慧眼の士 ――腹腔鏡の見づらい映像に驚いた私は

 医局に行くと慎二先生はシュミレーション室に行って不在だった。

 秋永医院の関係者ということでシュミレーション室に行くと、慎二先生は腹腔鏡下手術のトレーニングをしていた。

 しばらくその様子を見ていたが、シュミレーションだというのにかなり緊張した空気が伝わってくる。その様子に魅入られ、更に一時間ばかり見ていると、慎二先生が顔を上げて私に気づいた。


「ああ、柊さん、ずっとそこで見ていたのですか?」

「ええ、真剣な姿に見入ってしまいました。気合が入ってますね」

 私が感心して褒めると、慎二先生はイヤイヤと首を振った。


「気合とかそういう問題ではなく、腹腔鏡下手術は緊張します。実際の視界とモニターに映る遠近感の違いなどが難しいですね」

「この映像で手術するんですか」

 確かにモニターに映る映像は酷い精度だった。コンピューターによる映像補正が全くされてなく、単なる2D映像だった。この時代の技術の限界かもしれない。

「もう少し映像が立体的に成ったらやりやすいですか?」

「そりゃあそうですが、そんな腹腔鏡はないですよ」

 慎二先生が諦めたように言う。


「ちょっとこちらのモニターに送られてくる映像を見せてもらっていいですか?」

「いいですよ」

 モニターにつながれているケーブルを引き抜いて、持参したPCに接続する。マイクロチップとインターフェースして、映像データを3D補正するプログラムに送り込む。

 我ながらいい出来栄えだ。まるでそこに心臓の内部が開胸されて見えるようだ。PCから映像を外部モニターに戻してやる。


「慎二先生、このモニターを視てください。少し映像が改善されたと思うんですが」

「えっ、柊さん、これはいったい何をしたんですか?」

「映像を見ていて、昔カメラ映像を3D補正したプログラムを思い出したんです」

「ちょっとそのままにしてくれていいですか」

 慎二先生は手早くメインモニターとサブモニターの位置を変えて、再びシュミレーションを始めた。今度は三十分ばかりで終了した。


「柊さん、すごいよこのプログラム。まるで自分の目で直接患部を見ているようだ」

「これなら、明日の手術の成功率は上がりますか?」

「上がるよ。本当にすごい。柊さんてもしかしたら、前は医療機器メーカーの研究室で働いていたんじゃない」

「いや、過去の記憶はないんですけど、コンピューター関連だけ思い出すんです」

「それにしても天才だよ」

「こんな発明を世に出せば、柊さんはすぐに億万長者だよ」

「ハハ、大げさだなぁ、慎二先生は。それよりも明日は頼みますよ」

「分かった。柊さんのおかげで自信がついた」


 それから慎二先生の英断で、慎二先生のPCに3D補正プログラムを移植して、テストした。これで明日は本番用のモニターにPCを介して映像を送るだけで、今日と同じ環境が再現できる。

