鬼寄童唄

長靴を嗅いだ猫

第1話

 迎之祭が終わると矢来寺の境内はひたひたと満ちる潮のように寂しさを増した。


 境内に面した通りにずらりと軒を並べていた屋台や露天に人影はなく、ただポツリポツリと灯篭の残り火だけが苔むした地面を照らしている。


 陽炎のようにぼんやりと浮かび上がる四脚門をくぐりぬけると、ただ漠然とした薄闇だけがたゆっている。

 祭りの狂ったような喧騒の名残がただよい、さやさやと語りかけてくる。

 熱気のこもる境内の真ん中で目を閉じると、凛とした気配が糸のように張り巡らされているのがわかる。


 山浦京は、そんな祭りの後にだけ感じられる雰囲気が好きだった。


 同じクラスの友達と一緒に金魚をすくったり、クジを引いたりするのもそれなりに楽しかったけど、それよりもずっと祭りの終わった後の時間を一人で楽しむほうが好きだった。


 小さな緋色の下駄を鳴らしながら、京は境内を歩いてまわった。堅い木が地面を踏みしだく音が、さして広くない境内に響く。

 幾重にも重なって聞こえる自分の足音を心地よく感じながら、京は祭りの残滓を訪ね歩いた。


 うっそりと苔むした石灯籠。大きく腕を広げたような松の老木。全てがいつもとは違っている。

 木々がしゃべっていた。石畳がささやいていた。灯篭がむくれていた。まるで昔話の中に入り込みでもしたかのようだ。全てのものが当たり前のようにざわめいている。


 まるで色の無い世界みたい。


 ぼんやりとした頭のままで、京はそう思った。今の境内に比べると、いつもの境内は抜け殻のようだ。


 ――人の祭りが終わると、あやかしの祭りが始まる――


 前の学校にいたときに借りた本の一説を京は思い出していた。

 それは民話や伝説が記された本で、京のお気に入りの一冊だった。

 古びた寺や神社の境内で、人のいないころを見計らって、彼らは夜明けまで宴に興じるのだという。


 きっと、こんな感じなんだ。


 京はそう思いながら、浴衣の裾をひるがえして、くるりと振り返った。


 何もいない。


 妖怪や幽霊を本気で信じるほど京は幼くはなかったが、それでも少しがっかりしたように京はためいきをついた。


 ざわざわとした音が京を包んでいる。

 目には見えないが何かがいるような気がする――


 つと、何かが浴衣の袖を引っ張った。


 くるりくるりと足元を何かが跳ね回っている。何も見えないが、子猫にじゃれられたようなくすぐったさが、京に何かがいると教えていた。


 やはり、いたのだ。


 ただ、それは見えないだけで。きっといつでもどこにでもいるのだろう。よほど条件がよくないと、見ることはもちろん感じ取ることもできない。


 今は特別な時間なのだ。


 そう考えると、なんだか嬉しくなった。

 京はいつもひとりぽっちだった。

 別に仲間はずれにされているだとか、いじめられているというわけではない。いつも凛としている京はむしろクラスの女の子たちの人気者だと言えた。


 かわりに男子からは煙たがられていた。


 嫌われていたわけではない。

 ただ、あまりにも正々堂々としているので少年たちも気後れしてしまうのだ。


 要するに、小学五年生という時間を生きる子供たちにしてみれば、京は頼りがいがあると同時に近づきがたい存在といえた。


 そのかわり、京はみんな持っているものを持っていなかった。

 なんでもないことで笑い、なんでもないことで喧嘩をする。

 そして、そうしたことから生まれる仲間意識やささやかな感情というものを京は誰とも共有したことがなかった。


 無口だった、というわけではない。


 話しかけられればよくしゃべったし、相談を持ちかけられれば親身になって協力した。自分にできることがあれば、多少の苦労でも苦労と思わない性格だった。


 ただ、自分から話しかけるということは滅多になかった。とりたてて理由があったわけではない。

