4.

 ひどく、寒い。

 腹が減って、ぎりぎりと痛む。

 手足が冷たくなって、心まで凍り付いてしまいそうだった。

 けれども己を奮い立たせ、刀を杖にして、震える足で歩みを進める。休息が必要だった。少しでも落ち着ける場所を探して、わたしは歩いた。まだ、消えるわけにはいかない。まだ、わたしは何も果たしていない。果たすべしと心に刻んだ使命が、命を燃やして生きよと叫ぶ。──でも、何のために?

 ……ふと気づけば、わたしは神社の境内にいた。落ち着く場所だと思った。聞こえてくるのは、風の音と猫の声だけだ。


「──────」


 不意に懐かしい声がして、わたしは思わずはっと顔を上げた。とても温かい声だ。優しい声だ。それはわかる。だのに、その声がなんと言っているのかわからない。その声の主が誰かもわからない。まるで水の中で聞く音のように、くぐもっていてよく聞こえない。


「──────」


 わたしは、もう一度目を閉じることにした。諦めたのだ。目を開けていたところで、どうせ何も見えやしないのだから、と。

 



 襤褸が、風もないのにもぞもぞと蠢く。

 よくよく見れば、それは襤褸などではなかった。泥に汚れた襤褸を被った、骨と皮ばかりの子供だ。彼を憐れむ余裕はなかった。わたしもきっと、同様の姿をしている。突然襲ってきた「恐ろしいもの」——それに「いくさ」という名前があったことを知ったのはずっと後のことだったが——に、家も食べるものも奪われて、ただ死を待つだけの獣。それがわたしだった。そしてわたしの眼前で死にかけている子供も、同様だ。

 黙っておけば静かに死ぬだろう。だが、そんな末路を辿ろうとする二つの影に、酔狂にも手を差し伸べる二人の男がいた。


「よく生き延びた。強い子だ」


 浅葱色の羽織を着た男が、襤褸の子供を抱き上げる。痩せ細った顔に表情はなく、かろうじてその目に、諦念と悲しみだけが滲んでいる。それを眺めるわたしを、白い羽織を着た男が持ち上げた。

「猫又か? 妖魔の類いだろう」

「魔性といえど、消えかけている命には変わりあるまい。こやつは私の家で引き取ろう。娘のよい遊び相手にもなってくれるはずだ」

 そう口にする男の手は、とても温かかった。


 わたしは、家族というものを知らない。

 母の胎から生まれ出で、目を開いてから、わたしはずっと天涯孤独の身だったからだ。けれど──いや、だからこそ、彼らのような存在を家族と呼ばずして何と呼べばよいのか、わからない。

 白い羽織の男は、紅葉の美しい街道の外れで、剣術の道場を営んでいた。古より代々受け継がれてきた、剣術の師範代であるという。獣に剣など必要ないが、彼は時々わたしを膝の上に乗せて、己が流派の歴史を語ってくれた。

 男には、まだ幼いサクラという娘がいた。私が目を離すとすぐに転んだり、物を失くしたりして、ひどく耳に障る不快な大音声で泣き喚いた。本当にうるさい子供だった。食い殺してしまおうかと思ったのは、一度や二度の話ではない。

 だがまあ、長らく共に過ごせば情は湧く。数年の年月が経つ頃には、彼女の膝の上で眠っている時間こそが、わたしにとってはいつしか一番の幸せになっていた。


「アズサはサクラの妹だもんねえ」

 違う。妹はサクラのほうだ。そう抗議しようにも、にゃん、としか鳴けないのが、もどかしかった。わたしが人に変じられたなら、思う存分妹扱いしてやるのに。



 サクラに友人ができたのは、ある春のことだった。いつか見た、あの浅葱の羽織の男が、小柄な少年を伴って、街道外れの道場を訪ったのだ。考えてみれば、自然な話である。彼は師範代と、元々旧知だったのだろうから。そしてやはりと言うべきか、浅葱の男の傍にいるのは、いつぞやの骨と皮ばかりだった子供である。顔や体に肉も付き、多少は人らしい姿になった。少なくとも、もう襤褸と間違えることはないだろう。


「これは特別に筋が良い。サクラ殿も、どうか鍛えてやってほしい」

「もちろんです、おじさま」


 よろしくね、と言ったサクラに、少年は屍のように虚ろな視線を向けたままだった。それが無性に腹立たしかったので少しばかり引っ掻いてやったら、彼の顔には初めての感情が浮かんだ。それを見て、サクラはくすりと笑った。

