愛と死 ――佐川の思いを下条先生に打ち明けると……

 秋永医院に戻ると、慎蔵先生が忙しく子供たちを診ていた。まったく小児科という仕事は忙しい。子供は政府によって診療費用が全額補助されるので、ちょっと調子が悪いと容赦なく親が連れて来る。

 もう少し自宅で様子を見てもいいんじゃないかと思うが、慎蔵先生は、子供の身体を大人が見立てをするのは危険で、やはり少しでもおかしいと思ったら医者に見せた方がいいと言う。

 だから、慎蔵先生はどんなに忙しくても決して文句を言わない。それは満江さんも同じだ。


「おう、柊さん、お帰り」

 診察の変わり目で慎蔵先生が、声を掛けてくれた。

「忙しいときに申し訳ありませんでした」

「いいよ、それも患者さんのためだ」

「実は重ねて申し訳ないのですが、今日の八時に慶新大病院の看護師の斎藤さんが、私と話をするためにここに来るので、どうか先生も一緒に聞いてもらえないでしょうか」

「ああ、慎二のところの気の付く看護師さんだな。それはいいが、深刻な話かい?」

「ええ、かなり」

「それなら飯でも食いながら話した方がいい。おい満江、今日慎二のところの斎藤さんが来るって言うから、夕飯は一人分プラスな」


 慎蔵先生のぶっきらぼうなオーダーに、満江さんは笑って頷いた。

 それから病院の閉まる七時まで患者さんが途切れることなく続いた。私も子供の世話や、使った診療器具の洗浄などで忙しく働いた。

 ようやく診察が全て終わって、掃除と片付けが済んだときには、時計の針は七時半を回っていた。

「柊さん、じゃあ一足先に家に帰ってるから、斎藤さんが来たら戸締りして、一緒に来てくれ」

 慎蔵先生はそう言って帰って行った。私は一人で待合室に残って斎藤さんを待った。

 待っている間に患者さんのことを思い出す。今日は軽い症状の子が多かったが、一人だけ高熱でぐったりしていた子がいた。明日は良く成るといいのだが。

 そんなことを考えていると、ドアが開いて斎藤さんが入って来た。


 私服の斎藤さんはナース姿と違って、若い女性らしく艶やかだった。ナース服より身体の線が強調されている。

「こんばんは。すいません、無理言っちゃって」

「とんでもないです。斎藤さんこそ疲れてるのに、わざわざここまで来て大変ですね」

「患者さんのためならへっちゃらです」

「慎蔵先生が、どうせ話すなら夕飯を一緒にどうかと誘ってくれました。どうですか、家の方へ行きませんか」

「わあーいいんですか。なんか厚かましいですが、お腹がすごく減ってたんです。嬉しいです」


 斎藤さんは若者らしく遠慮なく応じてくれた。病院の戸締りをしてから、斎藤さんを慎蔵先生の家に案内する。と言っても病院のすぐ隣だ。

「ただいまー」

「お邪魔しまーす」

 若い女性の声が家の中に響くと、慎蔵先生が自ら出迎えてくれた。

「いらっしゃい。久しぶりだね」

 慎蔵先生の案内でリビングに通されると、そこには一足先に帰った満江さんが、腕によりをかけて作った料理が既に並んでいた。


「美味しそうー」

 なす、レンコン、ニンジン、サツマイモ、生姜を煮込んだみぞれ餡をかけた、ホキの唐揚げをメインに、ほうれん草のお浸し、牛肉の甘煮、黒豆そして絶品お味噌汁と、今日も豪華な献立だった。

 まずは腹ごしらえと、話は後にしてご馳走に向かう。私は食べながら、生きていればこんなに美味しい料理を食べることができると、しみじみ思った。


 各々が満江さんの料理に堪能し、腹具合も満腹になったところで、慎蔵先生が私の方に向き直って、今日はどんな話を聞いて来たのかと切り出してくれた。

 私は佐川さんの教職にかける思いと、下条先生に託す期待、そしてそのために自ら身を引く覚悟を説明した。


「頭の中で考えた理論じゃな」

 慎蔵先生がポツンと口にした。

「どういう意味ですか? 現実的じゃないということですか?」

 私は詳しい説明を催促した。

「そういう形でお別れしては、下条先生は理想とする姿に辿り着けませんよ」

 慎蔵先生に代わって光江さんが答えた。


「なぜですか」

「本当に愛した人を放って、誰かの子供を得たとしても、それは子供を授かる前提が間違っているからです。子育てを経験するために子供を儲けるのでは、目的と手段があべこべじゃないですか」