「慎二先生、明日は頑張ってください」

「分かった、柊さん、明日は全力を尽くすよ」

 慎二先生の顔にやっと余裕が感じられた。


 次の日、手術の二時間前に慶新大病院に行き、病室に入って驚いた。ベッドの傍に色鮮やかな千羽鶴が立て掛けてあったのだ。

「どうしたんですか、これ」

 思わず既に病室に来ていた藤山さんに訊くと、

「今朝早く下条先生が持ってきてくれたんです。昨日学校に帰ってから、子供たちと一緒に手分けして作ったらしいんです」

 藤山さんは嬉しそうに説明してくれた。吉原先生も嬉しそうな顔をして見ている。


「それであんなに急いで帰ったのか。それにしても凄いですね。いったい何人で作ったんだろう」

「百人近い生徒が協力してくれたみたいですよ。ありがたいですね」

「ホントに嬉しい。みんなの思いに応えないとって勇気が出るわ」


 藤山さんと吉原先生は二人で見つめ合って、どちらともなく微笑んだ。本気で教育に取り組んだ人たちへのご褒美なのかもしれない。

 藤山さんと吉原先生は、教員時代の思い出話をしていた。そこには幼き日の慎二先生や東さんも登場した。下条先生も頑固で融通が利かないが根気強い少女として登場した。

 二人にとってはキラキラした宝石のような思い出話なのだろう。


 手術時間がまじかに迫ると、斎藤さんが迎えに来た。

 藤山さんが「行ってらっしゃい」と言って送り出す。

 吉原先生の姿が病室から消えると、藤山さんの顔が見る見るうちに真っ青になった。実は手術を勧めた者として、極度のプレッシャーと闘っていたことが見て取れた。


「大丈夫ですか?」

「面目ないです。私が手術を受けるわけでもないのに、昨日から不安で良くないことばかり考えてしまうんです」

「慎二先生なら大丈夫です。信じましょう」

 藤山さんは力なく頷く。膝は力なく震えて今にも崩れ落ちそうだ。それにしても昨日見た、毅然とした藤山さんが、これほど動揺するのに驚いてしまった。


「ダメですね。この年になって未だに欲がある。吉原先生と二人で過ごす幸せな毎日を思うと、不安が大きくなっていくんです」

 分かりますとも言えず、ただ無言で藤山さんを見ていた。

「あなたは凄いですね。こういう場面でも気休めの言葉をかけることなく、真っ直ぐに私を見ている。逆に励まされます」

「すいません、鈍くて。でも慎二先生を本当に信じているんです」

「そうですね。今更私が心配しても仕方が無い。信じましょう」


 藤山さんと二人で病室を出て手術室に向かう途中で、急いで駆け付けてきた東さんと毬恵さんに出会った。

「しまった、もう手術室に入ってしまいましたか」

「はい、でも手術はこれからです。急ぎましょう」

 我々四人が手術室に着くと、六人の老人が既に手術室前にいた。

まさちゃん、もう先生は手術室に入ったぞ」

 その中の一人が藤山さんに声を掛けてきた。

「ああ、来てくれたのか」

「そりゃそうだ。みんな吉原先生には御恩がある。それに手術が無事成功したら、みんなで二人の結婚祝いをしなきゃいけないからな」

 その老人が失敗などありえないという顔で、藤山さんを励ました。


「ありがとう、ありがとう、みんな」

 みんな藤山さんの同級生で吉原先生の教え子らしい。藤山さんを心配して来たのは明らかだった。

「みなさん、慎二先生を信じて待ちましょう」

 私の言葉を合図に全員が祈るような顔つきで手術室のドアを見た。

 それから三十分もしないうちに手術室の灯りが消えた。


「早すぎないか」

 東さんが終了時刻が早すぎると心配する。

 手術室のドアが開いて、慎二先生が出てきた。

「手術は成功です。後六時間もすれば、吉原先生は目を覚まします」

 ウォー、やったー、その場にいた全員が歓喜の声を上げる。藤山さんの顔に安堵の色が見えた。


「良かったですね。これからたっぷり過ごせるんですよ。吉原先生と幸せな日々が」

「ありがとう……」

 藤山さんは鼻声で私に礼を言った。もしかしたら無事手術を乗り切った吉原先生に向けた言葉かもしれない。


 慎二先生が私の前に来た。

「柊さん、凄いよあのモニター。まるで目の前に患者の身体があるようだった。あれが有れば、今後の腹腔鏡の成功率は跳ね上がる」

 私と慎二先生は両手で固く握手を交わした。横で東さんと毬恵さんが訳も分からずポカンと見ていた。


「慎二、ありがとう!」

 東さんの大きな手が、今手術を終えたばかりの慎二先生の手を、包み込むように握りしめた。

「柊一さん、何をしたんですか?」

 いつの間にか毬恵さんが横に来て、先ほどの慎二先生の言葉の意味を訊いてくる。

「いや、特に大したことはしてないです」

 昨日思わずやってしまったことだ。あまり追及されたくなくて、適当にごまかそうとしたが、毬恵さんの目はごまかされないと言わんばかりに鋭かった。


「三上さん、ありがとう! 君の存在が大きな心の支えになったよ」

 毬恵さんの追及に困っていたところに、藤山さんが自然に割って入って来た。ありがたいと思いながら、藤山さんに背中を押されて友人たちの輪に入り、その場をうまくやり過ごすことができた。

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