恋の芽生え ――ラーメン屋で二人の仲は
そう言えば、酒は飲んだが何も食べてなかった。意識すると急速に空腹を感じ始めた。
「何か食べたいです」
「そうですよね。私もおなかが空き過ぎて苦しくなりました。ラーメン食べに行きませんか?」
「行きます」
もしかして空腹で苦しくなって泣いたのか?
確かに身体の細い毬恵さんは貯められるエネルギーの量も少ないだろう。身長はそれなりに高いのに、ウエストなんか五十センチないかもしれない。
泣いた理由もはっきりしたので事務所に鍵を掛けて、通りの少し先にあるラーメン屋まで歩いて行った。そこはカウンターが十席しかない店だが、スープが旨くてお昼時はいつも人が並んでいた。
店に着くとさすがに閉店間際で客は二人しかいなかった。
私はとんこつチャーシュー麺、毬恵さんはバター醤油麺を注文した。
注文が終わると毬恵さんがコップに水を注いで渡してくれた。こういう気配りが毬恵さんのいいところだ。
「さっきはごめんなさい。泣いたりして」
毬恵さんがすまなそうに謝ってきたので、慌てて否定する。
「誰でもおなかが空いたら苦しくなります。今日は投票日でたいへんだったのだから、泣いちゃっても不思議じゃないです。大丈夫です。毬恵さんがお腹が空き過ぎて泣いたなんて誰にも言いません」
私がこの件を秘密にすると誓うと、毬恵さんは切れ長の目を真ん丸にして、いきなり笑い出した。あんまり笑い続けるので、恩着せがましかったかと焦った。確かにここで誰にも言わないなどと、言う必要はなかったかもしれない。
「アハ、アハハ、ちょっと柊一さん、おなか空いてるんだから、そんなに笑わせないで。ああ、苦しかった」
毬恵さんの笑いが治まるとちょうどいいタイミングでラーメンが出て来た。二人とも無言で貪るように食べる。
食べ終わって水を飲んだら、毬恵さんも食べ終わった。お腹がいっぱいになって、毬恵さんの顔に艶が出て来たような気がする。
「すっかり元気になりましたね。行きましょうか」
「ええ、事務所に戻りましょう」
別々で勘定を済ませて店を出た。来るときはバタバタしていて気づかなかったが、昼間晴天だったせいか、空には無数の星が瞬いていることに気づく。
星空の下を歩きながら、
「やっぱり美味しいものを食べると元気に成りますよね」
と、言うと、
「いやだ、また笑わせないでよ」
と、言いながらゲラゲラ笑った。
笑う姿を見てすっかり安心した。
「前にコンサル事務所で働いていたときの話なんだけど……」
話題が変わった。毬恵さんは今度は落ち着いていた。
「私は何か私じゃないとできない発想で、困っている企業を救いたいと思ってたの。でも入った会社は大手で手法は既に確立されていて、私のオリジナリティなんてまったく必要とされなかった」
それは何となく分かる。AI政府の行政は無数のパターンに基づいて、その場の状況に最適なものをチョイスして行われる。AIはオリジナリティは求めない。
「それでもいつかは自分が考え出した方法で、お客様のベストオブベストに成ろうと、実績を上げるために必死で頑張ったわ」
ふと、仕事に集中しているときの毬恵さんの顔を思い出した。
「外資系だったこともあって、五年目にして主力コンサルタントになったの。でもその頃には初期の志など忘れて、会社のテンプレートに乗っかって得意になって仕事をするようになってた。そんな時に突然、父親から印刷工場がもうダメそうだと連絡があったの。私は会社を閉める前に状況分析をさせてくれと、申し出たわ」
「そうか、まさに得意分野ですよね」
私が納得して相槌を打つと、毬恵さんは激しく首を振った。
「そうではなかった……私はすぐに父の会社の欠点をいくつも見つけた。無駄な人件費が多すぎること、不要プロセスが整理されてないこと、意思決定プロセスが整理されてないこと、購買ルールが曖昧なこと、IT導入が不十分なこと、その他も含めて改善点は無数にあった。それらを財務破綻を起こさないような改善計画にして、父に説明をしたの。でも父は笑って採用しなかったわ」
「どうしてですか?」
「それはもう自分の会社じゃないって」
「自分の会社じゃないって言っても、そうしないと潰れてしまうんでしょう」
「そう私も言ったわ」
「潰れてもやり方は変えたくないってことですか?」
「そうではなかったの……実際にはもっと深かった」