 京にしてみれば、自分から話しかけずともそれで充分だったのだ。


 リリリリという虫の声が夜風に乗って京の耳に届いた。虫の声につられるように、さわさわと見えないものたちが騒がしくなる。


「京ちゃん。そろそろ中へ入りなさい」


 じっと目を閉じてあやかしたちの祭りを楽しんでいると、夜風と虫の声をすっぱりと断ち切るように、京を呼ぶ声が母屋の縁側の方から聞こえてきた。


 よくとおる、透明感のある声だったが張りに欠けている。京の叔母にあたる南潟静子の声だった。


「京ちゃん? お庭にいるんでしょう?」


 良家の奥方のようにやさしげな声だったが、京はいらついたように鋭く声の方へと視線をむけた。

 今まで感じていた気配が嘘のように消えてしまっていた。闇はただの夜でしかなく、草木は標本のように黙りこくってしまった。


「京ちゃん?」


 一向に返事がないのをいぶかしんだのか、静子の声が少しヒステリックに高くなった。


「今、戻ります」


 叔母にいらぬ心配をかけるわけにはいかなかったから、京はいつものように落ち着いた声で応えた。

 他人に迷惑をかけてはいけない――

 いらぬ心配をかけてはいけない――

 無用に頼ってはいけない――


 厳格な父と優しかったが甘えさせてはくれなかった母に繰り返し繰り返し聞かされていた言葉だ。

 京の父も母もこの言葉の通りに暮らしていた。要は家訓のようなものだったのだろう。

 幼いころはどういう意味か理解できなかった。理解できるようになるころには、身体にすっかりと染みついていた。

 少し寂しそうに背後の石灯籠をふりかえると、京はカランと駒下駄を一歩踏み出した。がさがさという音が縁側のほうから聞こえてくる。どうやらしびれを切らした静子が様子を見に来たらしかった。


 いつも何かを気にしているようなふしのある叔母は、絶えず心配事を抱えていた。新聞の社会欄を読んではどこかの事件の顛末におどおどし、近所のたわいのない噂に走り回っていた。

 そんな静子の一番の心配事は、やはりというか当然というか京のことだと気がつくのにさほど時間はかからなかった。


 両親を事故で亡くした京がこの家に引き取られてから、半年ほどになる。


 その間、静子はかいがいしく京の世話を焼いた。少しでも服のサイズが合わないとなればその都度デパートにでかけ、京の好物を知ればそれがいつでも出せるように用意した。PTAなどの会合にも欠席したことはない。


「京ちゃん。そろそろ中に入らないと風邪をひきますよ」

「わかりました」


 どこかよそよそしい静子の言葉に京はいつもと同じようにうなずいた。この不器用な叔母はいまだに京にどう接してよいのかわからないでいるらしかった。

 京はといえば、これははっきりとしている。誰に対してもかっきりと線をひいたような態度がそうだった。京に染みついている家訓が、自然とそのような態度を京にとらせていた。

 それではいけないのだろうと解ってはいるが、それ以外にどう接すれば良いのか京にはわからない。

 わからないから、余計に静子の心遣いが息苦しい。悪循環だった。


「さ、中に入りましょ」


 黙って静子の声にうなずきながら、京はもう一度だけ後ろをふりかえった。そこには祭りに使われた木彫りの鬼がそびえているはずだった。

 今ではすっかり縁日のようになってしまっているが、この日は矢来寺の縁起でもある鬼供養の祭事が行われる日なのだ。

 ほとんど形だけになってしまっているが、それでも矢来寺に伝わる鬼の像を境内の中央にひきだして盛大な供養が執り行われることに変わりはない。


 京は袖を静子に引かれたまま、目で木像を探した。


 昼間と同じ場所に安置されている木像は夜目にもすぐにわかった。江戸時代に彫り上げられたという鬼の像は躍動感に溢れながら、精緻を極めていた。ただ、木の皮を被っているだけで、薄い皮の下には本物の鬼が潜んでいる。そう思えるほど真に迫っている。


 あの皮の下の鬼の色は何色なのだろう?


