第9話 タリスカーの名残後編
「話って......」
ふと、あの一緒にハーゲンダッツを食べた夜を思い出す。
「正義さんのことですか?」
「へぇ、話したんだ」
暁さんが俺をしげしげと見つめた。
「......そうか、君には話したか」
「あの、暁さん。すみませんでした。立ち聞きしちゃって」
「いや、もういいんだよ。いずれわかることだろうしさ」
眉尻を下げる暁さんは、どこか照れくさそうにしていた。
「俺さ、真輝とは中学から高校まで学校は一緒だけど、高校で初めて同じクラスになったんだ」
暁さんのおちょこに日本酒を足す。「おっと、すまん」と彼は一口含み、話を続ける。
「俺さ、こう見えても、昔はすごい人見知りで暗かったんだ。おまけに小太りでさ。女の子からは避けられるし、男友達も見下してた」
「でも今はめっちゃくちゃ陽気だし、体つきだっていいですよね」
「そりゃお前、鍛えてるさ。バーテンダーは体力も大事だぞ」
お、大分ほろ酔い口調だ。『尊君』から『お前』になった。
「高校生になってもどんより暗い男でさ。また中学みたいな三年間が続くのかなってうんざりしてたんだ。あまりにも奥手だから、みんなの中で浮いててさ。クラスに一人はいるだろ、そういう奴」
「あぁ、いますね」
「ある朝、俺が登校すると、教室に誰もいないんだ。授業が予定変更して体育館集合になってたんだけど、前の日に休んでた俺は一切知らされてなくてさ。何もわからないまま、おろおろして心細くて。けど、ちょうど忘れ物を取りにきた真輝が、俺に話しかけてくれたんだ」
「へぇ」
「あの頃から綺麗だったんだぜ。男どもの憧れだった真輝がさ、クラスで誰も相手にしないような俺に『暁君、おはよう。今日は体育館集合だよ。一緒に行こうよ』ってさ」
俺は真輝さんの学生時代を想像した。確かに、真輝さんみたいな美人に話しかけられて浮かれない男はいないだろう。
「俺に『風邪はもういいの?』とか話しかけてくれてさ。真輝は覚えてないかもしれないけど、あの『おはよう』で俺の人生変わっちまった」
「はぁ......」
「浮かれまくった俺は、あのたった一言で真輝を好きになった。挨拶されるってなんていい気持ちなんだって思った。きっかけなんて、些細なことさ」
「なるほどねぇ」
「同時に、今までろくに挨拶もできないでいた俺は、そりゃ友達もいないだろって気づいてさ。それからは真輝と釣り合う男になりたい一心で、みんなに歩み寄って明るく振る舞って、体も鍛えて、勉強もした。まぁ、いわゆる恋する男の子ってやつだ」
それで、真輝さんは彼を高校生の頃から急に明るくなったと感じたのか。妙に納得して、無言で何度も頷いた。
「それから元々行きたかった調理師学校へ入ってから、琥珀亭に弟子入りした。もちろん、真輝の実家ってわかってるからさ」
「すごいですね、婿入りでもする気だったんですか?」
「おう」
即答だ。すごいな、この熱意。
「ところが、俺はそこで人生最大の誤算をやらかすんだ。調理師学校で親友だった正義を真輝のいる琥珀亭に連れて行ったことだ」
正義さんの名前が出た途端、あんなに嬉々として真輝さんの話をしていた彼が、深いため息とともにしょぼんと背を丸めてしまった。
「結局、あいつらは結婚したけどさ。結婚式のときは気が狂いそうだったよ」
そして、やりきれない顔で呟く。
「正義と蓮太郎師匠がいっぺんに死んだときもな......」
その日は、雨だったそうだ。
スリップしたトラックが対向車線で信号待ちをしていた正義さんと蓮太郎さんの車を直撃したという。ニュースにもなったらしい。
「真輝はあれから、ずっと泣いてる。今でもだ」
暁さんの苦虫をかみつぶしたような顔には、もしかして、泣いてしまうんじゃないかと思うような切なさが漂っていた。
「正義は落ち着いた男でさ。ギターが趣味で、よく部屋でかき鳴らしてたよ。ウイスキーと本が好きで。真輝はずいぶん正義の影響を受けているな」
そこで言葉を切ると、暁さんは大地を呼んだ。
「大地、俺のタリスカー持ってきてくれる?」
「はい。飲み方は?」
「ロックでいい。二つだ」
しばらくして、大地が「どうぞ」とボトルと氷の入ったグラスを差し出した。
「これは、俺が正義の命日にここで飲むボトルだ。特別に置いてもらってる」
シンプルなラベルには、これまたシンプルな字体で『TALISKER』とある。
「タリスカーは、知ってるかい?」
「いいえ、すみません、勉強不足で」
「謝ることはないよ。これはスコットランドのスカイ島で作られるシングルモルトウイスキーだ。『宝島』のスチーブンソンに『酒の王様』と言わしめた酒だよ」