「アズサがごめんね。わたしはサクラ」

「………………」

 ろくに聞き取れないほど小さな声だったが、かすかに、タケル、と名乗ったのがわかった。

 


 それから、きっと十数年の時が流れたのだろう。魔性の生き物であるわたしにとって、時間の流れというのはとても曖昧なものだ。けれども気づけば、サクラは美しく、強い女に育っていた。……わたしが目を離していればすぐに転んだりものを失くしたりするのは、何も変わらなかったけれど。


「……ねえ、アズサ。タケル殿はいつ来られるのだろう」

 それはわたしではなく、直接相手に聞くべきではないか。伝える術がないので、適当に欠伸をしておく。


「もう、アズサったら」

 ……近頃のサクラは、タケルを前にすると様子が変わる。右手と右足を同時に出しかねないほどに緊張するのだ。初めはタケルが何かをしたのではないかと疑ったが、そうではないらしい。彼女の胸の中にある感情の正体を、わたしは知らないが……どうやら、二人の間には、縁談があるのだという。つまり、二人は遠からず祝言をあげてつがいになる、ということだ。

 けれども、まあ……サクラとつがいになるのをわたしが許すとしたら、それはタケルくらいのものだ。いけ好かない奴ではあるが、文句のつけようのないほどに強い。サクラを守るには何の支障もないだろう。暗かった性格も今では不遜なほどに明るくなって──それが良いことだとは限らないが──時々、気が向いた時に煮干しもくれる。昔、自分と共に飢えて死にかけていたわたしを、覚えているのかもしれない。

 ……決して、懐柔されているわけではない。

 道場の門扉のほうから聞こえてくる足音に、サクラがはたと顔を上げる。

 本当にわかりやすい娘だと思った。

 


 ……二人の祝言が行われるはずだった、ある秋の朝。クロサギ城から遣わされてきた見届け人の眼前で、普賢一刀流と飛鷹奉天流の看板を掛けた果たし合いが行われた。

 飛鷹奉天流の名を負うサクラの表情は、爽やかで晴れやかだったが、対する普賢一刀流の名を負うタケルの顔は、陰鬱で、しかし何か一念を決したようなものであった。


「……最期の勝負をしよう、サクラ」

「はい。……いざ」


 サクラが微笑み、タケルは目を逸らす。

 道場の外からは、烏の声が聞こえていた。双方の手に握られているのは、真剣である。道場主は道場を血で汚すわけにはいかぬと訴えたそうだが──それに耳を貸すほど領主は慈悲深い男ではなかった。


 サクラが大太刀を振り上げ、タケルがそれを受けんとしたのを見た。それは互いの命を狙う一撃ではあったが、あくまでも戦いの幕を切るための、最初の一手だ。

 だが、いかなる手妻か。或いは、予め仕込んでおいたのか、それとも剣の妙の為せる業か。サクラが振り下ろした大太刀は、皆の眼前で、めきりと音を立てて曲がった。

 あれは、業物だ。簡単に折れ曲がるような代物ではない。信じがたい出来事に一瞬の隙を作ったサクラに峰打ちをくれてやると、タケルは淡々と、言葉を紡ぐ。


「決着はついた。この勝負、我が普賢一刀流の勝ちだ」

「まだ、女は死んでおらぬぞ」

「折れた刃しか持たぬ女を斬り捨てるのが、サムライの誇りか。笑わせる。斯様なものは犬にでも食わせておけ」

「……此度の件は親方様にしかと報告しておくゆえ、心しておけよ」

 わたしは、それを見ていた。

 わたしは、すべてを見ていた。

 