「佐川さんはもう長くないかもしれないと、自分で言ってました」

「下条先生のために、辛くても佐川さんは一緒にいるべきです。愛を全うさせてあげないと、下条先生は次に行けませんよ」

「でも、佐川さんは辛そうでした」

 私は何か佐川さんが可哀そうになった。


「もちろん辛いのはよく分かる。でも佐川さんは下条先生に自分の遺志を継いで欲しいと思っているんだろう。それならば、自分も精一杯生き抜こうとする姿を見せなければいけないよ」

 温和な慎蔵先生が珍しく厳しい顔で言った。

「生きるために頑張れということですか?」

「そうだ。それが佐川さんの務めだろう。佐川さんはただ生きようと頑張るだけでいい。苦しいとか痛いとか、なぜこんな目に合うのかと、恨み言を下条先生にぶつけてもいい。生き抜いて頑張り抜いてくれれば、結果がどうなっても下条先生は前を向ける」


「どうしてそんなに頑張らなくてはならないのですか?」

「愛し合った者同士の互いに生じる責任だと儂は思う」

「私はどうすればいいですか?」

「下条先生に全て話しなさい。そして下条先生から生きるように説得してもらえばいい」

「もし佐川さんが説得を聞かなかったら」

「いずれにしても、下条先生が佐川さんから離れない口実ができる」

「そういうもんですか」

「まずはやってみなさい」

「三上さん、私もお手伝いします」

 斎藤さんにも背中を押されて、決心がついた。


 下条先生はやや緊張した面持ちで正面にいる。

 次の日早速下条先生に佐川さんのことで話がしたいと、慶新大病院に来てもらった。もちろん斎藤さんも同席している。

 昨夜決心したつもりだったが、下条先生を前にすると言葉が出てこない。躊躇っていると、斎藤さんが話し始めた。


 斎藤さんは、かなり正確に佐川さんと私のやり取りを再現したが、少しだけ佐川さんに対する責めの感情が入っていた。無理もない。佐川さんを救うために、毎日懸命にケアしている立場としては、生きることを頑張らない姿勢は裏切り行為だ。

 だから慎蔵先生は私に話すように言ったのだろう。自分で話さなかったことを、少しだけ後悔した。


 下条先生は斎藤さんの話を聞きながら、両肩が小刻みに震えていた。相当ショックを受けていることが伝わって来る。今日は下条先生と佐川さんが話すのは、無理かもしれないと思った。

 ところが斎藤さんが一通り話し終わると、下条先生は冷静に、ありがとうございましたと礼を言って、すっと立ち上がった。


「どうするんですか?」

「もちろん佐川先生と話してきます」

 下条先生は冷静な口調で答えた。

「頑張って生きるように説得するんですか?」

 自分でも要らぬ質問だと思った。二人の間に立ち入る権利はない。

「いいえ、説得はしません」

 意外な答えが返ってきた。隣の斎藤さんは自分がまずいことを言ってしまったのかと青褪めている。

 第三者の我々の介入に怒ったのか、あるいは呆れて佐川さんを見限ったのか……


「あの、気分を悪くしましたか?」

「もちろん気持ちのいい話ではないですよ。勝手な話だと思います。でもそれでもあの人らしいと思ってしまうんです。そういう自分の理想に一途なところが好きですから」

 下条先生はそこで初めて笑った。


「だから言ってやるんです。別にあなたがどう考えようとかまわないけど、私は全力であなたをサポートするって」

 強烈な意志だった。穏やかに言っているが一歩も引かない強さを感じる。佐川先生がどう思おうと、彼女は自分の意志に従って行動する自由はある。

 なぜなら二人は既に愛し合っているのだから。佐川さんがそれを拒んだとしても、一方でそれは彼女の権利なのだ。


 漸く慎蔵先生の言う愛し合うということが分かった気がした。

「頑張ってください」

「ありがとう」

 佐川さんの病室に向かう彼女の背中に、心からエールを送った。

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