「へぇ、歴史があるんですね」
「良いウイスキーだと思うよ。でも、俺は好きじゃないね」
「じゃあ、どうしてこれを置いてもらってるんですか?」
「正義の好きな酒だったからさ」
暁さんは苦々しくタリスカーのボトルを見つめた。
「真輝はあいつが死んでから、ずっとこのウイスキーを飲んでる。スコッチなんか嫌いなくせに」
吐き出すように言うと、彼はグラスにタリスカーを注いで、俺に差し出した。
「味をみてごらん」
「......うわぁ、香りがすごいですね」
「スコッチだからな。だが、美味いぞ」
一口舐めてみると、あまりのスモーキーさに「うっ」と唸ってしまった。俺には強すぎる。でも美味い酒なのはわかる。
暁さんは一口飲むと、唇を舐めた。
「深くて、余韻が穏やかで......忘れがたい。まるで正義そのものだ。俺はいつも思うよ。どうやったら、真輝から正義の名残を消し去ることができるかなって」
「名残ですか?」
「あぁ。人には多かれ少なかれ誰かの名残がある」
暁さんはやりきれない顔で言う。
「真輝がタリスカーを飲むのも正義の名残。シェイクスピアを読むのも、そう。食後にブラックでコーヒーを飲むのも、車の中に必ずガムがあるのも、全部そうだ。正義と過ごすうちに、真輝に刻まれたもの」
そして、彼はため息を漏らし、頬杖をついた。まるでふてくされた子どものような顔だ。
「本当はわかってるさ。その名残が消せないことなんて。俺にだって、真輝の名残がある。元々は板前になることが夢だった俺が、真輝の『おはよう』って言葉一つで浮かれてバーテンダーになっちまったってのと一緒さ。それはどう足掻いたって、今更消せやしない。だって、それがあるから、今の『俺』なんだ。だろ?」
「はぁ」
「だけどさ、真輝は名残の中に正義を見出してしまう。そういう名残をひっくるめて『真輝』なのに、真輝は自分の中に正義がいると思ってる。だから苦しいんだ」
「......よくわからないんですけど」
「あ、そう? ごめん、俺もうまく説明できないんだけどさ」
暁さんは顔に出ていないが、酔っているらしい。軽く瞬きして顎をさする。そして言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「つまり、辛いことなんて、決して忘れられないってことさ。別れは乗り越えるもんじゃない。抱えて飲み込んで、一緒に連れて行くものなんだよ。それを真輝はわかってない。だから正義を忘れようとしてもがいてる。俺に言わせれば、そこからしてもう間違ってるんだ」
「間違い、ですか」
「見当違いというべきかな。いつまでも泣いてるあいつを見てると、本当にいらいらするんだ。早く気づけよって」
暁さんはふんと短く鼻を鳴らした。
「正義を忘れるなんてできっこないさ。今の『真輝』を作ったのは、正義なのに。できないのに忘れようともがいて、そのくせ自分から正義の匂いのするものを捨てようともしない真輝に、俺は心底いらっとするよ。真輝を残して逝った正義にも頭にくるし......なにより、いつまでたっても真輝の気持ちを掴めない自分が情けなくて反吐が出る」
荒い語気の後、彼はうんざりという表情で長いため息を吐いた。
「俺の名前さ、日の出って意味なんだよ。だからテキーラ・サンライズも好きなんだ。でも随分と名前負けしてるよな。いつまでたっても真輝にたった一筋の光だって射し込めないんだ」
「あの、正義さんって、どんな人だったんですか?」
「そうだなぁ。正義は夜が似合う男だったよ。もの静かで、包容力があって。真輝は正義の闇の中にいるんだな」
顔も知らないけれど、なんだかいかにも真輝さんの夫だという気がした。彼女には、そういう穏やかな男が似合うような気がしたんだ。
「俺はこの名前にかけて、少しでもあいつの心に光を当てたい。あのとき『おはよう』って言葉一つで俺に光を当ててくれたように、あいつの朝の光になりたい。朝日を浴びて、一緒に今日を生きたい。俺を見つめてくれれば、それで良い」
俺はドキドキしながら、彼の言葉を聞いていた。それってもう、プロポーズだよなぁ。
「......ずっとそう思って走ってきた。でも、死んだ人間には敵わないよな。綺麗な思い出だけが残っていくんだ。たまにさ、そういう走りっぱなしの自分に疲れるときがある。明るい未来なんて保証もないのに、自分を奮い立たせてがむしゃらに走って、ふと立ち止まってため息をつきたくなるんだ。そういうとき、他の女と付き合ってもさ、やっぱり心が死んでるんだよな」
「あ、他の人とお付き合いしたりはしてたんですね」