 こうするしかないのだ、と敗者は言った。紅葉街道の美しい橋の上で、彼女はわたしを抱き上げて、寂しそうに微笑んだ。


「父祖が守ってきた飛鷹奉天の名を汚して生きてゆけるほど、わたしは図太くあれない」

 サクラは欄干に腰掛け、困ったように微笑んでいた。

「それに……わたしが生きながらえたせいでで、普賢一刀流の人々に何かあれば、タケル殿に顔向けできないから」


 彼女が懐から取り出したのは、匕首だ。


「折角、あの人がくれた命なのに、わたしはとんだ恩知らずだな」

 抜き放った刀身を見遣り、彼女は呟く。


「ああ、わたしは、普賢一刀流に敗けたのだ。けれど——」


 彼女が何をするか理解した時には、もう遅かった。抜き放った匕首は彼女の首を深々と切り裂いて、街道の紅葉の如く鮮やかな色の飛沫が舞った。


 わたしは、それを見ていた。

 わたしは、すべてを見ていた。


 欄干に残った血だまりに、舌を伸ばす。

 それはわたしが持つ魔性の血に馴染む、凄絶な美味であり、どうしようもない悲しみの味だった。

 ……魔力が満ちる。

 今のわたしなら、人の身体に化けることも容易いだろう。けれど、言葉を伝えたかった相手は、もうこの世界のどこにもいないのだ。

 


 そのすぐ後だ。彼女を殺したタケルが、立場も、家族も、道場も、何もかもを捨てて行方をくらましたのは。

 後になって聞いた話では、戦場にふらりと現れては、まるで飢えを満たすかのように巳の国の兵を斬り捨てる男の噂があったようだが——その生死は明らかではないという。


 ぶつけどころのない憎悪を抱いて、わたしは長らく暮らした住処を後にした。あの穏やかな日々は、もう二度と戻らない。



 ——初めは老人だった。

 長年共に過ごしたからか、サクラの姿を模倣するのは、そう難しいものではなかった。彼女の姿で、普賢一刀流を斬る。それでこそ意味がある。わたしはサクラの遺した刀の一振りを握って、見様見真似で刀を振るった。

 無論、そんな付け焼き刃で勝てるわけもなく、わたしはあっさりと敗れ去ることになった。老人はわたしの本性を見て、取るに足らぬ畜生が化けて襲ってきたのだと断じ、殺さなかった。わたしはまた狂ったように剣を振るった。


 次は青年だった。普賢一刀流の門弟だというから、勝負を挑んだ。呆気なく打ち倒されて、また剣を振るった。次に戦った少女は容易く倒すことができた。しかしこの子供を殺したところで、なんの恨みも晴れぬことに気がついて、剣を納めた。

 やはり殺すべきは、普賢一刀流——その跡を継ぐ者たちだ。タケルを。タケルの剣を、魂を継ぐ、普賢一刀流の嫡男を!

 

 

 ……そうだ。殺さなければならない。こんなところで休んでいる暇などないのだ。

 彼女の血を口にしたその時から、彼女の姿を得たその時から、わたしを突き動かす目的はただ一つだけ。

 飛鷹奉天流の——彼女の誇りを汚した普賢一刀流を滅ぼす。

 彼女に多大なる恥辱を与えたあの忌まわしい剣を継ぐ者たちに、わたしが裁きを下すのだ!

 


「──アズサ」

 ——その名が誰のものだったのか、思い出すのに暫しの時間を要した。

 その声を放ったのがあの普賢一刀流の青年でなかったら、ずっと昔、他でもないわたし自身がそう呼ばれていたと言うことを思い出せはしなかっただろう。

 浅葱の羽織。秋の稲穂のごとき色の髪。タケルではない。だが、どうしてもそこに重なる面影がある。怨敵の、かつての友の──。


「ああ……そうだった」

 わたしは、サクラではない。サクラの姿を借りただけの、血に塗れたけだものだ。

 アズサというのは、サクラが私に与えた名前だ。わたしを抱きしめた少女の手を思い出す。何百年も失われたままだった記憶が、その名と共に蘇る。


「忠義者よな」

 眼前に現れた普賢一刀流の男は、感心したように微笑んだ。その面差しはやはり、いつかの日の少年の顔に、ほんの少し似ているように思えた。


「数百年の時を、主人の復讐のために生き続けたとは」

「……なぜ、サクラを殺さなかった。普賢一刀流……」


 長い長い、永劫とも言える旅の果てに立った今ならば、わかる。サクラとタケルの間には、間違いなく温かな情があった。二人の家の間に蟠っていたものは、知る由もない。時の権力者が、何か厄介なことを言ったのかもしれない。けれど、二人が祝言を挙げさえすれば皆が幸せになると、彼女の父も、母も、祖父母も他の門弟も——皆がそう信じていた。信じていたのだ。