 鬼の色といえば、赤色と青色。あとは黒と黄ぐらいのものか。

 特に青鬼といえば赤鬼のために一肌脱いだ青鬼の話が有名だ。

 泣いた赤鬼、だったか。

 たくさんの民話や伝説、児童文学の中でも、京がとくに好きな話だ。


 京の肩に軽い重みが加わった。


 静子が京の肩に手をかけたのだ。軽く力が加わって、京の身体を前方に押し出した。京は少し平衡を喪って、ふらりと揺れた。

 下駄が玉砂利を強く踏みしめて、ぎゅうと音を立てる。傾いた身体の平衡を取りながら、京はじっと鬼の像を見つめていた。


 ざざぁぁと夜風が吹きぬけた。


 風が静子と京の黒い髪をなでるように舞い散らす。一瞬、京と静子の視界が閉ざされた。

 がさがさという乾いた音が、視界をふさがれた京の耳に届いた。

 ぱきりと小枝を踏みしだくような音。ずしりと重たいものを地面に押しつけたような振動――京は髪を手で漉いて鬼の像が安置されている方に目をやった。


「ひっ」


 悲鳴とも息を呑む音ともつかない声が京の喉から漏れた。いつのまにか、青白い月が京と静子と鬼を照らしている。


 鬼がいた。


 乱杭歯を見せつけるように、にィと口が横に裂けた。一瞬の後、京はそれが笑い顔だと理解した。かたかたと京の身体が小刻みに震えだした。


「京ちゃん?」


 肩においた手から、京の身体の震えを感じ取った静子が、怪訝そうな声を出した。

 京は静子に応えられなかった。

 身体の震えが爪先からつむじまで京の身体を支配している。京は生まれてはじめて、歯の根も合わぬほどに震えた。


「どうしたの?」


 未だに何が起こったのか理解できない静子は、顔を覆ったままの長い髪を撫で付けるように背中へと流した。


「おに」


 京の口からうわずった言葉がこぼれ落ちた。


「鬼?」


 うなずきながら、京はぎゅうっと静子の服の袖を握り締めた。


 京の手が、静子の袖を震わせた。京がおびえている。一体、何におびえているのだろうか。静子は京と同じ方向へ視線を向けた。


「鬼」


 もう一度、同じ言葉を京がつぶやいた。

 松の木の陰にたたずむ大きな鬼の像が、ふぅわりと迫ってくる。そんな錯覚に襲われて、静子は目をしばたいた。

 やはり、そこに鬼がいた。

 乱杭歯から、粘液質の液体を滴らせて。

 鈍い色の目に月光が反射して、青白い光を放っている。


「――青い、鬼」


 京の言葉を静子は聞き逃さなかった。

 震える京の手を握り締めながら、静子はもう一度鬼を見た。

 浅黒い身体を、剛毛が覆っている。瘤だらけの古木のように盛り上がった腕の筋。

 ただ、月の光が照らし出している部分だけが青い。まるで、青い絵具を垂らしたように、不自然なほどに青かった。


「あ、ああ……ああ」


 青鬼と言おうとした静子の口が、半開きのまま意味も無く開閉する。反射的に、じりりと半歩あとじさった。


 さらに半歩。


 京の手が静子の袖を引っ張った。

 静子と京の間に、一歩分の距離が開いている。静子は動いたが、京は動いていない。

 決定的な差が、たった一歩の距離の中にある。


「み、みやこ、ちゃん……」


 逃げて――その言葉が出てこない。

 代わりに、静子はまた少し後退した。

 京の身体は動かない。

 きつく握り締めた手を引っ張られるようなかたちで京は傾いて立ち尽くしていた。まるで、足に木の根でも絡み付いたかのように不自然な体勢で硬直している。


 鬼がゆらりと揺れた。


 ふしくれだった、青い足を月光に晒しながらゆっくりと歩き出す。


 距離は歩幅にして十歩もない。


 静子と京は、同じ方向に視線をじっと据えて、ただ凍っていた。ただの一言半句も言葉が出てこない。

 京は、震える手でじっと静子の袖を強く握り締めた。顔の方向は変わらず、鬼を凝視している。静子の位置からは、京の顔色をうかがうことは出来ない。

 京の頭が、かすかに沈み込んだ。つられるように静子もわずかに顔を少し、下に動かした。

 青い足がたわんでいる。ぎりぎりと音がしそうなほど力んでいるのが、何故か静子には理解できた。

 引き絞られた弓のように、たわんだ足がふっと霞んだ。風が舞い、静子は思わず目を閉じた。

 目を開けると、鬼は五歩ほどの場所にいた。地面が縮んだと錯覚するほどにすばやく移動したのだと、半ば本能的に理解した静子は、くるりとからくり人形のような動作できびすを返した。よじれた紙紐がふつりと切れるような感触を残して、静子の服の袖から京の掌が離れた。

 微妙にたもたれていた京の身体が、地面についた下駄を中心にしてねじれるように倒れ伏した。

 静子はそのことに気が付くこともなく、一目散に走り出した。

 静子は走っている。この場から一刻も早く離れなければという、初原的な欲求のみが静子を突き動かしている。


 そう思えるほど、静子の動きは獣じみていた。普段のおっとりとした振る舞いからは想像することも出来ない動きで京と鬼から遠ざかっていく。

 静子の意識はとうに失われている。ただ、この場から逃げなくては、という意志だけが静子を支配しているかのようだった。


 まろぶように夜を泳ぐように不器用に鬼から遠ざかる静子を、京は玉砂利に伏したまま見送っていた。思い出したように、強く打った膝小僧から痺れるような痛みが身体を這い上ってくる。


 暗い視界の片隅で、静子の身体が不意に前のめりによろめくのが見えた。 


 糸の切れた操り人形のように、静子が地面に崩れ落ちる。

 京を支配していた恐怖はいつの間にか消え去っていた。自分でも不思議なほどに、京は冷静に周囲の様子を観察している。


 ただ、視界がぼやけていた。千代紙を墨に浸したように静かに確実に京の視界が黒ずんでいく。


 まぶたを閉じるように、視界が闇で覆われる。完全に視界を失ったとき、京はふっつりと意識を失った。


  六月の晦日のことであった。

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鬼寄童唄 長靴を嗅いだ猫 @nemurineko

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