前兆 ――全てが順調な私の前に現れた悪魔――


 その時、中江さんの身体がぐらりと揺れた。次の瞬間バタンと音をたてて倒れこんだ。私は慌てて支えたが、その瞬間に中江さんは口から血を噴き出し、その血が私の顔面にかかった。

「中江さん、中江さーん」

 何度呼び掛けても返事がない。吐血と同時に気絶したようだ。私は中江さんを静かに床に寝かせて、顔に掛かった血を拭いながら人を呼ぼうとした。その時にマイクロチップから緊急信号が出た。


――注意、注意、キメラウィルスを確認、ワクチン未接種者の接近に注意。

 キメラ、二二世紀の初頭、エボラ出血熱のウィルスがインフルエンザウィルスと遺伝子融合を起こして発生した、強力な感染力を持つウィルスだ。その致死率は七十%を超える。全世界で三十億人を死に追い込み、全人口を三分の二にいたらしめた凶悪ウィルス。

 中江さんの呼吸が早くなってきた。良くない状態だが、この世界にはワクチンはまだ無い。だからうかつに救急車は呼べない。キメラはオリジナルのエボラと違って、感染力が遥かに強い。防護服を着てない救急隊員では感染を広げるだけになる。

 スマホを取り出して慎二先生に電話した。ワンコール、ツーコール、呼び出し音がじれったい。


――頼むから出てくれ、今頼れるのはあなたしかいないのだ。

 六回目のコールでようやくつながった。

――どうしたの~柊さんから電話なんて珍しいね。

 慎二先生は機嫌良さそうな声で電話に出る。


「慎二先生、これから言うことを冷静に聞いて欲しい。FCH開発チームのメンバーがエボラ出血熱の新種に感染した。このウィルスは0.1CCの飛沫が体内に入っただけで感染する。致死率は七十%。この人はおそらく助からない」

――柊さん、何を言ってるんだ。エボラの新種なんて、なんで柊さんが知ってるんだ。

「慎二先生、そんなことは後で説明させて欲しい。とにかく今対応を誤ると一挙にパンデミックに陥る。お願いだから今すぐ慶新大学病院に緊急隔離室を用意して、救急隊員に防護服を着せて迎えに来させて欲しい。それから我々二人を搬送するために二人用の防護服も追加で頼む」


 電話口の先ではしばらく無言だった。迷って当然だ。こんな話を信じろという方がおかしい。

――分かったよ。柊さんを信じて今から体制を作るから

 電話が切れて、肩の力が抜けた。

 ゴホッ、中江さんが今度は口から吐しゃ物を吐き出した。ダメだ、このままじゃあ窒息する。急いで中江を横向きにして口に溜まった物を全て吐き出させる。


 おそらくこの部屋は中江の飛沫が飛び散っている。空気中にも漂っているかもしれない。ここに誰かが入ったら即アウトだ。

 私はもう一度スマホを取り出して、毬恵さんに電話した。ワンコールで出てくれた。

――どうしたの? 今日は結合テストの日だよね。成功の連絡?

 愛しい毬恵さんの声が、元気を与えてくれる。


「落ち着いて聞いて欲しい。中江君が新種の感染症に罹って、吐血して倒れた。今、プログラミング室にいるけど、中は危険な状態だ。今いる職員に連絡を取って、絶対に近寄らないように言って欲しい。それから今日ここに来た全員のリストを作って、今いる人は外に出さず、帰った人は自宅待機を指示してくれ」


 毬恵さんの返事が返って来るまで数秒かかった。

――あなたはその部屋の中にいるの?

「ああ、今二人きりだ。ちょうど発症時に居合わせたから」

――ねぇ、今すぐに出て、すぐに消毒して。あなたの命は……。

 毬恵さんは懸命に落ち着いた声を出そうとしていたが、動揺が抑えきれず取り乱してしまっていた。


「落ち着いてくれ、今パンデミックに成るか成らないかは、君の対応に掛かっているんだ。私なら大丈夫だ。絶対に発症しない」

 電話の先が静かに成った。およそ三十秒は経ったろうか、毬恵さんが口を開いた。


――分かった。指示通りやる。医療機関には連絡したの?

「慎二先生に連絡した。もうすぐ防護服を着た緊急隊員がやって来る。このことはまだ伏せといて欲しい。戒厳令だ。それから防虫会社に連絡して防護服付きの消毒チームを手配してくれ。我々が病院に向かった後で、部屋の消毒を頼む」

――すぐに手配するわ。絶対に死なないでね

 大丈夫だ、毬恵さんならうまく捌いてくれる。指示を出し終えて、改めて自分のワクチン接種履歴を検索する。


 大丈夫だった。キメラのワクチンは二百五十年前に接種済みだ。

 待っている間にキメラの感染経路について復習してみた。

 オリジナルのエボラ出血熱は、血液や体液に含まれるウィルスが粘膜や傷口を通して感染する。ただキメラは咳をすることで、ウィルスが大気中に散布され、三十分ぐらい空気中に漂う。これを鼻から吸い込むことにより、鼻の粘膜を通して感染する。


 中江さんがこの部屋に入ってから、もう三時間以上経っている。幸いなことに、吐血する迄咳などの症状は見られなかった。余程のことが無い限り、この部屋以外にウィルスはないはずだ。

