前兆 ――情報公開で躊躇する関係者――
突然、スマホを見てた慎二先生が大声を出した。
「緊急報告です。今中江さんの部屋の持ち物やごみを回収した人間から、メールで連絡が来ました。ゴミの中にウクライナ産の鹿肉のラベルがついた、真空パッケージの空袋が出てきたので、これらから袋に付着している油に対しウィルスチェックを行うとあります」
「そうか、それが感染源かもしれない。中江さんは昨夜、青田さんがお土産で持ち帰った真空パックの肉を食べたと、言ってました」
私ははっきりと思い出した。彼は確かにそう言っていた。その前の性交渉があると言った発言が頭に残って、この大事な情報を忘れていた。
「なるほど、そんなものを持ち帰っていたのか。だがそうなると感染の広がった可能性は非常に低くなる。三上さん、中江さんが自宅からFCHに来て発症するまでに、コンタクトした可能性のある人間は誰ですか?」
クールな橋本さんが勢い込んで訊いてきたので、私は記憶をフル回転させた。
「三上さんは自転車で通勤していたので、公共交通機関は使っていません。今日は時間ギリギリに出勤したので、FCHについてから誰かとコンタクトする暇はなかったと思います」
「時間ギリギリに来たのなら、朝どこかに寄ったり、近くのコンビニで買い物をした可能性も低いですね」
橋本さんの声に少しだけ明るさが加わった。
数少ない朗報でムードが良くなりかけた中で、草森さんが重々しく言った。
「もう一つ、大事なことがある。この情報を公開するのか、それとも公開せずに厚労省に直接連絡するのかだ」
その問いには、全員すぐに答えることができなかった。私はなぜ躊躇するのか分からなくて思わず訊いた。
「あの、感染症が発生した場合は、すぐに保健所に連絡して、そこからエスカレーションしていくと、先ほど聞いたんですが、それじゃあ駄目なんでしょうか?」
私の問い方がよっぽど間抜けだったのか、毬恵さんがプッと噴き出した。続いて慎二先生と東さんも笑い始めた。三人に釣られて珠子さん迄笑い始めた。
「そうだね。柊さんの言うとおりだ。どうも我々は非日常的で重大な事態に直面すると、目に見えない何かに忖度して、通常の決められた手続きを疎かにしてしまう。だが、そんな例外はあっちゃいけないんだ。そうですよね、草森病院長」
東さんが晴れ晴れとした顔で、草森さんに同意を求めた。草森さんはやや複雑な表情だったが、東さんにあっさりと正論をつかれたので、すぐに笑って同意した。
ここに集まった全員がリラックスしていく中で、岩根さんだけが厳しい表情をしているのが気になった。
慎二先生のしきりで保健所への連絡をまとめる者、ウィルスの分析を行う者など、それぞれのアクションの分担を決めて、会議が終了した。
私はすぐに岩根さんに近寄った。
「岩根さん。保健所への連絡について、何か心配することがありますか?」
岩根さんは私の問いに、ややはにかみながら答えた。
「いや、久しぶりにまっとうな政治家に成れそうで、嬉しく思ったところだ。おそらくこの件については、笹山先生がいろいろ干渉してきそうでな、私が政治生命をかけて対決しなければと、気を引き締めたところだ」
そう言って、岩根さんはほんとうに嬉しそうに笑った。
「こういう役割を与えてもらって、私は君に心から感謝するよ」
そう言ったときの岩根さんの顔には、ある種の凄味のようなものが感じられた。横にいた東さんや毬恵さんも、岩根さんの決意に痺れたような顔をしていた。
「岩根さんだけ戦場に放りこむようなことはしませんよ」
東さんが気合を込めて共に戦うと宣言する、毬恵さんも横で頷いている。
それに対し岩根さんは静かに首を振った。
「富士沢は今大きく変わろうとしている大事な時です。皆さんやることが山のようにある。こういう場面では、餅は餅屋に任せてください」
岩根さんの決意が揺るぎないものだと感じたので、東さんもそれ以上は言わなかった。
それにしてもこの後、いったい何が起きるのか、ウィルスの動向以上に気になった。
いずれにしても私は自分ができることで、この街を守るために頑張るだけだと、自分に言い聞かせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます