一定の間隔で発信されている。きっと、下で凍えながら助けを待っているに違いない」

「冷静になってください。あれからもう十年になる……食料だってない。生存出来るわけが無い」

「中尉は知らないだろうが、私の故郷では山のあちこちに避難所を設置している。遭難したときのためだ。食料も貯えてある……確かに十年は保たない。しかし、避難所は幾つもある。この辺りの温度は高い――氷点下20度前後。奇跡的な温度だ。生存できない環境ではない」


 うわごとのように膿んだ熱を帯びた少尉の声がレシーバーから漏れ続ける。


「誰だっていい、生きていてくれれば。今、助けに行く。待っていろ……」

「生存者がいるとは限らない……しかし調査は必要でしょう。発信源付近で着陸できそうな場所を探していください」

「わかった」


 レーダーが信号の発信源のすぐそばに30メートルほどの空き地を発見した。中田中尉はランディングモードをVTOLにセット。着陸体勢。


「少尉、基地へ連絡を。これより着陸する」

「了解」


 対地高度20メートル。雪を吹きあげながらSA-5は高度を下げる。


          *


 そこは避難所というよりもむしろ小さな村だった。丸太のログハウスが雪に埋もれるように群れている。奇妙なほど牧歌的なのどかな風景だった。


「気温氷点下16度か。驚いた。こんなに暖かいなんて」

「珍しいことじゃない。真冬でも滅多に水が凍らないような場所がこういう山岳森林地帯には必ず数箇所はある」


 腕時計に内蔵された温度計を見ながら、驚いている中田中尉にハフナー少尉は答えた。


「避難所はそういう場所を選んで建てるのさ」

「しかし、これは避難所というよりもむしろ村だ。こんなところに村があったんですか?」

「村じゃないさ。その証拠に教会がない。きこり連中は意外と縄張り意識が強くてな、あまり小屋を共有したがらないんだ」


 言われてみれば、確かに小屋は多かったが共有施設に該当する建物はなかった。


「とにかく、急いで調査しましょう。あまり時間はない――せいぜい、二十分が限界です」


 深い雪の中に着陸するわけにもいかず、SA-5はエアコンプレッサを作動させて、ホバリング体勢で待機していた。この状態では燃料消費量は通常の二倍近くに達する。


「了解した。私は奥から調べていく。中尉は手前の方から」


 ハフナー少尉の言葉にうなずいて、中田中尉は雪を掻き分けながら小屋の一つへと歩き出した。

 簡素だが、しっかりした造りの小屋だった。半分雪に埋もれた扉を押す。完全に雪に埋没していないのはゼロ・ライン近辺への熱弾頭投下による気温の上昇や、いくつもの好条件が重なったためだろう。


 扉の中の様子は暗くて、ほとんど分からない。その中にぽつりと緑色の光りが見えた。中田中尉は小屋の中に入り、扉のすぐ隣の壁にぶら下がりっぱなしのランプに火を灯した。暖かな明かりが小屋の中を照らし出す。


 橙色の明かりに照らし出された小屋の中は閑散としていた。


 がっしりとした机の上に無線機らしい機械の塊が鎮座している。緑色の光は無線のパイロットランプだった。作動中らしく、ランプはほぼ一秒に一回の周期で点滅している。


 机に歩み寄って、機械を調べる。やはり無線機だった。

 省電力モードで一日に二回。十分間の自動発信設定。


 一応の生活に必要な物資は揃っているようだったが、そういった匂いは感じとれなかった。

 誰かが住んでいるという可能性は否定できないが、かなり低い。


 中田中尉は黙って、部屋の奥の扉に手をかけた。予想通り、地下室へと続く階段があった。北海道の小屋と同じ構造。寒さに対する備えは世界共通ということらしい。


 階下は食料庫だろう。食料が残っているかどうかを調べたかったが時間が無い。


 突然、目眩にも似た既視感に襲われて、中田中尉は呆然と扉の取ってを握ったまま立ち尽くした。夢のような感覚のどこかで、理性が結論を出す。故郷の北海道によく似た環境がそうさせているのだ、と。


