死が教えてくれた味 2

 目が覚めたときはベッドの上だった。腕には長いチューブにつながった針がついている。チューブの先には液体が入った小さなタンクがある。

 マイクロチップに照会すると点滴という昔の医療器具らしい。

――これでエネルギーを補充するのか。

 何とも効率が悪そうな方法だった。輸血のように血管に直接送り込んでいるにも関わらず、全部吸収するのは長い時間がかかりそうだ。


 壁は白かったが室温調整建材ではなく、どうも布が貼ってあるようだ。天井も照明がむき出しになっていて、発光体は見慣れぬ管球の形をしていた。

 窓の外は曇っている。あれから天気が崩れたようだ。灰色の雲を見ているとゴルフ場での日食を思い出した。


――いったいどのくらい時間が経ったのだろう?

 マイクロチップの記録によると、なんと家を出てから二七時間経過していた。

 右足にはギブスが嵌っている。骨折をしたのは何十年ぶりだろう。それにしてもここはずいぶん未開の地のようだ。趣味以外で人が車を運転する地域が、まだ日本にあったなんて心底驚いた。


 窓の外をボーっと見ながら考えていると、ドアがノックされて木乃美と成人した女性が入って来た。

「この度はうちの娘の命を救ってくださってありがとうございました」

 どうやらこの女性が木乃美が言っていたお母さんらしい。

「いえ、それにしても人が車を運転するなんて危ないですね」

「えっ、ああそうですね。運転していたのは八八才のおじいさんだったらしいの。最近高齢者の交通事故が多くて本当に怖いですね」


――八八才、高齢者?

 なんだかピンと来なかった。八八才なんて私の年齢の三分の一に満たない。第一それで高齢者なんて呼ばれたら、世の中は高齢者だらけになる。

「三上柊一と言います。あのお名前を聞いてもいいですか?」

「あら、ごめんなさい。ご挨拶がまだでしたね。私は木乃美の母で、秋永志津恵しづえです」

 こんな小さな子供がいれば母親は一緒に暮らすのかと思った。私の両親はそれぞれ離れて暮らしていて、最後に会ったのは二十年前だ。

 それにしてもかなり年取ったところで、年齢コントロールをかけているのを不思議に思った。普通の人は二十代の前半で年齢を止めるのに、やはり子供を育てるのにはこのぐらいの方が都合がいいのかなどと思ったりした。


「木乃美ちゃんは大丈夫だったのですか?」

「はい、おかげさまで膝を擦りむいた程度で済みました。柊一さんのおかげです」

 志津恵は本当に嬉しそうな顔をした。まあ、車と衝突しても脳さえ損傷を受けなければすぐに治る。

 ただ木乃美がうまく頭部を守れるか心配だったので、身体が反応してとっさに庇ってしまった。

「ところで日食の後、何が起こったのか記憶がないんです。教えてもらえますか?」

「日食……」

 志津江が戸惑っていると、木乃美が答えた。

「先生が一昨日日食が起きたって言ってたよ。でも日本からは見えなかったらしいけど」

――日本からは見えない……

「そう言えばテレビで言ってたわね。南半球で日食が見えるって」

――南半球……

 話の食い違いに言葉が続かなかった。何かおかしい。疑問が頭を占領していく中で、志津恵より少し年上に見える白衣を着た男が、看護師と一緒に入って来た。

「気が付かれましたか。木乃美の父で、秋永慎二しんじと申します。この病院の内科でドクターをしています。娘を助けていただいてありがとうございました」

 慎二は浅黒く引き締まった肌で精悍さを感じる顔立ちだったが、細くて垂れた眼が柔和さを醸し出していた。


「そんなたいしたことはしていません。ところでどのくらい入院になりそうですか?」

「交通事故なんで頭は調べときたいですね。背中は幸いにも打撲で済んだので、右足の骨がつながるまで二週間ぐらい入院になります。その後は退院しても結構です」

――二週間、そんなにかかるはずがない。マイクロチップが骨の再生機能を強化するはずだし、せいぜい全治まで三日というところか。


 私はこの善良そうな医師は、あまり高い能力ではないと判断した。

「こちらが骨折の写真です」

 秋永がレントゲン写真が映ったタブレットを差し出してきた。その写真には足首の骨に生じたひびがはっきりと見て取れた。私は何気なく撮影日時を見て息を飲んだ。

――二〇二〇年五月十日、二〇二〇年? 二一世紀、千年前の日付だ。


「このタブレットの日時は狂ってないですか? 旧式みたいだし」

「えっ、今日は五月十日で合ってますよ。それにこのタブレットは最新モデルです。つい最近旧型を一新したばかりですから」

 秋永は屈託のない笑顔で否定する。

「今日は、二〇二〇年五月十日で間違いないですか?」

「ずっと寝ていたから日にちの感覚が狂ってるんだな。君は丸一日寝ていたんだよ」


 とんでもない事態に陥っていた。公園で目が覚めてから何かおかしいと思った。位置情報を掴もうと思っても、マイクロチップはサーバーに接続しない。大気もクリーナーが掛かってないせいか異臭がする。様々な違和感の理由がはっきりした。

 どうしてこんなことに成ったのかよく分からないし、二一世紀にいることがまだ信じられないが、それでもタイムワープしたのだと私は確信した。それならば今まで見てきた様々な矛盾の説明がつく。


 私はタイムワープ理論について、マイクロチップに照会した。

 二〇世紀にアインシュタインが提唱した相対性理論を下敷きにして、ミンコフスキーが空間を示す三つの次元と、四つ目の軸である時空を加えた幾何学モデルを示した。

 そのモデルでは、現在の空間の一部分を維持したまま、時空を行き来することが理論上可能とされている。

 但し、時空は光速で進むため、光速を上回る速度で移動しないと、時空を移動することはできない。三一世紀でも光より早いスピードを持つ粒子は見つかってないため、タイムワープは事実上不可能とされてきた。


 ところが二七世紀の数学者カイマンによると、ミンコフスキー空間は一つではなく、時間軸の異なる多数の空間が存在するとされた。

 これにより五次元目の軸が提唱され、何らかの方法でその軸を超えれば、光速を超えなくても、時空の違う次元に移動することが可能だとされた。


 またカイマンは強い重力の影響下では、ミンコフスキーの提唱した空間は、時空が歪むことを示した。歪んだ時空間は多次元と複数の境界面を接するようになる。

 さらに境界面同士の接面に物体があると、その物体は次元をすり抜けて、他の時空間に飛ぶことも提唱された。

 移動先の次元は元居た次元と違う空間なので、移動してきた人間が他の空間で何か事を起こしても、元の時空に影響は与えない。つまりタイムトラベルのフィクションであるような、過去を変えることによって未来が変わることはないとされた。


 これらは全て理論上の話であり、現実に体験した者はいない。実験したくても地球上には、地球より大きな質量を持つ物体が存在しないため、人為的に強い重力を発生させることができないからだ。


 これ以上の詳細はサーバーにアクセスできない現状では知りようがないが、ここで自分の起こした行動が、千年後の未来に影響を与えないと確認して安堵した。つまり偶然自分が消滅するようなことはないのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る