「俺ね、背がのびてからはすごいモテるようになったわけよ。たまにいるんだ。真輝しか見えてない俺に、それでもいいから付き合ってくれって言う女。でも、誰も俺の気持ちに新しい日の出をくれなかった」
「そりゃあ、それだけ好きな人がいれば、そうでしょうね」
「あれは二年前だったかなぁ。オババ様に言われたことがある。お前と付き合う女は『朝日のあたる家』みたいになっちまうって」
「朝日の?」
「アニマルズがヒットさせた歌でさ。ギャンブル好きな恋人がいた女がそいつのために街を転々として犯罪まで犯して、最後には娼婦になったのを嘆く歌だ」
「お凛さん、そんな歌にたとえるなんて、遠慮ないですね」
「別に本当に娼婦になるわけじゃないけど、真輝を想い続けること自体が勝算のないギャンブルだし、そんな俺に尽くす女の行き着く先なんて悲惨なもんだって言いたかったんだろ。顔は笑っていたけど、やんわりと俺を叱ってくれたんだな」
そりゃあ、本命がいるのに寂しさを埋めるために、無駄に他の女を不幸にするなと言いたくもなるだろうな。
顔をひきつらせる俺に、暁さんがつられたように苦笑いをする。
「この歳になっても叱ってくれる人がいるって、ありがたいよな。俺はそれ以来、仕事を最優先にして独りで生きてるよ」
この後、暁さんは熱燗三本を飲み干していた。それでも足取りはしっかりしていたけれど。
俺たちは、真夜中に小料理屋『大地』をあとにした。
「ありがとうございました。尊さんもまたいらしてください」
大地がにこやかに見送ってくれる中、俺と暁さんが並んで歩く。飲み過ぎて脈打つ熱い頬に、夜風が気持ちいい。
「俺はまだ飲んで行くけど、どうする?」
「俺はタクシーで帰ります」
「そうか、ちょっと待ってろよ」
暁さんは車道に身を乗り出し、タイミングを見計らって手を挙げた。緑色のタクシーがハザードランプを点滅させて、ゆっくり停まる。
「暁さん、今日はごちそうさまでした。また店に飲みに行きますね」
「おう。他の曜日は別店舗にいたりするから、事前に電話くれ」
そう言って、暁さんは自分の名刺を俺にくれた。
「じゃあ、おやすみなさい」
そう言ってタクシーに向かう俺を、暁さんが引き留めた。
「なぁ、尊君!」
振り返ると、暁さんはさっきとは違う、ちょっと思い詰めた顔をしていた。意を決したように俺に問いかける。
「今日俺に会いに来たのって、バーテンダーとしてか?」
間髪入れずに暁さんの声が飛ぶ。
「俺の仕事を見てさ、本当にバーテンダーとして悔しかったのか?」
「......はい。そうですけど」
「そうか。うん......なら、いいんだ。すまん。変なことを訊いた」
俺が呆気にとられていると、暁さんが「おやすみ」と、ひらひら手を振って歩き出す。動き出したタクシーから見えたその背中が、心なしか寂しそうに感じた。
俺はタクシーの中、暁さんの名刺をじっと見た。淡いベージュの紙に、緋色の文字で暁さんの名前と携帯電話の番号が印刷してあった。その他には店舗情報が載っている。けれど、どこにも肩書きを書いてないのが、暁さんらしいと思った。
裏には店のシンボルマークがプリントされている。海からの日の出をイメージしたものだ。
俺はふと真輝さんを思い出した。夜の海に深く沈む真輝さんまで、暁さんの光が届くことはあるんだろうか?
もし、それが届かなければ、一体何が冷たい夜にうずくまる彼女の手をとるんだろう?
酔っぱらった頭で、俺は自問自答していた。
『本当にバーテンダーとして暁さんに会いにいったのか?』
確かに、そうだと思う。俺は自分のカクテルに足りないものを知りたかった。暁さんの腕前を知りたかった。
でも、それなら真輝さんに相談すれば済んだことだという気もしてきた。
よくわからない。
お凛さんがバーテンダーとしての暁さんを褒めたとき、そして暁さんが俺の目の前でシェーカーを振ったとき、俺の中で何かが火を宿した。それは、バーテンダーとしての負けん気だと思うけれど......。
タクシーを降り、琥珀亭の前に立つ。腕時計を見ると、閉店時間が迫っていた。琥珀亭からはまだ温かな光が漏れている。
もうお客様はいないだろうか? 今頃、いつものように唇を尖らせて『お腹すいた』なんて、ぼやいているのかな?
アヒル口になった真輝さんの横顔を思い出して、俺はふっと笑った。今の時間からサンマを食べられる店はあるだろうか。
『本当にバーテンダーとして?』
暁さんの声がまた心に響いた。
少しだけ、ほんの少しだけ、さっきの俺の答えは嘘だったかもしれないと思った。
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