 苦笑しながら、頭を振って振り返る。中田中尉の動きがストップモーションをかけられたかのように凍り付く。


「どうしたの?」


 柔らかい声。猫科の動物を思わせるしなやかな身体。


「嘘だ」

「嘘? 何が?」


 ごついダウンジャケットを着込んだ涼子が微笑んだ。何を言っているの? 声には出さず、顔の表情で身体全体で語っている。


「お前は……誰だ」

「やだ。また、寝ぼけてるんでしょ?」


 涼子は笑うときは身体全体で笑う。いかにも楽しげに。言葉よりも豊かなコミュニケーションを涼子は持っていた。過去の事だ。涼子はここにはいない。いてはいけない……


「ここは北海道じゃない……お前は誰だ?」


 哀しげな視線が中田中尉を捉えた。どこまでも、記憶の中の涼子と同じだった。

 ゆっくりとした動作で腰から拳銃を引き抜く。スライドを引いて、薬室に弾丸を送り込む。実際に拳銃を撃つのは始めてだった。

 中尉という肩書きを持ち、国連所属の軍隊という組織に属しているが、中田中尉は一度も自分を軍人だと考えたことはない。中田中尉の敵は零気であり、零子だった。人間ではない。

 幻だ。本物の涼子はゼロ・ラインの中にいる。十二年前とまったく同じ姿で、時が凍り付いたように。


「消えろ、消えてくれ頼むから……」


 つぶやきながら、引き金を引く。撃鉄が落ちスライドが後退し、戻る。弾頭を喪った空っぽの薬莢がうっすらと雪の積もった木の床の上で跳ね返った。

 びしゃりという嫌な音に続いて、ごとりと鈍い音がした。頭部の半分を吹き飛ばされた涼子が仰向けに倒れている。


「あ……あ」


 幻は消えなかった。それとも幻などではないのか?

 がくりと膝をつき、中田中尉は顔を覆って泣いた。涼子は……幻ではない。二度とは戻らない。では幻とはなんだ? 夢なら覚めてくれ……


「どうしたの?」


 混乱した中田中尉に、柔らかく語りかける涼子の声。顔を覆っていた手を床につけ、ふりかえる。白い羽毛のようなセーターを纏った涼子が微笑んでいた。

 もう一人の涼子――中田中尉が射殺した涼子はどこにもいない。血の跡も血と脳漿に塗れた死体も。痕跡などどこにも残っていない。だが、手に肩に拳銃を撃った時の衝撃が残っていた。夢ではない。それとも、それも幻覚なのか?


 最後の休暇の時と同じ姿。彼女のためにとった最後の休み。


 呆然と立ち上がった中田中尉に涼子は歩み寄り、甘えた小猫のような仕種で抱きついた。


「久しぶりの休暇ね」

「休暇か……そうだな、久しぶりだ」


 拳銃を片手に涼子の身体に手を廻す。まるで空気を抱いているような感覚だったが、どうでもよかった。涼子はここにいる。


「嫌な夢を見た」

「どんな?」


 涼子の言葉はいつも短い。その短さに安堵しながら中田中尉は握り締めた拳銃を見た。


「この拳銃で君を撃った。どうしてかな? 嫌な夢だった……はっきりと思い出せない」


 ひどいのね。くすりと笑いながら涼子は中田中尉の胸に顔を摺り寄せた。軍隊なんかに入るから、そんな夢を見るのよ。

 軍隊か。いつ入ったのかな? 結婚してすぐに。敵討ちだって。拳銃もろくろく撃てないくせに。

 いたずらっぽく笑う涼子に馬鹿にするなと中田中尉は答えた。涼子は、中田中尉から離れると、じゃあ拳銃には何発の弾が入るの?と無邪気に訊ねた。


 十三発だ。いや、一発撃ったから十二発か。じゃあ数えてみたら? 一発・二発――弾丸は十三発。ほら、あたしの言った通り……


 幸せだった。夢の中のようだ。幻ではない。


 記憶がぼやけていく。寒い。涼子を抱きしめる。机の上の無線機のパイロットランプが点滅していた。点滅がどんどん速くなっていく。故障だろうか。


 涼子を抱きしめる手が冷たい。フライトグラブが凍り付いている。


 幸せは冷たいんだな。


 ぼんやりと考えながら、中田中尉は狂ったように瞬くパイロットランプをながめた。まるで時間が加速されているようだ。


 時間すら凍らせるという噂の零気。零子は逆に時間を加速させるのだろうか。いや、加速させるのではなく凍らせるのだろう。

 