 その日、彼女がタケルの前に立つまでは。


「彼女を殺さなかった理由など、考えずともわかるだろう。お前の主人でさえ、それはわかっていたはずだ」


 思い出す。

 倒れ伏したサクラを見下ろす、タケルの表情を。見届け人の役人に凄む、タケルの顔を。そこには寸毫ほどの悪意もなかった。あったのは、ただまっすぐな、混じり気のない……


「愛していたのだ。殺したくないと思うほどに」


 瞬間、わたしは、長らく目を逸らしてきた現実を、突きつけられた心地がした。

 サクラは己の誇りを。タケルは己の愛を。ただ、貫き通しただけだったのだろう。そこにどうしようもない遣る瀬無さはあれど、きっと後悔はなかったのだ。


「……最期の勝負をしよう、『サクラ』」

 普賢一刀流の男は。

 刀を抜いて、快活な笑みなど浮かべてみせたのだった。



 互いの首を懸けた、果たし合い。

 勝敗を見届けるために三人の立会人がいて、真剣を携えた男がいて、女がいた。

 過去への遡行は、アルドたちにとってはちょっとした冒険であったが、どうやらそう長い時間は経っていないようだった。シオンとアカネの兄妹は、道場に戻った二人を見て無事を喜んだ。これからあの化生との決着をつけに行くのだと告げれば、厳しい顔で同行を申し出てくれた。

「大丈夫なのか、シグレ」

「なに、勝算ならばある」

 タケルに斬られたためか、イザナであれほどまで感じた凄絶な妖力は消え果てている。今や人間の姿を保つのでも精一杯なのだろう。恐らく今ならば、刃は届くはずだ。そう、シグレは思う。


「シオン、アカネ。俺に何かあったら、おやじ殿に——」


 真剣な面差しのシグレの眼前に、シオンが拳を突き出す。

「勝って戻れ」

「……そうだな。任せておけ!」

 シグレは右の拳を突き出して、シオンのそれにこつん、と打ち当てた。


 雲が晴れ、薄く曇った陽光が、女の顔を照らし出した。そこには迷いもなく、怒りもない。森を流れる清流の如き涼やかな双眸が、ただ正面の敵を見つめていた。


「我が名は、飛鷹奉天流が嫡子——サクラ」

 彼女の剣先が持ち上がり、上段で陽光を纏う。

「一手、馳走仕る」

 対するシグレもまた、正眼に構えて敵を見据える。寸毫の雑念もない、鋭い視線であった。

「普賢一刀流免許皆伝、シグレがお相手致す」


 誰もが固唾を飲んで、幕が切って落とされるのを待っていた。朝靄と静寂の中で、ほんの一瞬とも、永劫とも取れるような時間が過ぎてゆく。

 イザナで剣をぶつけ合い、そして過去で目の当たりにした今ならば、飛鷹奉天流がいかなる剣術かもわかる。あれは、一撃の重さに全てを懸ける必殺の剣だ。であれば、後の先を取って受け流すことは決して容易くないだろう。ひらりと躱せるのならそれが最適の解であろうが、一撃必殺を掲げる以上は、シグレが躱せぬ機を狙って仕掛けてくるであろうし、仮に上手く交わしたところで返しの一撃を喰らうのは火を見るよりも明らかだ。


 なれば、どうする。この正念場において、彼の頭は凄まじい速さで思考を、試行を、繰り返していた。


 先手を打つか——否。一撃の重さで劣る以上、攻防一体の技をもって返される。

 ならば敵の一撃を誘い、その隙に斬るか。——否。小手先の策など、眼前の女剣士には決して通じぬだろう。


 ならば。

 無限とも思える試行の果てに、採るべき手は定まったと、シグレはわずかにその頰を緩ませた。そして攻め手を考えていたのは対手とて同じこと。彼女もまた、シグレがいかなる手を見せるのかを試行し続けているのだろう。微笑を交わす男女の様子はまるで、数百年を経た恋人たちの逢瀬のようですらあった。

