狼と豚

宇佐美真里

狼と豚

「オオカミなんか、こわくない…こわくない…こわくない…」

歩きながら其う口遊んでいた私は、昔ながらの雰囲気を持つ或る喫茶店の前に辿り着いた。此処が待ち合わせの相手の指定して来た場所だ。目の前の重い木の扉を開ける。カランカラン…と扉の上部に掛かるドアベルが低い音を立てた。扉を内側に入る前に一度、後ろへと振り返り、誰か知っている者に見られていないかと周囲を確認する。


扉を開けると其の足元は、一段二段と階段を降りる様になっていた。階段をフロアへと降りる前に、今度は店内を一望する。店の一番奥の目立たぬ席で、私は待ち合わせの相手を見つけた。其の相手は俯いたままで、ドアベルの音にも、入って来た私にも気付いて居ない様子だった。私は近づいて行った。


深くソファに腰を落としテーブルに肘を付く大柄な其の者の傍らに立つと、私は声を掛けた。

「ごめんなさい。待たせてしまったみたいね?」

待っていた者は、相変わらず首を垂れたまま、私に言った。

「まぁ、掛けてくれよ…」

其う告げるとテーブルの向かいのソファを指し示す。私はソファへと腰掛けた。大柄な其の者とは違い、小柄な私が腰を落とすと、私の身体はソファの中に沈み込む様だった。足がフロアから浮く。バランスを僅かに崩し足をばたつかせていると、正面の相手は大丈夫か?と声を掛けてくれた。

「えぇ、大丈夫…。其れで?」

私は、注文を取りに来たウェイターに紅茶をオーダーした後で、正面に座る相手へと尋ねた。


「もう終わりにしたいんだ…。もううんざりなんだよ…」

正面の其の者は言った。


「そうね…。不毛だものね…」

私の其の言葉にようやく、彼は首を上げて此方を見た。鈍く光る小さな目が私を捉える。黄色い小さな瞳に私が映るのが見えた。其の表情には苦悩が滲み出ている。


「俺たちオオカミは、いつまで経っても悪役なのか?」


其う…。私の目の前に座る大柄な者はオオカミだ。

「パブリックイメージなんて、其んな物よ…。私たちだってよく言われるわ…『なんて汚いのかしら…』ってね」

其う、彼はオオカミ。其して…私は、ブタ。

「『この豚野郎!』って彼方此方で耳にするじゃない?私たちブタは"不潔"で"欲張り"の象徴なのよ…。現実とは違っていたって、其んなことは何ら関係がない…」


私たちブタには汗腺がない。身体に溜まった熱を発散する為に、土などに身体を押し付け、泥を体に塗りたくり、体温を下げる…。元々ブタの祖先は、常に水場が在る谷間や木陰に住んで居たのだ。水溜まりが在れば、水浴びをする。けれど、なければどうするか?とりあえず身近に落ちている物…自分の糞や尿などに体を押し付けて、体温を下げる他に方法はない。

其の様子を見て、ヒトは「まぁ、なんて汚いのかしら!」と叫ぶのだ。

自分たちのことを棚に上げてヒトは、汚い部屋を『豚小屋』と呼ぶ…。


「私からすれば、ヒトの方が余程ブタよりも汚いし、貴方たちオオカミよりもずる賢い…」


ウェイターが紅茶をお盆の上に載せ遣って来て、私の前に置いた。テーブルの上で空になったオオカミのコーヒーカップに目を遣り、「お代わり、お持ちしましょうか?」と訊いた。「あぁ、お願いするよ…」オオカミは頷く。

ウェイターが去ると同時に、私に目を遣ることもなく彼は再び口を開いた。


「ヒトのことはどうでもいいんだ…。俺たちのことさ…」

「其うだったわね。私たちのことね…」


「俺たちオオカミは、其の昔、確かに好き勝手やって居た…。其れこそ爺さんたちの世代は酷かった…」


ウェイターがテーブルへと戻って来て、彼のカップにコーヒーを注ぐ。其の間、オオカミは口を閉じる。私は、続きを彼が語るのを待った。

「ごゆっくり…」其う言って、ウェイターはさり気なく、私と其の目の前に座るオオカミの両方を一瞥してからテーブルを離れる。オオカミが続けた。


「爺さんたちの世代のことさ。あの忌まわしい『三匹の子豚』も『赤ずきん』も『七匹の子山羊』も…」


暴虐の限りを尽くしたとされる二つ前の世代のオオカミたち。

正に、行く道を塞ぐことの出来る者など誰も居なかったと、私たちは幼少の頃から聞かされて育った。私の祖父は「オオカミは悪魔だ」と日々口にし、「オオカミには近づくな」と父も私に教えて来た。幼い頃に聞かされた話の数々に私も恐怖した。だが、歳を重ね自分自身、色々と調べてみるうち、其の数々の"悲劇"の中に事実でない物も大いに含まれていることに、私は気付かされた。


"お話"では、三匹の子豚の"勇敢な"末弟は、兄たちを食べてしまったオオカミを懲らしめつつ最後には"温情"を持って逃がしてやった…。其う伝えられているが、どうやら事実は煮えたぎる鍋一杯の熱湯でオオカミを釜茹でにし、料理して食べてしまったらしい…。なんと残酷…。


其の最後のエピソードを、私は祖父からも父からも一度として聞かされたことはない。悪いのはオオカミ。残酷なのはオオカミ。可哀想なのはブタ。不幸に見舞われながらも温情を与えたのがブタ…。其う教え込まれて来た。

オオカミは変わらない…。昔も今も悪いのはオオカミ。其う私たちは伝えられる。だが、オオカミも制裁は受けたのだ。謝罪もした。

ブタも"目には目を"と"非道"に走り、やり返したのが事実だ。

其れなのに、誰も其れには触れようとしない。都合の悪いことは口にしない。


「俺たちオオカミの非道の数々は認めるさ…当然のことだ。過去は忘れない。だが…」

目の前に座る、私と同世代のオオカミは口籠る。


彼が口籠る理由は分かる。彼が言ってしまうのでは角が立つ。

私は彼の言葉を引き継いだ。

「だけれども、"怨念"を次の世代に継承する必要はない…」

彼がゆっくりと頷く。

「もう終わりにしましょうよ…私たちの世代で」

私は正面に座る、"加害"世代とは別の…"新たな世代"に言った。

「そうだ…。不毛なだけだからな…」彼も答えた。


私はカップに残る紅茶を飲み干しながら、誰にも見られない様に狐鼠狐鼠と此の店に入って来たことを恥じた。オオカミの彼から連絡を貰い、其の意図を理解したつもりで居ながらも、会うことを誰にも知られたくないと僅かながらにも思ってしまって居たのだ。其んなことは不毛だと言いつつ、"怨念"は私の中にも深く沁みついてしまって居た様だ…。


「大変だろうけど…」と溜息交じりにオオカミは呟いた。

ある意味…平和だった此れまでとは違い、此の先暫くの間は"困難"が私たちの間に再び立ち塞がるに違いない。

「でも、終わりにしなければ…ね?」私は自分自身に言い聞かせた。


彼はウェイターを呼んで会計を済ませる。

遅れて来たのは私だから…と私が支払いをしようとするのを、彼は首を横に振って拒んだ。

「ご馳走様…」彼の好意に甘んじよう。


私たちはソファから立ち上がった。二人揃って店を出る。

別々に其の扉を開けて入って来た時とは違って、今度は一緒に。


カランカラン…と、ドアベルが鳴った。



-了-

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