 零の子供にふさわしく。

 恐怖感が電撃のように中田中尉を貫いた。違う。無線機の故障ではない。凍り付いているのは自分だ。時間とともに。


 腕の中の涼子を力任せに突き飛ばす。手に持った拳銃を涼子に向けて撃つ、撃つ。

 スライドが止まるまで、中田中尉は引き金を引き続けた。脳漿に塗れ、血に染まった涼子はどこにもいない。


 風に舞うように雪が舞っていた。踊るように中田中尉を誘っている。やはり幻覚だった。

 中田中尉は冷静だった。湧いてくるはずの怒りや当惑がまるで浮かび上がってこない。


 涼子。思い出す顔はまるで、見知らぬ他人のようだった。


 零子は人間に幻覚を見せる力を持っているのだろうか。だったとしたら、ハフナー少尉が危険だ。少尉に襲いかかる幻覚は中田中尉の比ではないだろう。

 中田中尉は雪と零子に埋もれた小屋から飛び出した。ハフナー少尉のいる小屋はすぐに解った。奥の小屋の扉が開いている。


 腰まで積もった雪を掻き分けながら、中田中尉はハフナー少尉が調査しているはずの小屋に飛び込んだ。


「少尉!」


 ハフナー少尉の周りをちらちらと零子が舞っていた。豊かな髭を真っ白に染め上げたハフナー少尉は穏やかに笑ったようだった。


「少尉、今助けます!」


 そう叫んで、さらに一歩踏み込んだ中尉の目の前にさまざまな光景が蜃気楼のように浮かび上がった。いくつもの風景がパッチワークのようにいびつにつながって一つの幻を構成している。


 ハフナー少尉の記憶だろう。零子は中田中尉やハフナー少尉の記憶をそのまま反射して映し出す。全ての記憶が凍り付くと、ハフナー少尉は完全に凍り付く。

 次々にパッチワークの色が抜けていく。その度に、ハフナー少尉も色彩を失っていくかのようだった。


「少尉、しっかりしてください!」


 凍りついているのだ。一つ一つの記憶が凍りつき崩れて行く。胸が痛い。中田中尉も、記憶を凍らされたに違いなかった。

 涼子。思い出しても何も感じない。それが、つらい。

 中田中尉はハフナー少尉の腕をつかんだ。ぱきぱきとフライトグラブが音を立てて凍りついていく。手後れだった。それでも、中田中尉はこの老いた少尉を見捨てられなかった。


「少尉!」


 もう一度叫んで、ハフナー少尉の腕を力任せに引っ張る。不意に重さがなくなり中田中尉は前につんのめった。

 振り向くと、ハフナー少尉の姿はどこにもなかった。ただ、さらさらとした白い粉がハフナー少尉のいた場所に降り積もっている。

 手の中には少尉の腕があった。しかし、その腕もさららと形を喪い崩れ落ちていく。


「少尉……」


 のろのろとした動作で中田中尉は白い粉の塊に敬礼し、外へ走り出た。愛機のコックピットに飛び込み、スロットルを押し込む。

 SA-5は弾かれたように凍てついた大地から舞い上がった。何も考えずに、中田中尉は機を上昇させて、雲の上を目指す。


「涼子……少尉」


 かけがいのない二人の人間を失って、中田中尉の瞳が涙を流す。一人は永遠に、もう一人は記憶の中でしか会えない。

 風防に貼り付けられた写真の中で、涼子が微笑んでいる。極彩色の写真からは、色がそっくり抜け落ちてしまったかのよう。

 それでも、涼子がいたという記憶は残っている。全てを喪ったわけではない。


「少尉……俺は忘れない。たとえあなたの事を忘れても、あなたがいたという事実だけは忘れない……」


 SA-5が雲の上に出る。水平飛行に移行したSA-5のコックピットの中で中田中尉は涙を流し続ける。凍結した戦場の唯一の熱い液体。不凍の水球。

 中田中尉の瞳が涙を流す。まるで、絶対零度の記憶を溶かそうとでもいうように。中尉を癒そうとするかのように――涙は流れる。


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