その時の毬恵さんは失敗を悔いて自分を責めるダークな感じではなく、もっとそう、透明な感じがした。
「私は地方の印刷会社ってプリンターの代替えと思ってた。これだけパソコン技術が上がって、高品質のデスクトップパブリッシングが一般的になってくると、印刷会社に頼むメリットって、大量の印刷を早くできることしかないと思ってたの」
三一世紀には紙はほとんど使われないので、印刷会社の何たるかは私には理解できない。それでも選挙に携わったおかげで、この時代の印刷業についてはなんとか想像できる。その想像は毬恵さんが思う印刷会社とあまり大差なかった。
「違ったんですか?」
「グローバルに公式化された経営管理手法で、簡単に分析してはいけない奥深さがそこにはあった。父は町の印刷会社を地元の商店街全体の広報部にしようとしていた」
「町の広報部……ですか?」
「ええ、その頃商店街自体も大型スーパーの進出や、ネット販売の浸透で大きなダメージを追っていて、シャッター商店街に成るのも間近だった。その一番の問題は商店街が高齢化しているのに後継ぎがいないこと、せっかく店舗も顧客もいるのに、それを維持するために工夫ができる元気な人材がいないことだった」
「どうしてそうなるんですか?」
私が不思議そうに訊くと、毬恵さんは驚いたような顔をして、私の顔をまじまじと見た。
「ほんとにあなたって人は、そういうところから話さなければいけないのね。でも、そういうところから突っ込んでいくと、この話も今後の市政の方向性に、関係あるかもしれないわね」
私たちは事務所に着いたのでいったん話を中断して、コーヒーを飲むことにした。二人で応接テーブルに向かい合って、毬恵さんが淹れてくれたコーヒーを飲む。
毬恵さんの雰囲気は思い出話から仕事モードに切り替わった。
「まず日本という国は完全な東京一極集中社会なの。でもって若者は、大学ぐらいから
「どうして東京なんですか?」
「そうねぇ。やっぱり若者を惹きつけるものが多いからかしら。それに大学の数も多いから、進学のために東京に来る人も多い」
確かに富士沢には大学はなかった。静岡県全体でみても四年制大学は二十ぐらいしかないはずだ。三一世紀は完全に通信教育なので、私にとって学校という存在自体が未知のものなのだが。
「そうなると、富士沢から若者は少なくなりますね。後継ぎもいなくなってしまう」
「あら、そこはもう納得したの」
「ええ、私には理解できない要素が多いので、そこに拘っていると話の全体像が見えなくなりますから、理解は後回しにします」
「そうね。いい判断だわ」
そう言って毬恵さんはまた楽しそうにほほ笑んだ。
「父はうちの印刷所はしょせん地方の小さな印刷所。いくらデジタル化して全国的に市場を広げても、顧客獲得は難しいから、この街に特化してこの街の魅力を伝えるコンテンツを作ろうと考えたの。その最初のターゲットが死にゆく商店街だった」
「何だかドキドキしてきました」
「まず、商店街がスーパーに勝てない最大の理由は、スーパーなら一か所でほぼ欲しいもの全てが手に入る。しかも大型冷蔵庫の普及で、一度に大量の食材を買えるようになって、買い物に車が必須となった。つまり駐車コストや駐車場の利便性が重視される」
「大型冷蔵庫と車ですか」
「ネット購買も同様ね」
「ちなみに商店街の強みは何ですか?」
「信頼感かな」
「信頼感?」
「売っている人の顔が見えるというのは、特に食料品なんかは安心できるわ」
「それだけですか?」
私はこの世界に来るまで購買行為はしたことがないが、食料などAI政府からの配給なので、そういう感覚を持ったことはなかった。
「そう、驚くほど弱いわ。だから父は思ったの。商店街の強みを新たに作り出さないといけないと」
「何をしたんですか?」
「商店街は個別だから弱い。だから連合させたの。八百屋、肉屋、酒屋それに洋服屋に帽子屋、家具屋、それぞれのお勧めをフリーペーパーにしてポスティングして、注文をまとめて宅配。宅配は酒屋さんがまとめてやってくれて……」
「すごい行動力ですね」
「最初は無料で掲載して、利益が上がったら、歩合でもらって、結構成功していたみたいなの。それには印刷所のメンバーもすごく頑張ってくれて」
「どうして経営難になったのですか?」
「市役所のせいよ」
「えっ?」
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