死が教えてくれた味 3

 この理論に基づいて考えてみると、タイプワープした原因はあの日食ぐらいしか思いつかない。冬樹は地球と同じ大きさの彗星だと言っていた。それならば凄まじい重力を持っているはずだ。それが影響したのだと勝手に解釈した。


 マイクロチップの感情制御のおかげで、パニックになることは避けることができた。これも自然現象の一部なのだ。起こってしまったことを嘆くよりも、今どうするかが重要だと自分に言い聞かせた。


 私はいったん思考を終えて、ベッドに横たわって天井を見上げた。

 現実に戻ると深刻な問題があることに気づく。

 ここでは自分は戸籍がない人間なのだ。三一世紀ほどではないにしても、戸籍があることによって政府から与えられる保護は多いはずだ。


 次に財産がないことに気づく。貨幣制度が活きているとすると、この病院の支払いにしてもできない状態なのだ。


 思考を進めていく中でもっと大きな問題があることに気づく。この世界では再生医療はあまり発展していないようだ。時間が経つに従って細胞の再生能力が衰えるから、年を取るとそれなりに老けていく。最終的には寿命が来て死に至るだろう。

 細胞の老化だけではなく、癌や白血病を発症すると代替え臓器がないから、その先には死が待っている。

――死? 死とは何だろう?

 私は人間の死を見たことがない。何にしても楽しいものではないと思えた。


 これからどうやって生きていくか真剣に考えてみた。

 この世界の知識が少なすぎて策を立てることは難しいが、今ある知識をベースに考えに考え抜いた。それでもこれといったいい考えは見つからない。


――なんだか楽しいぞ!

 三一世紀で生きる限り、こんなにも真剣にどうやって生きるか考えたことはない。悩みがないこともまた悩みであった。


 しばらく考えていると、看護師の制服を着た若い女性が入って来た。

「三上さん、正式な入院手続きを取りますので、こちらの用紙に必要事項を記入していただけますか」

 愛らしい笑顔でクリップ付きの下敷きに挟まれた書類と、ボールペンを差し出してきた。木乃美といいこの女性といい、この時代の女性は気持ちのいい顔をする。

 三一世紀の何の愛想もない女性の顔とは大違いだ。


「すいません、事故のショックだと思うんですが、名前以外のことがどうしても思い出せないんです」

 ありきたりだがそう言うしかなかった。うかつに本当のことを話すと、頭をやられたと誤解される。マイクロチップがそう教えてくれた。


「えっ、それは大変じゃないですか、すぐに秋永先生に報告しないと」

「本当にすいません、自分の記憶がないことの自覚が有りませんでした」

「分かりました。少しお待ちください」


 胸のプレートに斎藤と書かれた若い看護師は、急いで病室を出て行った。

 五分ほどすると秋永先生が、先ほどの看護師、斎藤さんと一緒に病室にやってきた。

「三上さん、自分のことが思い出せないのですか?」

 秋永先生の目は真剣だった。

「はい、思い出そうとしても、何も思い出せないんです」

「名前以外に何か思い出せることはありますか?」

「それが何も思い出せないんです。家どころか家族も友人も、自分がどんな仕事をしていたかとか、年さえも分からないんです」

 必死の演技だった。ここで信じてもらえなければ、この先この世界で生きていくことは困難になる。


「そうですか……それは大変です。頭で痛いところとかありますか」

「いえ、痛いところはありません」

「そうですか、それでも頭部の検査は早いうちにした方がいいですね」

 秋永医師はいい人なのだろう。娘の恩人を心配して顔を曇らせた。


「ご迷惑をおかけします」

「とんでもない、あなたは私の娘を助けようとしてこうなったのですから」

「足の具合が悪くなければ、少し病院内を回ってみますか?」

 突然、斎藤さんが提案して来た。


「病院内をですか?」

「ええ、病室にばかりいると気が滅入って悪いことばかり考えますから、病院内を回って他の患者さんや職員に接したりしたら、多少気分が変わって何か思い出すかもしれないと思います」