 誰もが固唾を呑んで、瞬きもせずにそれを見ている。その静寂を破ったのは、一陣の風であった。揺れる樹木を雀が飛び立たんとする——その瞬間。

 一歩を踏み出したのは、シグレであった。


 衝突はほんの一瞬。


 玄人でなければ、その瞬間を視認することすらかなわなかっただろう。彼らが理解できるとすれば——サクラの刀が折れたという結果だけだ。


「あの一瞬を狙っていたな」

 シオンはそう呟き、引き結んだ唇の端を珍しくも緩めてみせた。

「どういうことだ……? 今、シグレがサクラの刀を折った……んだよな?」

「はい。シグレ殿がガッと踏み込んだ時に、敵の刀をこう、めきっとですね……」

「……交錯の瞬間、魔力を纏わせて刀身を強化し、敵の剛剣を破壊する——私たちの父祖が編み出した、そして試合においては禁じ手とされた、普賢一刀流が奥義の一つ」


 普賢一刀流には、いくつかの禁じ手がある。臑や股間といった急所への斬撃——そして、相手の得物を破壊する行為。だが、これらはあくまでも、人を相手にした試合での禁じ手だ。命の奪い合いとあらば、それに拘泥してはいられない。シグレは何の躊躇いも見せることなく、それを破ってみせた。


「この技を選ぶより他なかった。どんな手を使ったところで、お主には通用しなかっただろうからな。人の血を吸い過ぎたお主の剣が、鈍っていたのが幸いした」


 シグレは刀を鞘に納め、いまだ茫然としている女に語り掛けた。


「……先刻道場で書物を漁ってきたが、これはタケル様の編み出した剣だという」

「………………」

「お主の主人を、殺してしまうと考えたのよ。普賢一刀流が、飛鷹の剛剣を殺さずにして封じるには……あの方の技量をもってしてもその刀を破壊するより他なかったのだ」


 サクラの、否、アズサの小さな手から、折れた刀がぽろりと落ちる。そして、彼女の手そのものも——桜花のごとく、欠片となって崩れてゆく。女の顔は、まるで涙を流すかのように、笑っていた。


「誇れ、飛鷹奉天流の継承者よ」

 シグレは豪放に笑い、女の細い肩を叩いた。

「お前は、この折れた刀をもって、己が剣技の最強を証明したのだ」


 季節外れの桜吹雪が、朝靄の晴れた明け方の空に消えたときには、すでに女の影はなく。そして、女の本来の姿であったはずの、猫の化生さえもおらず。

 ただそこには、淡い燐光の残滓だけが残されたのだ。



「……それにしても、酷いよなあ、ゲンシン様も。褒美を取らすなんて言っておいて、箱の中身はゲンシン様の似顔絵とは」

「あの下衆に何かを期待するだけ無駄よ、アルド。というか、俺たちに褒美を取らせている暇があるのならイザナの復興に力を尽くしてもらいたいものだ」

 シグレは茶屋の団子を口いっぱいに頬張り、一言、うまいと呟いた。


 事はアルドたちの口を通してゲンシンに伝わり、巳の国を騒がせた妖怪騒ぎは落ち着きを見せた。

 シグレは父、そして祖父や他の門弟とともに、すでに失われた飛鷹奉天流の娘の菩提を改めて弔った。大元の原因である怪異を討った以上、彼がサクラの夢を見る事は、もう二度とないだろう。


「それはそれで、まあ少し残念と言えなくもないが」

「本気で言ってるのか……」

「ははは、本気も本気よ。あのようなサムライとまた立ち会えるのならば、これ以上のことはない」


 だが、とシグレは傍を見遣る。誰のものとも記されていない小さな墓石の前には、線香と、紅葉街道のみたらし団子、そしてシグレが父祖から預かった、煮干しの入った巾着袋が供えられている。


「ようやく安らかな眠りを得た者を、起こしてやろうとは思わんさ」





 ……闇の中、誰かの声がして目が覚めた。

 懐かしくて、温かい声だ。

 わたしは、この声を知っている。


「アズサ、おいで」

 そうだ。わたしの名前はアズサ。

 声のするほうを見れば、そこには微笑む少女の姿があった。彼女の笑った顔なんてすっかり忘れてしまっていたのに——けれど、思い出せてよかった。やっぱり、サクラは笑っていた方がずっとかわいいのだ。


 彼女のそばには青年の姿があった。浅葱の袴を纏った、いかにも捻くれ者といった顔の男だ。けれどもサクラとわたしを見て、彼はその顔に似合わない、安堵したような笑みを浮かべている。その顔を見るだけで、ああ、自分はこれでよかったのだと、そう思えた。


 片膝をついてしゃがみ込んだサクラの胸に、脇目も振らずに飛び込んで、その胸に頰を擦り付ける。

 わたしは一声、にゃん、と鳴いた。



(了)

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相克剣御伽草子 銀鮭 @ajax_the_great

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