 待つこと二十分、慶新大学病院から搬送チームがやって来た。慎二先生も同行している。

「柊さん、今ドアの前に五人で待機している。全員防護服を着ている。指示をくれ」

「それじゃあ、防護服二着この部屋に入れてくれ。二人の着替えが終わったらドアを開けるから、搬送するために入って欲しい」

「分かった。今防護服を入れる」


 ドアが少し開けられ、防護服が差し入れられた。中江さんの服の上から防護服を着せる。次に自分も防護服を身に付ける。

「じゃあドアを開けるから担架に中江さんを乗せて欲しい」

「了解」

 すぐに防護服を着た四人の男が入ってきて、担架に中江さんを乗せる。部屋を出ると慎二先生が待っていた。


「すぐに病院に戻ろう」

 廊下には毬恵さんの指示で誰も出ていなかった。この辺の手際の良さはさすがだ。惚れ直す思いで進んで行く。

 病院の車に乗り込むと、駐車場の先に毬恵さんの姿が見えた。心配そうにこちらを見ている。私は窓を開けて、元気さをアピールするために手を振った。毬恵さんが夢中で手を振っている。


 病院に着くと隔離された部屋に案内される。中江さんの防護服を脱がして、点滴を打ってもらう。私は別室に行って、防護服を脱ぐ。脱いだ防護服は焼却処分だ。

 部屋を出ると慎二先生が待っていた。

「柊さん、こっちに来てくれ」

 慎二先生の後について、医局に併設された会議室に入る。移動中はずっと無言で部屋に入るなり、慎二先生が口を開いた。


「もう柊さんのやることには改めて驚かないけど、今回ばかりは別だ。なぜ、あの患者がエボラ出血熱だと分かった?」

 答えようがなかった。この質問に答えるには自分がどこから来たか正直に話すしかない。その上で、このウィルスの危険性を理解してもらえないとこの街は大変なことになる。

 だが信じてもらえるかどうか自信がなかった。信じてもらえたとしても、今まで嘘をついていたことがばれて、一気に信用をうしなうかもしれない。

 答えが出ないまま沈黙していると、慎二先生が口を開いた。


「柊さんは私が気が狂ったと思うかもしれないけど、もしかしたらだ、もしかしたら、柊さんはもっと文明の進んだ未来から来た人じゃないのか?」

 愕然とした。慎二先生は気づいていた。答えられなくて無言でいると、慎二先生が話し始めた。


「柊さんが交通事故で運ばれてきたとき、MRIで全身写真を撮ったろう。あの就籍のときに家裁に出した写真さ。その時頭部に何か金属片みたいなものを見つけたんだ。その時は事故のとき破片が頭部に刺さったのかと思ったが、外傷がまったくない。良く調べてみると頭に小さな手術跡がある。それで、これは人為的に埋め込まれたものだと思った。特に悪い影響を与えてないみたいなのでやり過ごしたが、その後でもっと大変なことに気づいた。柊さんの手の平の皮膚は人間のものじゃない。シリコン系の薄い薄膜が多重に重ねられた化合物だ。始めは何かと思ったが、FCHの屋上を見てピンと来た。これは太陽電池のパネル層だと」


 慎二先生は何もかも気づいていた。ではなぜ?

「どうして、そのことについて問いたださなかったのですか?」

「別に柊さん自身の身体に支障がなかったら、もし柊さんがどこかの国のスパイか何かで、そういう特殊手術を受けていたとしても、いいかと思ったんだ。柊さんは木乃美の命を救ってくれた大恩ある人だ。それに勝るものはない」


「でもどうして未来から来たと思ったんですか?」

「親父が見たんだ。柊さんがタイプもしないのに、パソコンのモニターにプログラムを表示させてる様子を。親父はびっくりして電話してきた。その時もしかしたらと思った。以前病室でカレンダーを見て、今二〇二〇年だと気づいてびっくりしていただろう。なぜかあの顔が印象に残っていた。もちろん親父には酔っぱらってたんだろうって言って、口止めしといたけどな」

「そうなんですね」


 私は観念した。もう全てを話すしかないと覚悟した。

「いいよ、詳しいことは話さなくても。ただ、今はこの病気の根拠が欲しい。だから未来から来たのかどうかだけ、教えてくれ」

 その言葉を聞いて、心の底から熱いものが湧き上げた。慎二先生はまだ自分を信じてくれている。もう、何のためらいもなく、首を縦に振った。

「やっぱりそうだったんだな……」


 慎二先生は私が肯定したのを見て涙を浮かべた。

「心細かったよな。未来からたった一人でこの時代にやってきて、知り合いは一人もいないし、明日からどうやって暮らしていけばいいか分からないし。寂しいよな、そんなことになったら」

 その言葉を聞いて、私の目にも涙が浮かんだ。慎二先生に出会えて良かったと心の底から思った。三一世紀には絶対にいない。この時代に来て本当に良かった。


「よし、さっそくエボラの新種への対策に乗り出そう。柊さんも手伝ってくれ」

「やりましょう。絶対にパンデミックを起こさないために」

 私たちは二人して会議室を出た。

 ふと廊下の窓から外を見ると、先ほどまでの真夏の空が、真っ黒の雲に覆われていた。どうやら夏のスコールに成りそうな雲行きだ。それでも一雨過ごせば、また夏の日差しが返ってくるはずだ。今の自分たちのように……

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