「それはいいね。どうですか」

 確かにこの見知らぬ世界で生きていくためには、それはいいオリエンテーションに成りそうだった。


「お願いします」

 そう言って頭を下げると、二人とも少しホッとした表情を見せた。

「私、手が空いたら付き添います」

「私も時間がある時はつきあいましょう」

 そう言って二人は出て行った。


 どうやら信じてくれたようだ。今日のところは何とか乗り切った安堵で、少し眠くなってきた。変な意味でこの世界に来てから自然に眠れる。

 私は少しずつ意識が遠ざかっていくのを感じながら、やがて深い眠りに落ちた。



 翌朝、右足の痛みがだいぶ引いていた。

――おそらくもう二日もすれば普通に歩けるようになるはずだ。

 退院してからどうするか考えていると、斎藤さんがやって来た。


「おはようございます、三上さん。今朝の御加減はいかがですか?」

 斎藤さんは優しい笑顔を向けてくれた。

「ありがとうございます。斎藤さんの笑顔を見ていると痛みもなくなってきます」

 心からそう思った。三一世紀で暮らしているときは思っても見なかったが、人の笑顔は癒しの効果があることを知った。


「私は昨日夜勤だったので、引継ぎが終わったらもう帰れます。よろしかったら少し院内をご案内しましょうか?」

 昨日のことを覚えていて、早速実行してくれる心遣いが嬉しかった。

「夜勤明けってお疲れじゃないですか?」

「大丈夫ですよ。まだ若いですから」

 我々のような見せかけの若さではなく、心が若くて瑞々しさが伝わってくる。


「それでは、お言葉に甘えて、少しだけ付き合ってもらってよろしいですか?」

 やはり地理不案内の場所にいるのは心細い。本音では早めに院内をチェックして、少しでも情報を集めておきたかった。


 三十分後、斎藤さんが車椅子を持ってきてくれた。

 介助されながら乗るときに、ぷーんと甘い匂いがした。もう百年近く嗅いでない匂いだったので新鮮だった。

 斎藤さんが車椅子を押して病室を出る。別に監禁されていたわけではないが、解き放たれるような解放感を感じた。


 そのままエレベーター迄行く途中で、忙しく働く看護婦さんに出会い、そのたびに「おはようございます」と気持ちよく挨拶をもらった。

 三一世紀の病院はロボット看護師しかいない。そもそも働いている人間など滅多にいない。

 エレベーターに乗り込み斎藤さんが『1』と書かれたボタンを押す。エレベーターはグインと音を立てて下に降りていった。古いタイプのようで、かなり音が大きくて、振動も感じた。スピードも遅く、病室のある六階から一階に行くのにかなり時間がかかった。


 エレベーターを出て廊下を進むと、検査室に紛れてショップがあった。何人かの患者さんが買い物に来ている。

「あれは何のお店ですか?」


 そのショップはよっぽど有名な店だったのか、斎藤さんは怪訝な顔をしながら、「コンビニですよ」と答えてくれた。二一世紀では余程有名な店なのかと思って、マイクロチップに紹介すると、店名ではなく食べ物からちょっとした日常品まで、様々な生活の必需品を売っている店の総称だと分かった。


 正式な名称は「コンビニエンスストア」で、他に「スーパーマーケット」などの名称のショップもあるが、コンビニは少し割高であるが店舗数が多く、二四時間対応しているのが特徴だということだった。


 三一世紀のネットセンターに似た機能を持っているようだ。

 ネットセンターも二四時間注文でき、宅配ロボットが三十分以内に品物を届けてくれる。

 更に進むと娯楽室と書かれた部屋があった。部屋の奥に小さなモニターが置いてある。

「あれは何を映しているのですか?」と、斎藤さんに聞くと、

「テレビを見たり、映画を見たりしているんです。去年改装したときに五五型の大きなテレビに変えたので好評なんです」と、教えてくれた。


 もう少しでポータブルタイプですかと、口にするところだった。

 ここにも子供がいた。どうもこの世界には子供がたくさんいる。この男の子は木乃美と違って動きがせわしい。母親と思える女性が時々鋭い声で行動を威嚇していた。

 齋藤さんは入ってみますかと言ってくれたが、まだ子供への接し方がよく分からないので、今日のところは遠慮した。


 廊下の向こう側はエントランスに成っていた。たくさんの患者が受付の順番待ちで椅子に座っていた。受付にはロボットではなく女性が座って、患者さんを案内している。


 どうやら二一世紀ではロボットはほとんど使われず、人間が働くようだ。

 人間が働く世界は未知の世界であるが、今日の齋藤さんの看護を受けていて、少なくとも看護師だけは、人間がやった方が心地いいものだと思った。


 それにしても紙の多いのには驚く。患者、職員、医者、看護師、ここにいる人間はみんな紙を持って動いている。そして時折ペンを使って紙に文字を書き込んでいる。

 こんなに紙に情報を入れたら、きっと整理するのが大変だろうと思った。三一世紀のように目で見た情報をマイクロチップで、直接電子ファイル化するしくみがまだできてないのだろう。


 エントランスを出て病院の庭に出た。庭の端には広い駐車場があり、そこには人が運転する車がたくさん並んでいた。

 そこへ車体に黒猫の絵が描かれた大きな車が来た。その車は駐車場に止まると、二人の屈強な男が降りてきて後ろの荷台のドアを開け、大きな荷物をいくつも運び出し始めた。

 その様子を見ながら私は思わず、「凄いなぁ」と呟くと、斎藤さんが「何がですか?」と聞いてきた。


「いや、あんな重そうなものを何個も運ぶなんてすごいなぁと思って」

「仕事だからしょうがないですよ」

「仕事……そんな仕事はしたことがないなぁ」

「三上さんはあのぐらいの荷物なら軽々運べそうな体つきなのに、きっと頭がいいから身体は使わないのですね」

「……」

 なんだか恥ずかしい気がして、働いたことはないとは言えなかった。


「斎藤さん、あそこに見える山は……」

「ああ、富士山ですね。この病院は町から少し離れていて高い建物がないから、よく見えるでしょう。三上さんのお部屋は窓が反対側にあるから見えないけれど、大部屋にいる人は富士山を見て入院生活の慰めにしてます」

「近いんですか?」

「ここから五合目まで五十キロぐらいです。富士沢市の富士は富士山から取ってるんですよ」


 斎藤さんは富士山の見える景色を自慢にしてるのか、少し得意げに説明してくれた。

 私はゴルフ場も富士山の近くだったことを思い出した。ふと光男と冬樹のことが頭に浮かぶ。

――あいつらは無事なのか、それとも突然自分が消えたので心配しているのか……

 だが、そんな心配はすぐに解消する。あいつらが他人の心配をするわけなかった。


「斎藤さん、そろそろ病室に戻りましょう」

 私は急に暗い気持ちになって眠りたくなった。今日はいろいろな人間の感情に触れてしまって疲れたのかもしれない。


「あっ、ごめんなさい。私ったら調子に乗って……疲れましたよね」

「大丈夫です。今日はありがとうございました」

 病室に戻る途中、私は無口だった。斎藤さんも私が疲れたと思ったのか、話しかけてこなかった。エレベーターで六階に昇って、病室まで廊下を進んでいると、老婆が花瓶を持って病室から出てくるのに遇った。

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